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『ハンニバル・バルカ/
第1章 第1次ポエニ戦争』

 「アルプス越え」と聞いただけで、歴史好きの方はすぐピンと来る英雄がいる。カルタゴの将軍ハンニバルである。正式名は「ハンニバル・バルカ」、ポエニ語で「バアルの恵み」を意味している。「バアル(雷光の意)」とは、カルタゴの守護神のことである。また「ポエニ」とはカルタゴ人を指す言葉である。カルタゴはローマと敵対し、国が滅亡するまで戦い続けた。その戦いは「ポエニ戦争」と呼ばれている。「第1次ポエニ戦争」、「第2次ポエニ戦争」、「第3次ポエニ戦争」まで続いた。このエッセイの主人公である将軍ハンニバル・バルカは、第2次ポエニ戦争で将軍としてカルタゴ軍を率いたが、その後も、彼の軍事キャリアは他国でも生かされている。
 これから、その長い戦いの歴史を書いて行くことにする。
 先ず、ローマとカルタゴの政体について少し触れて見よう。
 一口にローマと言っても、時代の変遷を経てその統治形態が変わっている。
 ローマは、紀元前753年から紀元前509年までを「王政ローマ」、紀元前509年から紀元前27年までを「共和制ローマ」、紀元前27年から西ローマ帝国が滅亡するまでを「帝政ローマ」と呼ばれている。  そしてカルタゴも、紀元前814年以前はフェニキア本国(現在のレバノン)での交易を中心に活動を行っていた都市国家であった。その後紀元前814年から紀元前480年頃までに独自の政治体制を発展させて、王制や貴族による寡頭制の要素を含む、「王制・寡頭制カルタゴ」とも呼ぶべき時代を経て、紀元前480年から紀元前146年にローマによって滅亡するまで、「共和制カルタゴ」と呼ばれた。ローマの征服後、かつてのカルタゴの地はローマ人、アラブ人、そしてオスマン帝国の影響を受けながら発展し、現在のチュニジアとして繁栄し、別の意味で「新カルタゴ」として重要な商業拠点として栄えた。
 この章で書く「第1次ポエニ戦争」は、紀元前264年から紀元前241年の間に行われた戦いである。時代区分で言えばローマの政体は「共和制ローマ」時代であり、カルタゴの政体は「共和制カルタゴ」の時代であった。
 伝説によれば、フェニキアの都市「ティルス(現在のレバノン)」で、王女ディードー(エリッサ)は、兄ピュグマリオンに夫シケウスを殺害され財産を奪われた。紀元前814年、カルタゴはそのディードーが、兄の圧政から逃れ北アフリカの地に建国した国といわれている。現在のチュニジアの首都チュニスにあるチュニス湖東岸がその中心地であった。カルタゴは優れた造船技術や海上貿易のノウハウを持ち、地中海全域において貿易を展開し、北アフリカ、イベリア半島、シチリア島などに植民都市を築いた。彼らは広範囲な貿易ネットワークを構築し、豊かな国家として地中海世界にその存在を示していた。さらに、その経済力をバックに、強力な海軍力を保持し、地中海の西部域を支配していた。またカルタゴはフェニキア文化を基盤として、学問や芸術の中心都市として繁栄していた。
 それではこの共和制カルタゴが、何故共和制ローマと戦うことになったのか、それを探って見ることにする。
 第1次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)の発端となったのは、シチリア島の支配権を巡る争いから始まった。当時シチリア島は西部をカルタゴが支配し、東部はギリシア系の都市国家シラクサが支配していた。シラクサは独立した都市国家で、ローマやカルタゴと対立しながら独自の勢力を保っていた。そして北東部はシラクサから独立したカンパニア人の傭兵部隊マメルティニが占領して、独自の支配していた。このようにシチリア島は複雑な支配状況に置かれていた。
 紀元前288年、カンパニア人の傭兵部隊マメルティニが同島の都市メッセナを占拠して、現地の住民を追放したことから第1次ポエニ戦争は始まるのである。この行動に対して、シラクサの僭主ヒエロン2世が紀元前265年、傭兵部隊マメルティニを排除しようとしてメッセナを攻撃し劣勢となった。そこでマメルティニはシラクサに対抗すべく、ローマとカルタゴ両国に救援を求めたのである。カルタゴは迅速に動き軍を派遣した。しかしローマは、マメルティニを支援すべきか議論が起こり、結局カルタゴの勢力拡大を防ぐためにメッセナに軍を派遣したのである。これによってローマ軍とカルタゴ軍が対峙することになった。第1次ポエニ戦争の始まりであった。主にシチリア島とその周辺海域の覇権を巡る戦いであった。
 ローマ軍は強力な市民軍を有し、初期にはおよそ40,000の兵を動員した。さらにローマは、この戦争中に大規模な戦艦を建造し海軍力の強化を行った。
 一方カルタゴ軍は、もともと優れた海軍力を保持し、戦争初期には50,000の兵士を動員した。さらにカルタゴは傭兵を多く使用したが、特にスパルタ人の傭兵隊長クサンティッポスは有名であった。
 戦闘はメッシーナの争奪戦から始まった。
 ローマ軍はシラクサと同盟を結び、カルタゴへの本国からの補給路を断つために大艦隊で臨んだ。ローマは、カルタゴが強力な海軍力を保持しているために、これに対抗すべく新しく戦艦を建造した。その戦艦はカルタゴの3段櫂船(トリレーム)を参考にして、5段櫂船(クインクエレーム)を建造した。またその戦艦には、コルウス(カラス装置)と呼ばれる接舷戦闘用の装置をもうけた。コルウスは、幅約1.2m、長さ約10mの架橋で、先端に鋭い爪がつけられた。この爪を敵の甲板に打ち込むことで接舷を強固にして、兵が船に乗り込み接近戦で相手を倒すという役割を果たした。
 それではカルタゴ軍の3段櫂船(トリレーム)とローマ軍の5段櫂船(クインクエレーム)の諸元を比較して見よう。
 カルタゴ軍の3段櫂船は、全長約37m、幅約4m、漕ぎ手の数約170を3段に配置し、戦闘兵約30が乗船した。船首には衝角(ラム)が付いており、機動性を生かして敵船の胴体に体当たり攻撃を行い、破壊し浸水させる戦法が中心であった。
 これに対してローマ軍の5段階船(クインクエレーム)は、全長約45m、幅約5m、漕ぎ手の数約300を3段に配置し櫂を5人で漕ぎ、戦闘兵が約120乗船可能であった。
 この両船の大きな違いは、カルタゴの戦艦の戦術として、「ラムアタック」と呼ばれる、船首の衝角(ラム)を使い、敵船の胴体に体当たりして破壊または転覆させる戦術である。また「ディエークプラシス」は、敵艦隊の間を高速で突破して隊列を混乱させることで編成を崩し、個々の船を孤立させ連携を断ち撃破する戦術である。さらに「ペリプレウス」は、敵船の側面や背後に回り込み、敵に対して有利な位置を確保することで、防御の薄い個所を狙い攻撃を成功させる戦術である。カルタゴ海軍の3段櫂船は、これらの戦術を駆使して優れた戦闘力を発揮してきたのである。さらに、3段櫂船はこれらの多くの戦術に耐えうる能力と機能を兼ね備えているだけではなく、その建造費は比較的安価であり、漕ぎ手も無産階級の市民や奴隷などを活用して運用された。勿論この戦術を駆使するだけの漕ぎ手の熟練度や操船技術を磨き上げての結果であり、カルタゴ海軍の軍事力は他の国を圧倒していた。
 これに対して、ローマがカルタゴの3段櫂船を参考にして建造した5段櫂船の戦術は、前述したカラス装置(コルウス)で、相手の船に鋭い爪を打ち込み完全に接舷し、乗り込み白兵戦を行うことで優位性を確保する戦術であった。5段櫂船の乗員戦闘兵数は120で、3段櫂船の乗員戦闘兵数は30であり、戦闘兵の数もローマ軍が圧倒的であった。
 さて、ローマとカルタゴの間でいくつかの海戦があったので、それをみて見よう。
 紀元前260年「ミラエ沖の海戦」が行われた。この海戦は、第1次ポエニ戦争でローマ軍とカルタゴ軍との間で最初に行われた本格的な海戦である。主にシチリア島とその周辺海域が戦場となった。
 ローマ軍の指揮官はガイウス・ドゥイリウス(ローマの執政官)、カルタゴ軍の指揮官はハンニバル・ギスコがそれぞれ指揮をとった。ローマ軍の兵力は約90隻の艦隊、対するカルタゴ軍の兵力は約130隻の艦隊であった。ローマの艦船はカルタゴの3段櫂船を参考にして改良を加えた5段櫂船がメインであった。この船には前述した爪が付いたカラス装置(コルウス)が取り付けられており、敵船に接舷し爪を掛けることで固定し、海戦を陸戦に変えて乗り込み戦う戦術が取られた。一方カルタゴ軍は3段櫂船がメインで一部5段櫂船もあった。カルタゴの戦術は、船首につけられたラム(鋭い衝角)で敵船の胴体に体当たりして破壊又は沈没させる戦術が取られた。
 戦闘はミラエ沖で行われ、ローマはカラス装置でカルタゴ艦隊を捕らえ次々と攻撃を加え捕獲した。最終的にはローマ軍はおよそ30隻を捕獲し、およそ20隻を撃沈させた。この敗戦により、敵将ハンニバル・ギスコは残艦を率いて撤退した。ローマ軍の完勝であった。この勝利が、ローマの戦況を有利にし、第1次ポエニ戦争の重要な転機となったのである。
 紀元前256年に「エクモノス岬の戦い」が行われた。第1次ポエニ戦争史の中でも最大規模の海戦であった。
 ローマ軍の指揮官は、執政官ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス(第1戦隊)と執政官マルクス・アティリウス・レグルス(第2戦隊)である。その兵力は、約330隻の艦船(主力は5段櫂船クインクレーム)、兵士約140,000以上。カルタゴ軍の兵力は、約350隻の艦船(主力は3段櫂船トリレーム)、兵士約150,000以上。艦数や兵士の数はほぼ互角であったが、主力艦が違いお互いの戦術も違う戦いとなった。
 ローマの艦隊は第1戦隊が先頭を務め、敵の中央部に突進する役目を負い、第2戦隊は第1戦隊の後方を務め、第1戦隊と連携して戦うともに、敵船の陣形を乱す役目も負っていた。第3戦隊(副司令官クィントゥス・ウァレリウス・ファルトが指揮)は輸送船団の護衛と、戦闘の後方で補給や戦闘の支援も行った。この3つの艦隊に分かれて、シチリア南海岸に沿って航行した。
 一方カルタゴの艦隊は、指揮官はハミルカル(ハミルカル・バルカではない)、大ハンノである。カルタゴの艦隊は、ローマ艦隊を一線の弓状陣形で迎え撃った。これに対しローマ艦隊は第1戦隊と第2戦隊が、カルタゴ海軍の中央部に突進し防御を突破した。カルタゴの両翼はローマ艦隊の後方に回り込み、右翼戦隊はローマの第3戦隊に攻撃を仕掛け、左翼戦隊はローマの輸送船団に攻撃を仕掛けた。この戦術が功を奏してカルタゴの戦隊が一時的に優位な戦いを進めた。しかし、ローマの第1戦隊、第2戦隊は反転してカルタゴの艦隊にカラス装置で接舷し、5段櫂船の兵の収容能力の差もあり、海戦を陸戦のように戦うことを可能にして攻撃を行った。これでローマ艦隊は、カルタゴ艦隊に対して戦いを有利に進め、多くの船を拿捕、または沈没させ、最終的に圧勝したのである。エクモノスの戦いに勝利したローマ軍は、シチリア島の多くの都市を次々に攻略して、カルタゴの影響力を削ぎ落して行った。この戦いでアグリゲントゥムやパノルムスなどの重要な都市がローマの支配下になった。カルタゴは必死に抵抗し、リルバイウムやドレパナなどの都市は死守していた。この戦闘は長期化し、両軍の戦いはさらに10数年間継続された。
 紀元前256年「エクモノス岬の戦い」に勝利したローマ軍は、カルタゴ本土に上陸し、アスピス(現在のケリビア、チュニスから東に約100㎞の場所)近郊に軍事拠点を築いた。その後ローマ軍は全軍でカルタゴに向け進軍を開始した。その結果アディスの戦い(現在のウシーナ、チュニスから南に25㎞の場所)でカルタゴ軍を破り占領した。そして紀元前255年の春、ローマ軍はついにチュニスを占領した。しかし、カルタゴはスパルタの傭兵指揮官クサンティッポスを雇いチュニスの奪還作戦を行い、ローマ軍を撃破し奪い返したのである。
 その戦闘の状況は、クサンティッポスがカルタゴ軍の中央にファランクスを配備し、その前に戦象を並べ、騎兵が両翼に配置された。対するローマ軍は、中央に歩兵、両翼に騎兵を配置した。戦闘はカルタゴ軍の戦象の突撃から始まり、ローマ軍の歩兵を混乱させた。その間カルタゴの騎兵部隊がローマの騎兵部隊を襲い撃破した。ローマ軍の左翼部隊が一時的にカルタゴの傭兵部隊を押し返したが、ローマの中央部隊が戦象とファランクスに耐えられず崩壊した。その崩壊を見て、カルタゴの騎兵がローマ軍の両翼に攻撃をかけて殲滅させた。ローマ軍はおよそ12,000の戦死者を出し、およそ500が捕虜となった。この戦いでローマ軍は大敗し、指揮官(執政官)であるマルクス・アティリウス・レグルスも捕虜となった。ローマ軍の生き残った敗残兵はアスピスまで退却し、最終的にアフリカから撤退した。そのアフリカから撤退する際に、ローマとカルタゴの大きな海戦が行われている。
 紀元前255年夏に行われた「ヘルマエウム岬の海戦」である。
 ローマ軍の指揮官は、執政官セルウィウス・フルウィウス・パエティヌス・ノビリオルと執政官マルクス・アエミリウス・パウッルスである。対するカルタゴ軍の指揮官名は不明である。
 兵力はローマ軍が軍艦約390隻、輸送船約300隻以上。カルタゴ軍は軍艦約200隻であった。ローマ軍の目的はアフリカから撤退する兵士の輸送を目的としていたので、輸送船と軍艦の大規模な船団だった。カルタゴ軍はこの大規模な船団を、ヘルマエウム岬の沖で迎え撃とうとしたのである。
 この海戦ではカルタゴ軍が大敗を喫した。およそ114隻の軍艦が捕獲され、約16隻が沈没している。歴史学者によれば、この海戦でのローマ軍の被害は殆どなかったと言われている。しかし、ローマの艦隊はこの海域を離れたが、シチリアの南東沖で嵐に遭遇し、およそ384隻の軍艦と、およそ300隻の輸送船が沈没し、多くの兵士も死亡したとされる。しかし、当時の共和制ローマは、イタリア半島の北部、アルプス山麓ポー川流域を除く地域を支配し、豊富な農地や鉱山資源を有していた。また、征服した地域からの税収や、商業活動における膨大な利益を軍備に充てることが可能であった。さらにローマでは奴隷の労働力も、多くの事業の労働力として利用することで生産性を上げることが出来た。これらの要因で、ローマは豊かな経済と、強力な軍事国家としてさらに発展を遂げることが出来たのである。
 紀元前254年、ローマ軍はシチリア島のパノルムス(現在のパレルモ)を攻略し、カルタゴ軍に勝利したことでその支配を強化した。
 第1次ポエニ戦争の後半において、当時カルタゴ軍の将軍ハミルカル・バルカは、シチリア島の北西部にあるエリュクス山を拠点に、ローマ軍に対して奇襲攻撃や小規模な戦闘を繰り返していた。彼は少数の部隊を率いて、ゲリラ戦術を繰り返すことで、ローマ軍を消耗戦に引き込んだ。特にローマ軍の補給線を攻撃して、ローマ軍の進軍を妨げていた。このハミルカルの部隊は、ゲリラ部隊として無敗を誇り、シチリア島での戦況を膠着状態に持ち込むという戦果を上げていたのである。そしてこの戦果も、紀元前241年の講和条約の締結で終わるのである。しかしこのハミルカル・バルカの無敗を誇る戦術は、やがて自分の息子に伝わり、その子がローマ軍を震撼させることになるのは今少し時間が必要になる。
 紀元前249年、「第1次ドレパナ」の海戦があった。ローマ軍指揮官は執政官ププリウス・クラウディウス・プルケル、カルタゴ軍はアドヘルバルである。
 兵力はローマ軍が約120隻の軍艦、カルタゴ軍も約120隻の軍艦。両軍ともに主力艦は5段櫂船である。ローマ軍はカルタゴの港ドレパナ(現在のトラーパニ)の奇襲攻撃を目論見、夜間に艦隊を出港させカルタゴ艦隊を攻撃する予定だった。しかし視界不良(夜の闇や悪天候などか)のために、ローマ艦隊は広範囲に分散したのである。ローマ軍が夜明けにドレパナに現れた際、カルタゴの偵察部隊に発見されて奇襲攻撃の意味を失い、カルタゴ軍の迅速な対応で正面攻撃を受けた。この結果、カルタゴ軍が勝利しローマ艦隊はおよそ93隻の軍艦を捕獲又は沈没させられた。指揮官のププリウス・クラウディウス・プルケルは何とか脱出したが、帰国後彼は反逆罪の汚名を受けて国外追放となった。このローマ軍の敗北は、大きな打撃とはなったが。ポエニ戦争の継続に影響を与えるほどではなかった。
 そして紀元前241年3月10日「アエガテス諸島沖の海戦」が行われた。
 ローマ軍の指揮官は、執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルス、法務官クィントゥス・ウァレリウス・ファルトであった。カルタゴ軍の指揮官はハンノであった。
 その兵力は、ローマ軍は約200隻の5段櫂船、カルタゴは約250隻の3段櫂船と一部5段櫂船での海戦だった。ローマ軍は艦隊でシチリア島西部のリルバイウムとドレパナを封鎖して、カルタゴ軍の補給線を断つ作戦に出た。カルタゴ軍はこの封鎖を破るために出撃したが、ローマ軍は風向きを利用することで、カルタゴ艦隊を攻撃し勝利した。この海戦でカルタゴの艦隊はおよそ50隻が沈没し、およそ70隻が拿捕された。この勝利によって、ローマ軍はカルタゴ軍に大打撃を与え、第1次ポエニ戦争に終止符を打ったのである。
 この後、紀元前241年にローマとカルタゴの講和条約が締結されることになった。
 講和条約は、カルタゴが去ることになるシチリア島のリリュバエウム(現在のマルサーラ)で締結された。
 領土の割譲については、カルタゴはシチリア全域をローマに割譲せざるを得ず、これによってシチリア島はローマ最初の海外属州となった。カルタゴはさらにシチリア島周辺の小さな島もローマに移譲した。また、敗戦国カルタゴに戦争賠償金の支払いが求められた。具体的な金額は、3,200タレントの銀を10年間で分割して支払うことを求められた。
 これは当時の歴史資料で、5段櫂船の建造費が約1タラント(銀約26㎏)だったようだ。3,200タラントは銀約83,200㎏として、単純計算で5段櫂船約3,200隻分ということになる。またその他に軍事規制が課せられた。カルタゴは今後ローマの許可なしに、戦争を行うことが禁止されたのである。カルタゴの軍事行動に対するローマの恐怖もあったのかも知れない。そして最後に捕虜の交換がなされた。両国の捕虜となった兵士の交換が行われ、解放された。
 こうして紀元前264年に始まり、約23年間にわたった第1次ポエニ戦争は、ローが勝利し、ローマの1方的な講和条約が締結され、カルタゴの威信をかけた戦いは終わったかに見えた。が、しかしこの後カルタゴは見事に復活を遂げるのである。その復活には、カルタゴに生まれた天才軍略家が誕生するからである。このローマとカルタゴの講和条約が結ばれた紀元前241年、この天才軍略家となるハンニバル・バルカは、まだ6歳の少年であった。
 (第2章 第2次ポエニ戦争に続く)
(ハンニバル画像チュニジア・5ディナール紙幣/チュニジア/筆者所蔵)
(カルタゴ滅亡後建てられたローマ時代のドゥッガ遺跡のキャピトル/チュニジア)
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ
「筆者撮影画像」
【ハンニバル・バルカ】
第1章 第1次ポエニ戦争
第2章 第2次ポエニ戦争 序章
第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越え
第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越え
第4章 第2次ポエニ戦争 第1節 戦闘開始
第4章 第2次ポエニ戦争 第2節 トレビア川の戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第1節 アペニン山脈を越えて
第5章 第2次ポエニ戦争 第2節 カンパニアからの脱出
第5章 第2次ポエニ戦争 第3節 二人の独裁官
第5章 第2次ポエニ戦争 第4節 ファビアン戦略
第5章 第2次ポエニ戦争 第5節 カンナエの戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第6節 戦闘開始