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『ハンニバル・バルカ / 第5章 第6節 第2次ポエニ戦争 戦闘開始』


【戦闘開始――ポリュビオスとリウィウスの記述】
 紀元前216年8月2日、早朝、アウフィドウス川の右岸で両軍は対峙した。ローマ軍は川を右側にして布陣し、カルタゴ軍は左側にして布陣した。戦闘は両軍の前列に配置された軽装歩兵同士の交戦から始まった。戦いの詳細については、二人の歴史家の記述を通じて、より現実味を持って理解していただけることだろう。

 始めに、ポリュビオスの記述を紹介する。
 「ローマ軍の右翼はルキウス、左翼はガイウス、中央は前年の執政官であったマルクスとグナエウスが指揮した。カルタゴ側では左翼がハスドルバル、右翼がハンノのもとに置かれ、中央はハンニバル自身が弟のマゴと共同で指揮に立った。ローマ軍の戦列は前述したように南を向き、カルタゴ軍の戦列は北を向いていたので、両軍とも昇る太陽の日差しに災いされることはなかった。
 戦いはまず前方配置の部隊の間で始まり、軽装兵どうしの戦闘が続いていた間は双方互角の形勢だった。しかしカルタゴ側の左翼にいたイベリアとケルトの騎兵がローマ人騎兵と衝突すると、その戦いぶりは一気に熱を帯びて野蛮なものとなった。というのも通常の騎兵戦のような旋回戦法にはならずに、いったんぶつかると双方とも馬から降りて、人どうしが切り結ぶ力戦になったのである。しかしやがてカルタゴ側が勝勢に立ち、ローマ兵の雄々しく勇ましい奮戦ぶりにもかかわらず、その大多数を戦闘の場で討ち取ったばかりか、逃げようとする兵士をも川のほとりまで追いかけながら、情け容赦なく刃にかけ殺害していった。それと時を同じくして双方から軽装兵に代わって重装兵団が現われ、戦闘に入った。
 しばらくの間はイベリア兵とケルト兵の隊列は勇敢に戦い、一歩も引こうとしなかった。しかしまもなくローマ軍団の重圧に耐えきれなくなり、敵に背を向けると、三日月陣形を崩して後方へ退却を始めた。ローマ軍の重装歩兵隊は気勢を上げてそれを追撃しながら、難なく敵の隊列を分断することに成功した。ケルト兵の隊列は薄かったし、逆にローマ兵は両翼から中央に寄り集まってきて、戦闘の場の隊列を厚くしたからである。こうなった理由は、両翼と中央では戦いに入るのに時間差があって、衝突はまず中央で始まったことにある。三日月形はローマ軍に向かって突き出ていたのだから、その突き出た部分を構成していたケルト兵が両翼寄りの兵よりも先に戦いを始めたのである。追撃態勢に入ったローマ軍は、敵が退いた地点へ向かおうとして次々に中央へ殺到し、前進を続けて敵陣深くまで入り込んだため、その左右の側面をリュビア人の重装歩兵隊にさらすかたちになった。そこを狙って右翼側のリュビア兵部隊が正面から左へ方向転換し、ローマ軍の左側面に向けて攻め寄せると同時に、左翼側にいたリュビア兵も同じように右に体を向けて、敵の右側面に襲いかかった。戦いの展開自体が兵士たちに何をすべきかを教えたわけだ。この結果、ハンニバルが狙っていたとおり、ローマ軍はケルト兵を深追いしているうちに、まわりをリュビア兵に取り囲まれる事態に陥ってしまった。ローマ軍は両脇から攻め掛かってくる敵の方に向きなおったけれども、もはや隊列を組みなおす余裕はなく、各人あるいは各中隊単位で戦わざるをえなくなった。ルキウスは戦いの始まったとき右翼にいて騎兵戦に加わっていたが、その時点ではまだ傷も負っていなかった。そこで兵士たちに語った激励の言葉を自ら実践するべく、激戦のさなかに身を投じようとしたルキウスは、戦いの帰趨を決定する鍵は歩兵戦にあると見て、戦列全体の中央部へ向けて馬を走らせた。そして自らその方面の戦塵の中に駆け込んで、敵兵の上に次々と刃を打ち降ろしていく一方、味方の兵士たちを奮い立たせようと号令を発し続けた。ハンニバルの方は開戦当初から戦列の中央に位置を占めていたから、その場でルキウスと同じような行動をとった。右翼にいたヌミディア騎兵はローマ側の左翼に並んだ騎兵に襲いかかったが、ヌミディア兵独特の戦法を取ったため、敵に大きな損害を与えることもなければ、逆に大きな損害をこうむることもなかった。とはいえ四方から攻めかかってローマ側に戦力の集中を許さず、その動きを封じ込めることには成功した。一方ハスドルバル麾下の騎兵隊は、川のほとりまで逃げたローマ人騎兵をごく少数を除いてことごとく討ち取った後、左翼から転じてヌミディア軍の応援に駆けつけた。するとあらたな敵の攻勢を恐れたローマ側の同盟国騎兵隊は、いちはやく手綱を返して退却を始めた。この後ハスドルバルのとった行動は、機敏でしかも現実的なものであったと言えよう。ハスドルバルはヌミディア騎兵隊が十分の兵員数を擁し、しかもすでに背を向けた敵を相手にしたときに最大の威力を発揮するのを知っていたので、逃走する騎兵を追いかける役割はヌミディア騎兵にまかせ、自らはリュビア歩兵軍の応援が急務と判断して、部隊をそちらの戦場へと率いていった。そしてローマ歩兵軍に背後から襲いかかると、あちらでもこちらでも次々に馬上から刃を浴びせて、リュビア兵の士気を高めると同時に、ローマ兵の戦意を打ち砕いた。この激戦のさなか、ルキウス・アエミリウスも深い傷を負って崩れ落ち、生命を終えた。それまでの生活においても最後の瞬間においても、変わることなく祖国への義務を果たした人物のひとりであった。ローマ軍は周りを敵に取り囲まれたが、外に向きを変えてなおも戦い続け、抵抗をあきらめようとしなかった。しかし外側に立った兵士が次々に倒され、輪が少しずつ内側に押し込められていくうちに、ついに一兵残らずその場で討ち取られた。その中には前年の執政官マルクスとグナエウスも含まれ、二人ともに戦いのなかでローマの名にふさわしい勇敢な最後を遂げた。こうして歩兵たちに戦いと死が襲いかかっていた頃、ヌミディア兵は逃げようとする騎兵の追撃を続け、その大多数を討ち取り、他の騎兵も馬からたたき落とした。ウェヌシアに逃げ込んで助かった騎兵もわずかにあったが、そのなかにローマ市民の執政官ガイウス・テレンティウスもいた。士魂において恥をさらし、職務において祖国に無益な男であった。
 以上が、カンナエ近郊においてローマ軍とカルタゴ軍の間で繰り広げられた戦いの顛末である。勝者の側も敗者の側もまれにみる勇猛ぶりを発揮した戦いであり、そのことは事実そのものからも証明できる。すなわちローマ側の騎兵6,000人のうち、ガイウスとともにウェヌシアに逃げ込んだのは70人、このほか同盟国騎兵の300人ほどが散り散りに付近の諸都市に無時たどり着いただけだった。歩兵のうち抵抗むなしく  ただし主戦場とは別の所だったが  捕虜になった者が約一万人、戦場を逃れて付近の諸都市に逃げ込んだ者がおそらく3,000人程度あった。それ以外の約七万人はすべて名誉の死を遂げた。これまでの戦いと同様、今回の戦いでもカルタゴ軍の勝利に最大の貢献をしたのは大量の騎兵隊だった。この戦いは後世の人々への教訓として、戦いに臨んであらゆる面で敵と同等の戦力をそろえるよりも、歩兵は敵の半数でよいから、その代わりに騎兵数で圧倒的な優位に立つべきだということを証明してみせたのである。ハンニバル軍の死者数は、ケルト兵が約4,000人、イベリア兵とリュビア兵が合わせて1,500人、騎兵が約200人であった」。『歴史』、作者:ポリュビオス、訳:城江 良和
 少し長くなったが、ポリュビオスは戦闘が開始されてからの状況を以上のように書いている。
 次に、リウィウスの書から同じ場面である戦闘の顛末の記述を紹介しよう。
 「太陽は、軍勢が意図してまたは偶然そのように配置されたため、好都合にも両軍(ローマ人は南を、カルタゴ人は北を向いていた)を側面から照らした。だが当地の住人がウォルトゥヌスと呼ぶ嵐がローマ人に向かって吹き始めた。大量の砂塵が巻き上げられて顔面を襲い、このため彼らは視覚を奪われた。

会戦の勃発
 喚声を上げて補助軍が突進し、まず軽装隊の戦いが開始された。続いてガリア人とヒスパニア人騎兵の左翼がローマ人の右翼と衝突した。ただしこの戦いは通常の騎兵隊とは違うやり方で行われた。というのも、片側は川に、もう片側は歩兵の軍勢にさえぎられ、横へ散開する余地がまったくなかった。このため、彼らはお互い正面よりぶつかる他なかったからである。両軍ともまっしぐらに突き進んだ。やがて馬が立ち往生し、ついに混雑の中で身動きが取れなくなった。兵士は相手に掴みかかり、馬上から引きずり下ろそうとした。こうして今やほとんど歩兵の戦いが繰り広げられた。しかしこの戦いは激戦だったが長くは続かなかった。ローマ人の騎兵が打ち負かされ、敗走する。
 騎兵戦が終わると同時に歩兵戦が始まった。当初ガリア人とヒスパニア人が戦列を固守しているあいだは、両軍の兵力と士気は拮抗していた。だがついにローマ人は長時間繰り返し努力した結果、平らな前線と分厚い戦列でもって、他の軍勢から突き出た(非常に薄く、それゆえあまり強固ではない)敵の楔を打ち破った。彼らは撃破され慌てて退く敵を追った。恐怖に駆られ一目散に逃げる集団の間を抜け、そのまま一気に敵軍のただ中に突進した。そしてまったく抵抗を受けることなく、ついにはアフリカ人補助軍の近くまで達した。アフリカ人はその翼を両側の後方に下げていた。かたやガリア人とヒスパニア人がいる真ん中の戦列はいくぶん前に突き出ていた。この楔が押し込まれた結果、前線は平らになり、またさらにそれが後退したことで、戦列の中央はくぼんだ形になった。するとアフリカ人は三日月を作り、不用意に中央へ突進してきたローマ人を翼で取り巻いた。そして翼を伸ばし、やがて敵を背後で封鎖した。こうして一つの戦闘を無駄に戦ったローマ人は、背中に手傷をあたえたガリア人やヒスパニア人をそれ以上追うのはあきらめ、アフリカ人と新たな戦闘を始めた。これは不利な戦いだった。袋の鼠になった者と周りを取り巻く者との対戦であるというばかりでなく、疲労した者と元気な者との対戦でもあったからである。すでにローマ人は左翼でも(そこでは同盟者の騎兵がヌミディア人と向かい合っていた)戦闘を交わしていた。この戦いは最初それほど激しいものではなかった。それはカルタゴ人の計略で始まった。約500人のヌミディア人が通常の武器と投槍に加えて胸当ての下に剣を隠し持ち、まるで逃亡者のようにカルタゴ軍から離脱した。彼らは楯を背負って馬を走らせ敵軍に近づくと、やにわに馬から下り、楯と投槍を敵の足元に投げ出した。この者たちはこうして〔ローマ軍の〕戦列の中に受け入れられた。そして最後列へ連れて行かれ、後ろで待機しているように命じられる。彼らはすべての場所で戦闘が始まるまでじっとしていた。そして誰もが戦闘に気を取られたところで、死体の山の間に散乱する楯を掴み取り、背後からローマ軍に襲いかかった。彼らは敵の背中や膝に切りつけ、大勢を殺し、ますますひどい混乱と恐怖をもたらした、ローマ人はある場所では怯えて逃げ出し、他の場所では絶望のなか踏み止まって戦った。この部分を指揮していたハスドルバルはヌミディア人を中央の戦列から退かせ(というのも彼らの敵との戦いぶりが怠慢だったので)、ちりぢりに逃げた敵兵を追跡するため送り出す。また戦闘よりむしろ殺戮に疲れたアフリカ人を助けるため、ヒスパニア人とガリア人の騎兵を送り込む。

「パウルスの死」
 別の部分で戦いを率いていたパウルスは、戦闘が始まって早々投石に直撃され重傷を負った。にもかかわらず彼は密集隊とともに再三ハンニバルに攻めかかり、いくつかの場所で戦況を立て直した。ローマ人の騎兵が彼に付き添ったが、しかしやがてコーンスルは馬を操る体力を失った。そのため彼らはついに馬を乗り捨てた。ある者がハンニバルに、コーンスルが騎兵に馬から下りるように命じたと伝えると、彼はこの者にこう言ったという。『鎖に繋いで引き渡してくれれば、なお結構なのだが』。騎兵によるこの歩兵戦は、今やもう敵の勝利間違いなしの戦いだった。敗者は逃げるよりその場で死ぬことを望んだ。勝者は勝利がぐずぐず引き延ばされることに苛立ち、容易に退かぬ相手を惨たらしく殺した。とはいえ結局わずかに生き残った者は、苦難と負傷のため憔悴したあげく敗走した。全軍がばらばらになり、そうすることができる者は馬を取り戻して逃げた。馬で通りかかった軍団将校のグナエウス・レントゥルスがふと見ると、コーンスルが血まみれで岩の上に腰かけていた。『ルキウス・アエミリウスよ』と彼は呼びかけた。『あなたは今日の敗北に責任のないただ一人の人である。そうした人に神々は憐れみをかけるべきだ。この馬をお使いなさい、あなたの体力が続くかぎり、そして私がお供としてあなたを馬上に引き上げ、お守りすることができるかぎり。この戦いをコーンスルの死で悲惨なものにしないでいただきたい。そうでなくとも、涙と悲しみで満ちあふれているというのに』。これに対しコーンスルは答えた。『そなたの気性はまことに見上げたものだ。グナエウス・コルネリウスよ。だがいたずらに人に同情し、敵の手から逃れるわずかな時間を浪費してはならない。去れ、そして元老院議員たちに広くこう伝えよ。勝利した敵が来る前にローマの町を補強し、守備隊で固めよと。個人的にはクィントゥス・ファビウスにこう伝えてくれ。ルキウス・アエミリウスはあなたの忠告を片時も忘れることなくこれまで生きてきたし、これから死んでいくと。わが兵士たちの骸が累々と横たわるこの場所で、どうか死なせてくれ。コーンスル職のあとにまたも被告とさせられぬために。あるいは同僚の告訴者として出廷し、他人の罪状を証言することで,わが身の潔白を示すことになどならぬために』。彼らがこうしたことを話していると、まずは逃げるローマ人の群れが、続いて敵が襲いかかってきた。敵は相手が誰かも知らぬまま、コーンスルに投槍を浴びせた。レントゥルスは混乱のなか、馬によって救い出された。その後いたるところで敗走が起こる。

戦いの帰結
7,000人がより小さな陣営に、一万人がより大きな陣営に、また約2,000人がカンナエの村へ逃げ込んだ。ただしこの村は防塞で守られていなかった。そのため最後の者たちはすぐにカルタロと彼の騎兵により包囲された。もう一人のコーンスルは偶然あるいは意図的に、どの敗残兵の群れにも合流することなく、約50人の騎兵とともにウェヌシア(カンナエの西南約54㎞にある都市)へ逃れた。4万5,500人の歩兵と2,700人の騎兵が(ローマ人と同盟者の割合はほぼ同じだった)殺されたと言われる。この中にはコーンスル付きの二人のクワエストル(著者注:財務官)、ルキウス・アティリウス、ルキウス・フリウス・ビバクルスと、それから29人の軍団将校が含まれた。後者のうちの何人かは元コーンスルや元プラエトル(著者注:法務官)、元アエディ―リス(著者注:按察官)であった。そこにはグナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスと、前年に騎兵長官、数年前にコーンスルだったマルクス・ミヌキウスもいた。以上に加え元老院議員、ないし元老院入りの前提となる役職を務めた者が80人含まれた。彼らは自ら志願し、軍団の一兵卒として従軍していた。この戦闘で3,000人の歩兵と1,500人の騎兵が捕らえられたと言われる。以上がカンナエの戦いの顛末である」。『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌

【戦闘開始】
 以上がポリュビオスとリウィウスが記述した、カンナエの戦いの状況である。
 そこで改めて著者が、両者の記述を踏まえた形で戦況を追うことをお許し願いたい。両軍の布陣から始めよう。
 両軍とも、前面には横一線に軽装歩兵が配置されていた。その後方にはローマ軍が、アウフィドウス川を右手に、以下のように布陣していた。右翼にはルキウス・アエミリウス率いるローマ騎兵、左翼にはガイウス・テレンティウス率いる同盟軍騎兵、そして中央には前年の執政官であるマルクスとグナエウスの両名が指揮する重装歩兵が並んだ。
 一方カルタゴ軍は、左翼(ローマ騎兵右翼に対面)にハスドルバル率いるイベリア騎兵とケルト騎兵、右翼(ローマ同盟軍騎兵左翼に対面)にはハンノの率いるヌミディア騎兵が配置された。中央にはハンニバル自身が、弟マゴと共に指揮を執っていた。ただしリウィウスの記述のみによれば、カルタゴ軍中央のイベリア歩兵とケルト歩兵は前方に突出した三日月形(楔形)陣形をとっており、その両端にはリュビアの重装歩兵が配備されていたという。
 戦闘が開始されたのは日の出直後であった。ローマ軍はアドリア海を背にして南向きに布陣し、これに対してカルタゴ軍はローマ軍に相対する形で北向きとなった。太陽は東から昇るため、両軍とも側面から陽射しを浴びることになり、視界への影響はなかった。
 しかし、ポリュビオスの記述には見られないが、リウィウスは、ローマ軍が南向きに布陣していたため、現地人が「ウォルトゥヌス」と呼ぶ、いわゆるシロッコが吹き始め、大量の砂塵が巻き上げられてローマ軍を襲い、彼らが視界を失ったことを記している。
 リウィウスによれば、戦闘開始とともに、すでにハンニバルの戦術展開は始まっていた。巻き上げられた砂塵により、ローマ軍はカルタゴ軍の配列を把握できず、中央軍が薄い隊列で三日月形(楔形)に突出し、その両端左右に精鋭のリュビア重装歩兵が集中的に配置されていたことに気づかなかった。この砂埃は、まさにハンニバルの予測通りの効果を発揮したのである。
 戦闘は、前面に配置された両軍の歩兵による交戦から始まり、互角の戦いが展開された。続いて、カルタゴ軍左翼のイベリア騎兵とケルト騎兵が、ローマ軍右翼の騎兵と衝突し、激戦となった。この戦闘では、両軍ともに片側に川が、もう片側には歩兵戦が行われていたため、横に展開する余地がなく、両軍騎兵は馬を降りての白兵戦に移行した。当初は歩兵戦と同様に激しい戦いとなったが、やがてローマ騎兵が押し切られて敗走を始めた。
 騎兵戦の終結後、歩兵戦が本格化し、三日月陣形に突出していたイベリア兵とケルト兵がローマ軍を止めて固守する間、戦況は拮抗していた。しかし、時間の経過とともに、ローマ軍がその平坦な前線と分厚い戦列を活かして、突出していたカルタゴ軍中央部を押し返し始める。突出していた三日月陣形は、次第に押し戻され、逆三日月形へと変化していった。
 ローマ軍は敗走する敵を深追いし、カルタゴ軍中央部を一気に突破した。この不用意な突進に対し、両翼に配置されていたリュビア重装歩兵が機を逃さず前進し、左右両側からローマ軍の背後を包囲した。こうしてローマ軍の退路はカルタゴ軍両翼によって完全に閉ざされた。ここに、ハンニバルの「包囲殲滅戦術」は見事に完成したのである。
 その後の展開を、ポリュビオスとリウィウスの記述に基づいて再び紹介していこう。
 リュビアの重装歩兵に包囲されたれたローマ軍は、隊列を再編して戦う余裕を失い、各中隊単位での戦闘を余儀なくされた。ルキウス・アエミリウスは右翼で騎兵戦に加わっていたが、戦局を左右するのは歩兵戦であると判断し、戦列中央部へと馬を走らせた。そこで自ら戦闘に参加し、敵と刃を交えつつ、ローマ軍の奮戦を鼓舞し続けた。
 一方、カルタゴ軍の右翼のハンノ率いるヌミディア騎兵部隊は、ローマ軍左翼に展開していた同盟国騎兵部隊に襲いかかった。彼らは独自の奇襲戦術を駆使し、大きな損害を与えるには至らなかったものの、敵戦力の集中を妨げ、その動きを封じ込めることに成功した。
 ヌミディア騎兵は、この戦いに合わせて、別の戦術も並行して実行した。リウィウスの記録によれば、それは約500人に通常の武装を施し、胸には剣を隠し持たせてヌミディア軍からの投降兵と思わせるというものである。彼らはローマ軍に接近すると下馬し、楯と槍を投げ捨て、非武装のふりをして受け入れられた。その後方に待機を命じられた彼らは、偽装投降を見事に成功させたのである。そして激戦が展開される中、ローマ軍の注意が逸れた隙をついて、戦場に散乱していた死体から武器を奪い、ローマ兵の背後から襲撃を開始した。敵の背中や膝を切りつけ、大勢を殺戮し、ローマ軍に混乱と恐怖を巻き起こした。
 同時に、ハスドルバル率いるイベリアとケルト騎兵部隊は、敗走するローマ騎兵をアウフィドウス川の岸辺に追い詰め、ほとんどを討ち取った。そしてすぐさま善戦するヌミディア騎兵の応援に駆けつけたことで、ローマ同盟国騎兵は再度の敵襲に恐れをなし、手綱を返して退却を始めた。
 包囲されたローマ軍の戦局を劇的に変化させたのは、ハスドルバル率いるイベリアとケルト騎兵であった。敗走するローマ同盟軍騎兵の追撃はヌミディア騎兵に委ね、ハスドルバルは騎兵を率いて、ローマ軍を包囲して攻撃を続けるリュビア重装歩兵部隊の戦場に突入した。彼らはローマ軍の背後から襲いかかり、その突撃はリュビア兵の士気をなお一層奮い立たせただけではなく、同時にローマ軍の戦意を打ち砕く効果をもたらした。この熾烈な戦闘の只中にあったルキウス・アエミリウスは深手を負い、この場で人生を終えた。
 この場面を、リウィウスは詳細に記している。前述の通り、ルキウス・アエミリウスは右翼で騎兵戦に加わっていたが、戦局を左右するのは歩兵戦であると判断し、戦列中央部へ馬を走らせた。この時点ですでにカルタゴ軍の投石により負傷していたが、包囲されたローマ中央軍の中にあって、戦況を立て直すべく指揮官としての力をふり絞った。実際に、いくつかの地点では戦局の回復に成功している。
 しかし、負傷による体力の限界に達したルキウス・アエミリウスは、自ら馬を捨て、率いていた騎兵にも馬を降りて歩兵戦に加わるように命じた。
 この状況が伝えられると、ハンニバルは次のように言ったとされている。「鎖に繋いで引き渡してくれれば、なお結構なのだが」。この言葉には、ハンニバルの勝者としての余裕と冷笑、敵司令官への侮蔑と憐れみ、そして自らの戦術が効を奏したことへの確信が込められている。騎兵が馬を降りて歩兵戦に参加するという行為は、ハンニバルに言わせれば、焦りの表れであって、すでに勝利の意思放棄と見なされても仕方のないものだった。つまりハンニバルは、別の言い方をすれば、「ローマ軍がルキウス・アエミリウスを捕虜として差し出してくれた方が、いっそ無駄な抵抗もなく、ことが早く済むのに」と言いたかったのであろう。
 リウィウスは、この戦いにおけるローマ軍兵士の士魂について、次のように記している。「敗者は逃げるよりその場で死ぬことを望んだ。勝者は勝利がぐずぐず引き延ばされることに苛立ち、容易に退かぬ相手を惨たらしく殺した」と。
 カンナエで指揮を執った執政官の一人、ルキウス・アエミリウスは、軍勢がローマを出発した際の演説でこう語っている。「戦いに臨んでまずなによりも勝利を願わない者がいるだろうか。そしてもしそれがかなわなければ、生きて祖国や家族が辱められ滅んでゆくのを見るよりは、戦場で敵刃に倒れることを願わない者がいるだろうか」。この言葉の通り、彼は自ら死を覚悟していた。そして戦局が敗北へ傾いてもなお、指揮官も兵士も容易に退くことなく、命を賭して戦い続けたのである。この死の抵抗に、カルタゴの兵たちは苛立ちを覚え、容赦ない殺戮を行った。ローマ大軍の三分の二は新兵だったと、すでに述べた。それでも、彼らは最後の瞬間までローマ人としての誇りと士魂を見せたのである。この振る舞いは、後に続く戦争へと大きな影響を及ぼすことになる。

【ルキウス・アエミリウスの最後】
 ここでルキウス・アエミリウスの最後に触れておこう。彼は、戦いの帰趨を決定する鍵は歩兵戦にあると見て、戦列中央部へ向けて馬を走らせた。そして、自らも、率いていた騎兵にも馬を降りるよう命じ、リュビア重装歩兵との激戦に加わった。この時、ハスドルバル麾下の騎兵部隊は、アウフィドウス川岸まで逃げたローマ騎兵を討ち取り、左翼から転じてヌミディア軍の援護に駆けつけた。あらたな敵の攻勢に直面したローマ側同盟国騎兵隊は恐れをなし、手綱を返して退却を始めた。
 そこで、ハスドルバルは追撃の役目をヌミディア騎兵に委ね、自身はリュビア歩兵軍の援護を急務と判断して、部隊をそちらの戦場へ移動させた。その地では、リウィウスが次のように記す通り、騎兵による突撃が戦局に決定的な影響を与えた。「ローマ歩兵軍に背後から襲いかかると、あちらでもこちらでも次々に馬上から刃を浴びせて、リュビア兵の士気を高めると同時に、ローマ兵の戦意を打ち砕いた」。この突撃は、戦場の均衡を大きく変える転換点となり、カルタゴ軍の包囲殲滅戦術が完成されるための重要な節目となったのである。この時点でカルタゴの勝利は確実となり、ローマの敗北が決定した。わずかに生き残った者は、深い傷を負いながら憔悴し、敗走した。馬を取り戻して逃げる者もいた。そのうちの一人、グナエウス・レントゥスという将校は、血まみれで岩の上に腰かけているルキウス・アエミリウスを見つけた。彼は急ぎ駆け寄り、声をかけた。「あなたは今日の敗北に責任のないただ一人の人である。そうした人に神々は憐れみをかけるべきだ。この馬をお使いなさい、あなたの体力が続くかぎり、そして私がお供としてあなたを馬上に引き上げ、お守りすることができるかぎり。この戦いをコーンスルの死で悲惨なものにしないでいただきたい。そうでなくとも、涙と悲しみで満ちあふれているというのに」。
 それに対して、ルキウス・アエミリウスは答えた。「そなたの気性はまことに見上げたものだ。グナエウス・コルネリウスよ。だがいたずらに人に同情し、敵の手から逃れるわずかな時間を浪費してはならない。去れ、そして元老院議員たちに広くこう伝えよ。勝利した敵が来る前にローマの町を補強し、守備隊で固めよと。個人的にはクィントゥス・ファビウスにこう伝えてくれ。ルキウス・アエミリウスはあなたの忠告を片時も忘れることなくこれまで生きてきたし、これから死んでいくと。わが兵士たちの骸が累々と横たわるこの場所で、どうか死なせてくれ。コーンスル職のあとにまたも被告とさせられぬために。あるいは同僚の告訴者として出廷し、他人の罪状を証言することで,わが身の潔白を示すことになどならぬために」。
 誇り高き執政官ルキウス・アエミリウスは、かつて敗戦や政治的な失策によって告発された経験を持つ人物であった。そのため今回の敗北に際し、再び同様の告発を受けることを拒んだ。加えて、同僚(この場合、ガイウス・テレンティウスであろう)の告訴者となり、他人の罪状を証言して自身の潔白を証明するなどいうことも、彼は望まなかった。敗戦の責任を免れるために、同僚を陥れるような卑劣な手段には絶対に頼りたくない  この姿勢は、彼の強い倫理観の現れでもあった。
 そして息絶えようとする瞬間、彼はこう言い残す。
 「去れ。そして元老院議員たちにこう伝えよ――勝利した敵が来る前に、ローマの町を補強し、守備隊で固めよと。個人的には、クィントゥス・ファビウスにこう伝えてくれ。ルキウス・アエミリウスは、あなたの忠告を片時も忘れることなく、これまで生きてきたし、これから死んでいくと。わが兵士たちの骸が累々と横たわるこの場所で、どうか死なせてくれ」。
 この臨終の言葉は、ローマの未来を憂う切実な思いと、ファビウスに対する深い尊敬と感謝を込めている。彼はまさしく、ローマ人としての士魂を人生の最後の瞬間まで貫き通した人物であった。そしてその命は、名も知らぬカルタゴの一兵士が投げた槍によって戦場に消えた。
 それでは、ローマ軍左翼で同盟軍の騎兵を率いていた、もう一人の執政官ガイウス・テレンティウスの動きを見てみよう。ローマ軍左翼の同盟軍騎兵部隊と対峙していたのは、カルタゴ軍右翼のハンノ率いるヌミディア騎兵部隊であった。戦闘が開始されると、ヌミディア騎兵は同盟軍騎兵に襲いかかった。彼らは、攻めては退くという独自の奇襲戦法を駆使したため、決定的な損害を与えるには至らなかったものの、敵の動きを封じ込めるという点で成果を挙げていた。その局面を大きく転じさせたのが、ローマ軍右翼の騎兵部隊を打ち破り、アウフィドウス川岸まで逃げた騎兵を討ち取ったのち、ヌミディア軍の応援に駆けつけたハスドルバル麾下の騎兵隊の出現であった。新たに加わったイベリア・ケルト騎兵の猛攻に恐れをなし、ローマ同盟軍騎兵部隊は、いち早く手綱を返して退却を始めた。背を向けて退却する敵を追撃することを得意とするヌミディア騎兵にとって、この状況はまさに好機であった。彼らの追撃は熾烈を極め、「その大多数を討ち取り、他の騎兵も馬からたたき落とした。ウェヌシアに逃げ込んで助かった騎兵もわずかにあったが、そのなかにローマ市民の執政官ガイウス・テレンティウスもいた。士魂において恥をさらし、職務において祖国に無益な男であった」、とポリュビオスは記述している。
 このように、カンナエという歴史的戦場において、敗戦執政官のうち一人はローマ史にその士魂を刻み、もう一人は恥の記録を残すことになったのである。

【斜線陣形とハンマー&アンビル】
 戦いの結果についてみて見よう。ポリュビオスの記述によれば、ローマ軍の戦死者は、歩兵約70,000人、騎兵約2,700人、捕虜はおよそ10,000人、戦場から逃れて付近の諸都市へと逃げ込んだ者は、おそらく3,000人程度であったと記されている。一方、リウィウスによれば、歩兵45,500人、騎兵2,700人が戦死し、さらに歩兵3,000人と騎兵1,500人が捕虜となったとある。両者の記録には数値の差異が見られるが、いずれにせよローマの大軍団が壊滅状態に陥ったたことは間違いようがない。
 これに対して、カルタゴ軍の損失についてポリュビオスは、ケルト兵約4,000人、イベリア兵とリュビア兵合わせて約1,500人、騎兵約200人が戦死したと記している。一方、
 リウィウスによると、戦闘終結後、ハンニバルはカルタゴ兵の遺体を一箇所に集めるよう指示し、きわめて勇敢であった兵士約8,000人が弔われたと記している。また、余談ながら、その際にローマの執政官の遺体も探し出され、葬られたことが何人かの史家によって伝えられていることも記している。
 いずれにせよ、カンナエの戦いはローマ軍にとって壊滅的な敗北であり、カルタゴ軍の圧倒的勝利に終わったと言えるだろう。
 ここで、カンナエの戦いに対する、前述したマケドニア軍とアレクサンドロスの戦術の影響について検証してみたい。読者には、ピリッポス二世率いるマケドニア軍とギリシア連合軍が雌雄を決した「カイロネイアの戦い」における斜線陣形(偽装退却を伴う誘引戦術)、そしてアレクサンドロスが展開した戦闘の基本原理である「ハンマー(鉄槌)とアンビル(鉄床)」の構造を思い起こしていただきたい。
 カンナエの戦いは、ハンニンバルがこの二つの戦術と、複数の構成要素を取り入れ、「包囲殲滅戦術」を完成させた戦いである。以下に、具体的な戦闘展開を振り返ってみよう。まず注目すべきは戦場の選定である。ハンニバルは騎兵戦を有利に運ぶため、カンナエという平坦地へローマ軍を誘い出すことに成功した。
 次に、両軍の布陣に注目したい。両軍はアウフィドウス川の右岸で対峙し、ローマ軍は川の右岸側、カルタゴ軍はその左岸側に布陣した。この配置は、現地人が「ウォルトゥヌス」と呼ぶ風によって砂埃がローマ軍側に吹きつけることを予測した、ハンニバルによる戦術的布陣であった。
 この砂埃は予測通り舞い上がり、それに紛れてカルタゴ中央軍は楔形(三日月形)に薄く前進し、両端には精鋭のリュビア重装歩兵が密集して配置されていた。この陣形は巧妙に隠され、ローマ軍の分厚い戦列はカルタゴ軍中央へと押し寄せ、これを押し戻したことで、三日月の陣形は逆三日月へと変化した。
 この初戦における偽装退却と誘引戦術を可能とした三日月陣形は、マケドニア軍が用いた斜線陣形の応用にほかならない。
 ローマ軍は退却するケルト兵を追撃し、敵陣の奥深くへと侵入していった。結果として、彼らは自軍の両側面をカルタゴ軍中央両翼に待機していたリュビア重装歩兵に晒すこととなった。これを狙ってリュビア重装歩兵が両側面から襲いかかった。ローマ軍は態勢を整えて応戦しようと試みたが、すでに隊列を再編する余裕は失われていた。さらに、騎兵戦で戦果を挙げたハスドルバル麾下の騎兵部隊が、リュビア重装歩兵部隊を支援するために駆けつけ、ローマ軍の背後から奇襲を加えた。この打撃はリュビア兵を勇気づけ、ローマ軍の戦意をも打ち砕いた。こうして戦局は決し、包囲殲滅戦術が完成されたのである。この戦術の完成は、アレクサンドロス大王が展開した基本戦術の見事な応用によるものであった。すなわち、中央のケルト歩兵の両翼に配置されたリュビア重装歩兵が、「鉄床」となってローマ軍精鋭の重装歩兵を抑え込み、ハスドルバル麾下の重装騎兵が背後から「鉄槌」として打撃を加える。この構図こそがアレクサンドロスの戦術思想を具現化したものであった。
 ハンニバルという武将は、知将として名高いハミルカル・バルカを父に持ち、幼少期から戦略や戦術について実践を通じて学ぶ機会に恵まれた。また、ギリシア人のシレノスからはギリシア語を学び、豊富なギリシア文献に触れる機会も得たと考えられる。ちなみにシレノスという人物は、ハンニバルの語学教師としての役割だけではなく、良き理解者であり、側近としてその生涯にわたりを彼に付き添った人物でもある。
 カルタゴは、ヘレニズム文化の影響を強く受けていたことから、ギリシアの軍事文献が存在していた可能性が高い。ハンニバルがそれらを読む機会を得ていたと考えるのは、十分に妥当性があると思われる。アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア文化とオリエント文化の融合が進み、都市設計・戦術・思想などがカルタゴにも伝搬した。その影響は、カルタゴの軍港の構造や、遺跡から発掘された建築遺構、貨幣のデザインなどに私たちは色濃く感じ取ることができる。

【カルタゴ軍の兵站について】
 現代の軍事学には「戦争の素人は戦略を語り、戦争の玄人は兵站を語る」という格言がある。ここまでは、ハンニバルの戦術に特化して書き進めてきたが、それを踏まえ、彼が率いたカルタゴ軍の兵站構造と補給戦略について、少しだけ触れておきたい。
 ハンニバル率いるカルタゴ軍は、カルタゴ人、イベリア人、ヌミディア人、ガリア人などによる多民族混成部隊で構成されていた。その指揮系統と軍の運営は、カルタゴ人将校、部族代表、そして複数の言語や文化に通じた軍事スタッフ、通訳官、外交補佐官らによって支えられていた。どれほど司令官が優秀であっても、実際の軍の指揮や、意思伝達が円滑に行われなければ、大軍勢は単なる兵士の集団に過ぎない。組織化され、統率された軍隊でなければ、勝利への道は開かれないのである。
 こうした軍事スタッフたちは「多言語幕僚」と呼ばれ、戦略会議への参加、部族間の意志調整、戦場における地形・気候・風習・産業・補給経路など、戦闘に必要なあらゆる情報の収集を担っていた。
 カルタゴ軍は、敵地に乗り込むにあたり、戦術以上に兵站の重要性をハンニバル自身が深く理解していたと考えられる。他民族で構成された軍隊であることから、それぞれの部族が自律的に食料・物資を調達する体制が整えられていたと推察される。また、カルタゴ軍は、季節に応じて食料の調達のために軍を移動させており、これはハンニバルが想定した「現地調達兵站戦略」と呼ぶべき方式であった。
 兵站の構成要素をカテゴリー分けすると、以下のようになる。
 ・補給:食料・水・動物・武具などの物資の供給
 ・輸送:物資・兵員の移動手段と経路の確保
 ・保管:戦地における物資の安全かつ効率的な保管と管理
 ・整備:武具・馬・荷駄獣などの運用と修理・保守
 ・医療:負傷兵の治療・衛生管理・薬品の供給
 ・通信:情報:兵站の円滑化を促す情報伝達と調整手段

 カンナエの戦い時点における、カルタゴ軍の現地調達兵站戦略について見てみよう。
 ローマの新執政官二人が選出されるまで、ミヌキウスの軍を引き継いだセルウィリウス・ゲミヌスと、ファビウスの軍を引き継いだアティリウス・レグルスは、「ファビアン戦略」によってカルタゴ軍の兵站を崩壊させつつあったことは、すでに述べたとおりである。ファビウスの戦略が徐々に効果を発揮しつつある状況下で、新たに選出された執政官二人が、倍増した軍勢を率いて戦場に到着した。ハンニバルがこれを喜んだ理由についても、すでに触れた。リウィウスは、当時のカルタゴ軍の兵站戦略が崩壊寸前であったことを記している。「月々の略奪で調達してきた食糧が底をつきかけていた。おまけに田園が不穏となって以来、すべての穀物が方々から防壁で守られた都市へ運び入れられたため、略奪する場所がもうまったくなかった。このため、後日判明したところによれば、かろうじて10日分の穀物しか残されていなかったのである。さらに食料不足のためにヒスパニア人が寝返りしそうな(もし時が熟するまでローマ人が待っていたなら、実際そうなっていただろう)情勢になっていた」。
 このような状況下において、ハンニバルにとっての最善策は、ローマ軍によるファビアン戦略の継続を阻止し、短期決戦に持ち込むことであった。兵站戦略のカテゴリーで言えば、補給・輸送・保管の各要素において、カルタゴ軍はこの時点でローマに完敗していたのである。つまり、カンナエの戦いでは戦術的には完勝したものの、兵站戦略ではファビウスに完敗寸前まで追い込まれていたということになる。
 このように、戦略・戦術で勝利を収めても、兵站が脆弱であれば、戦闘に勝ったとは言えない状況に陥る。ハンニバル軍には、カンナエの戦い以後も「現地調達型兵站戦略」によって敵地で戦う以上、この兵站問題が常に付きまとうこととなるのである。
 これこそが、軍事学が示唆する「戦争の素人は戦略を語り、戦争の玄人は兵站を語る」という格言の意味するところである。すなわち、戦略と兵站は同じ土俵上にある、不可分かつ同格の重要な要素なのである。

【戦闘を終えて】
 引き続き、ポリュビオスとリウィウスの記述を参考にしながら、物語を進めて行こう。
 主戦場とは別の場所でも、戦闘が発生していた。ローマ軍は出陣の際、歩兵1万人を陣営に残し、カルタゴの野営地を急襲させようとしていた。ハンニバルがそれを予測し、相応の守備兵を割けば、主戦場に投入できる兵力が減ると見込んでのことだった。実際、ハンニバルは相当数の兵を陣営の防衛に残していた。主戦場で戦端が開かれると同時に、ローマ歩兵は命令通りカルタゴの陣営へ攻め寄せ、包囲戦が始まった。ローマ軍の猛攻により一時は破られかけたものの、カルタゴの守備兵は必死に交戦を続けた。そのうち、主戦場でカルタゴの勝利が決すると、ハンニバルは兵を率いて陣営へ駆けつけ、ローマ軍を潰走させた。これにより、敵をローマ陣営へと追い込み、約2,000人を討ち取り、残りの兵士はすべて捕虜となった。
 こうしてカルタゴ軍は、カンナエの戦いにおいて完全な勝利を収め、南イタリアの海岸地域ほぼ全域を掌握するに至った。その影響により、タレントゥムが即座にカルタゴへと投じ(※実際の投降は紀元前213年)、アルピやカプアからもハンニバルに投降の意向が伝えられ、他の都市でもカルタゴ軍への解放の兆しが見られるようになった。
 このような状況下、カルタゴ軍営でも一気にローマ本国への制圧の野望がふくらんだ。
 一方ローマでは、敗戦直後からイタリア全土の覇権維持のことよりも、今にもハンニバルがローマに乗り込んでくるのではという不安と恐怖に苛まれた。しかも敗戦から数日後の混乱する状況の中、輪をかけるような事件が起きた。ガリア地方に派遣されていた軍団がケルト人に待ち伏せ奇襲をかけられて全滅したのである。この緊急事態を収めるべく、元老院は民衆に奮起を促し、市の防衛にも手段を講じ、できる限りの方策を打ち出した。それは、ローマ人の実力というものを示す結果となった、とポリュビオスは記している。彼の記述をみてみよう。
 「それでも元老院は、可能な限りの手立ては尽くさねばならないと、民衆に奮起を呼びかけたほか、市の防衛にも手段を講じるなど、動ずることなく危機脱出のための方策を打ち出していった。そしてその実力のほどは、その後のできごとによって証明された。というのも当時、ローマ人は完膚なきまで打ちのめされ、戦士としての誉れも地に落ちたのだが、しかしそれにもかかわらず比類ない国制とすぐれた政策によって、その後カルタゴ軍を征討してイタリアの覇権を奪い返したばかりか、わずかの間に全世界の支配者となるにいたったのである」。『歴史』、作者:ポリュビオス、訳:城江 良和
 一方リウィウスは、戦闘終結後のカルタゴの陣営について記している。
 「勝利を挙げたハンニバルの周りに士官たちが集まり、祝いの言葉を述べた。彼らはこぞって、これほどの戦いをやり終えたのだからあとは翌朝までゆっくりされよ。疲れた兵士たちにも休息をあたえればよい、と勧めた。しかし騎兵隊長のマハルバルはここで手を緩めてはならないと考えた。『とんでもない』と彼は言った。『この戦いで何を得たか、しかと認識していただきたい。あと五日のうちに、あなたは勝者としてカピトリウムで宴を催すことになるはずだ。私のあとをついて来られよ。私が騎兵を率いて先に行こう。あなたが来るという知らせより先に、あなたがすでに到着したことをローマ人に知らせるために』。この考えはハンニバルにはあまりに楽観的すぎるように思われた。また、すぐ受け入れるにはあまりに大それたものだった。そこで彼はマハルバルの意気込みは称賛したものの、この進言について検討するために時間が必要だ、と答えた。するとマハルバルは言った。『なるほど確かに神々は一人の人間にすべてをあたえはしなかった。ハンニバルよ、あなたは勝つすべは知っているが、勝利をいかに利用すべきかを知らぬ』。この日の遅疑逡巡が首都ローマとその支配を救ったと、一般に考えられている」。『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 以上、カンナエの戦いの戦後について、ポリュビオスとリウィウスの記述を紹介した。
 ポリュビオスによれば、ローマはこの戦いにおいて大敗を喫したものの、揺るぎない国制と優れた政策によって不屈の精神を失うことなく、やがて後年になって第三次ポエニ戦争でカルタゴを倒すことになる。その結果、地中海全域に支配を広げ、西はイベリア半島から東はメソポタミアに至るまで、短期間のうちに大帝国を築き上げた様子が淡々と語られている。こうした記述は、ローマという国家の成長と制度的完成による強靭さを主眼に、史実を記録しようとする歴史家としての彼の姿勢を反映していると言える。
 一方、リウィウスは、ローマ軍を壊滅状態に追い込んだハンニバルが、首都ローマへの侵攻をためらったこと、そしてその決断をめぐって部下との確執が生じた様子を描いている。

【遅疑逡巡】
 歴史に「たられば」は存在しない。しかし、後世の人々はそのことについて語り合い、果てしない歴史談議に花を咲かせることがある。リウィウスが描く、ハンニバルの首都ローマ侵攻への「遅疑逡巡」も、そうした「たられば」談義の一つとなるであろう。
 では、ハンニバルがなぜマハルバルの進言に対して「検討するために時間が必要だ」と答えたのか。その理由を探るために、幾つかの考察を試みたい。幸いにも現代には、戦略分析の分野に多くの体系化された手法が存在する。ここでは、「SWOT分析」を用いて、ハンニバルの「遅疑逡巡」の背景を多角的に検討することとする。
 SWOT分析とは、1970年代に企業経営戦力の枠組みとして誕生した手法であり、内部要因である「強み(Strengths)」「弱み(Weaknesses)」、外部要因である「機会(Opportunities)」「脅威(Threats)」を整理することで、状況の全体像を把握することができる。今回は軍の体制・技術・地政学的状況をもとに、カルタゴ軍とローマ軍を対比しながら分析を進め、ハンニバルの判断の背景を読み解く材料として活用したい。
 まずカルタゴ軍の分析から始めよう。「強み」としては、司令官がハンニバルであること、高度な戦術力、精鋭の重装騎兵軍団と軽装のヌミディア騎兵軍団の存在が挙げられる。一方、「弱み」としては、本国からの補給や兵員支援が困難であること、攻城戦の経験不足と攻城機具の欠如、敵地での戦闘による情報・通信の断絶がある。「機会」としては、ローマ軍が慣習的な戦術に依存していること、同盟都市への政治的揺さぶりによる分解の可能性がある。脅威としては、ローマ軍の兵站能力の高さ、迅速な軍団の再編、同盟都市の忠誠維持、講和交渉の不透明性、そして攻城戦の長期化による背後からの攻撃の危険性が挙げられる。
 次に、ローマ軍の分析である。
 「強み」は重装歩兵の堅牢さ、補給の容易さ、兵員調達体制の整備、そして市民および同盟都市の忠誠心の高さである。「弱み」としては、騎兵力の劣勢、司令官の二人制による指揮の不安定さ、指揮権の交代制度による戦略運営の支障、同盟都市市民の権利制限への不満が挙げられる。「機会」は、自国および同盟国による軍の再編が可能であること。「「脅威」としては、戦闘結果による同盟軍の士気低下と離反の可能性、カルタゴ本国からの支援到来の懸念が挙げられる。
 以上のSWOT分析を踏まえ、次に「TOWSマトリクス」を用いて戦略的判断を試みることにする。これは、外部環境(脅威・機会)を起点にして、内部環境(強み、弱み)をどう活かすかを導く手法である。
 まずSO戦略(積極型戦略)では、ハンニバルの卓越した戦術力と精鋭の騎馬軍団を活かし、同盟都市への積極的な宣伝工作を通じてローマからの離反を促す。カンナナエの戦い後、投降の意向を示した都市を中心に迅速な拠点化を行い、政治的圧力と兵站の安定化を図る。ハンニバルは戦争の長期化を避け、ローマの混乱を狙って講和交渉を進める意図を持っていた。彼が戦死したローマの元老院議員や将校の指輪(印象)を、弟マゴに託してカルタゴに送ったことからも、本国の支援なしに敵地で戦うことの限界を感じていたことがうかがえる。
 次に、WO戦略(改善型戦略)では、戦果の証拠をもってカルタゴ元老院の支援を喚起し、戦時体制への移行を図る必要があった。兵士の増強や、兵站問題の解決には、本国からの支援体制の構築が不可欠である。また、カルタゴの海軍力を活用し、ローマへの食料輸送を妨害することも有効な手段であった。
 ST戦略(防衛型戦略)では、ハンニバルの高度な戦術力と騎馬軍団の奇襲能力を活かし、ローマ軍の再編を妨害奇襲することが考えられる。また、同盟諸国への威圧的存在感を示すことで離反を促し、ローマの首都攻城戦を回避して野戦へと誘導する方策が考えられる。また、占領都市に対しては、カルタゴの寛容な統治を示すことで安定化を図る。これらの戦略には、ハンニバルの卓越した戦術的才能が不可欠である。
 最後にWT戦略(回避型戦略)では、損害を最小限に抑えるために戦闘を避けるという選択肢がある。ローマの都市防衛力に対して、攻城機具を欠くカルタゴ軍が長期戦に陥る可能性、補給線の脆弱性、同盟都市の去就が不明な状況下での首都進攻は、極めて高いリスクを伴うのである。ハンニバルが自軍の限界を認識し、最悪の事態を回避するための戦略的判断として、この選択肢を検討する価値は十分にあると考えられる。
 以上のように、「TOWSマトリクス」の四つの戦略を分析した結果、ハンニバルが「遅疑逡巡」した理由は、自軍の強みを活かし、弱みを避け、相手の機会をうかがい、脅威に備えるために、戦略と戦術を慎重に組み立てる必要があったからである。どの要素が彼にとって最も重要であったかを特定することはできないが、彼は兵站の脆弱性、政治的包囲網の堅実性、攻城戦の長期化に伴う複合的な脅威を冷静に見極めるための時間を必要としたのであろう。彼の「遅疑逡巡」は、単なる優柔不断ではなく、深い戦略的思考に基づく冷静かつ合理的な判断であった可能性が高い  と著者は考えている。
 ハンニバルは、戦闘における勝利の意味を深く理解していたからこそ、事を急いて敗北することの危険性も熟知していたのである。彼が考えたのは、ただ首都ローマを落とすことではなかった。敵地で転戦しながら勝利を重ねるカルタゴ軍は、いまだに政治的・軍事的基盤が未成熟であり、勝利を持続可能な戦略的成果へと昇華させることこそが重要であった。そのためには、ローマ同盟都市の離反を促し、カルタゴ本国の支援を確実なものとし、確固たる拠点を築いて兵站の安定化を図る必要があった。ハンニバルが望んでいたのは、戦術的勝利の先にある「秩序の完成」であり、それを実現するためには、冷静な準備期間が不可欠だったのである。
 それこそが、己の戦術に溺れることなく、冷静にカルタゴの行く末を見つめ、父の意思を継いだ若き天才の真の姿であった。

( 「第5章 第7節 第2次ポエニ戦争 ローマの盾とローマの剣」に続く)
ジョン・トランブル『パウルス・アエミリウス、カンナエの戦いで死す』(1773年)
出典:Wikipedia
ディドー女王を思わせるオリーブを持つ女性/1ディナール硬貨/チュニジア
ジョン・トランブル『パウルス・アエミリウス、カンナエの戦いで死す』(1773年)、出典:Wikipedia「ルキウス・アエミリウス・パウルス」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ルキウス・アエミリウス・パウルス
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
CNN 2016年4月5日掲載記事
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井 萌
「英雄伝」著者:プルタルコス・訳:柳沼重剛・訳:高橋 宏幸
「ポエニ―戦争の歌」著者:シーリウス・イタリクス
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭
『カルタゴの遺書 ある通商国家の興亡』著者:森本哲郎/td>
『アルプスを越えた象』著者:ギャヴィン・デ・ビーア・翻訳:時任生子
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館
「世界図書室」HP
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ
「「鐙━その歴史と美━」発行者:野馬追の里原町市立博物館」
「トラスメヌス湖畔の戦い戦図/フランク・マティーニ。アメリカ陸軍士官学校歴史学科地図製作者(フランク・マルティーニがウィキペディアの「米国陸軍士官学校歴史学科」の内容を使用する許可の引用)」
「トラシメヌス湖畔の戦いで斬首されたフラミニウス絵画/フランスの歴史画家:ジョゼフ・ノエル・シルヴェストル作/ウィキペディアより」
アメリカ陸軍士官学校歴史学部 フランク・マルティーニ。アメリカ陸軍士官学校歴史学部地図製作者による「カンナエの戦い布陣図」、「カンナエの戦い戦況図」二部
筆者画像:長槍(サリッサ)/テッサリア/ギリシア
筆者画像:子供を左手に抱くポエニ神官/バルドー博物館/チュニス/チュニジア
筆者画像2枚:デルフォイの宣託所遺跡/デルフォイ/ギリシア
筆者画像2枚:デルフォイ博物館収蔵品画像/デルフォイ/ギリシア
筆者画像:ディドー女王を思わせるオリーブを持つ女性/1ディナール硬貨/チュニジア
【ハンニバル・バルカ】
第1章 第1次ポエニ戦争
第2章 第2次ポエニ戦争 序章
第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越え
第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越え
第4章 第2次ポエニ戦争 第1節 戦闘開始
第4章 第2次ポエニ戦争 第2節 トレビア川の戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第1節 アペニン山脈を越えて
第5章 第2次ポエニ戦争 第2節 カンパニアからの脱出
第5章 第2次ポエニ戦争 第3節 二人の独裁官
第5章 第2次ポエニ戦争 第4節 ファビアン戦略
第5章 第2次ポエニ戦争 第5節 カンナエの戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第6節 戦闘開始