トップページ

『ハンニバル・バルカ / 第5章 第7節 第2次ポエニ戦争 同盟都市攻略』


【スキピオの登場】
 カンナエの戦いに勝利したハンニバルは、次の戦略をどう描いていたのか。彼は騎兵隊長マハルバルの進言を退け、首都ローマへの侵攻を行わなかった。これは前述の通り、ハンニバルがカンナエの戦いの勝利の先にローマ占領を見据えていなかったためである。彼が敵地で直面していた喫緊の課題は、ローマ同盟都市の切り崩し、カルタゴ本国からの確実な支援の取り付け、そして兵站の確立という、戦略的な「秩序の構築」であった。これらの課題をすべて克服することが、敵地におけるカルタゴ軍の今後の展開を左右する重要な要素となる。言い換えれば、課題をクリアできなければ、カンナエの勝利も空しく、敵地での戦略も戦術も崩壊し、撤退どころか軍全体が消滅の危機にさらされることになる。ハンニバルはその危険を骨身に染みるほど理解しており、すぐさま行動を開始した。
 さて、筆者はこれまで、ポエニ戦争の開戦からカンナエの戦いに至るまでの軍事的・戦略的および戦術分析において、第一級の資料であるポリュビオスとリウィウスの記述を中心に据えて記述してきた。しかし、カンナエの戦い以後については、ポリュビオスの『歴史』の該当部分が現存しておらず、以降の記述においては、リウィウスの『ローマ建国以来の歴史』を主軸とし、プルタルコスの『英雄伝』およびアッピアノスの『ローマ史』、さらにポリュビオスの断片的な記述を補助的に参照しながら、記述を進めることとしたい。
 早速、プルタルコスの『英雄伝』にカンナエの戦い以後の記述があるので、引用する。
 「かほどの大成功を見るや、友人たちはハンニバルに、この幸運の波に乗って、逃げる敵と一緒にローマになだれ込もう、そうすれば、この勝利から数えて五日目には、カピトリウムで祝杯を上げることができる、と言った。ところが、何をどう考えたうえでのことかは言いがたく、むしろ、いずれかの神が干渉したもうたと見るほかないような有様で、ためらいと気おくれが生じて、この企ては沙汰やみとなった。そこでカルタゴ人バルカス(著者注:マハルバル)が、ハンニバルに向かって腹立ちまぎれに、『貴殿は勝ち方はご存じだが、勝ちの使い途をご存じない』と言ったという。しかしながらこの勝利は、ハンニバルには大変な変化をもたらした。これまで彼はイタリアに、一つの都市、一つの市場、一つの港をもつわけではなく、軍に必要なものは、略奪によって辛うじて手に入れたのみで、戦争を始めるための資源は確保されておらず、さりながら山賊の大軍の如くさすらい廻っていたのが、このときは、もう少しでイタリア全土をわが手に収めるところまでいった。そしてそこに住む諸民族の中の大多数、そして最大のものも、自らの意志によって彼の側につき、中にもカプアという、ローマに次いで最大の名声を持つ都市が、しっかりと彼の側についた。」プルタルコス著:英雄伝、訳:柳沼 重剛
 プルタルコスが記すように、ハンニバルの戦略的な秩序の確立の一環として、ローマ同盟都市の切り崩しが進み、「カプア」が離反してカルタゴ側についた。
 一方、リウィウスによれば、カンナエの敗戦後、カヌシウムへ逃れた軍団将校が4人いた。第一軍団のファビウス・マクシムス(父は前年の独裁官)、第二軍団のルキウス・プブリキウス・ビブルスとプブリウス・コルネリウス・スキピオ、第三軍団のアッピウス・クラウディウス・プルケルである。彼らは全員で合議の末、当時18歳の若きプブリウス・スキピオとアッピウス・クラウディウスに最高指揮権与えた。そこへ元執政官の息子プブリウス・フリウス・ピルスが現れ、ルキウス・カエキリウス・メテルスを中心とする名門の若者たちが、敗戦によって国家の回復は不能と考え、船で国外脱出を企てていると告げた。それを聞いた一同は仰天し、再度会議を開くこととなった。
 ここに、待ち望まれた新たな天才の登場を語る時が来た。その人物こそ、後に「大スキピオ」と呼ばれる、プブリウス・コルネリウス・スキピオである。若干18歳にして、軍団指揮権を託されたことからも、彼の卓越した資質がうかがえる。
 プブリウス・ピルスの報告を受けたスキピオは動じることなく、素早く少数の者を率いてルキウス・メテルスの宿舎へ急行した。そこでは、プブリウス・ピルスが告げたように若者たちが密かに会合を開いていた。
 リウィウスの記述を引用する。
 「彼は談合している者たちの頭上に剣をかざして言った。『私はわが衷心より誓う。ローマ国民の国家を決して見捨てぬことを。また誰か他のローマ人がこれを見捨てるのを決して許さぬことを。もし私が故意に誓いを破ったならば、その場合は最善最高ユピテル神よ、私を、我が家を、わが家族を、わが財産を最悪の破滅でもって罰したまえ。ルキウス・メテルスよ、私はそなたに同じ文句で誓いを立てるよう求める。ここにいるほかの者たちにもだ。誓いを拒む者は、この刃が自身を見舞うものと知れ』。全員がまるで勝者ハンニバルを目の前にしたかのように震え上がり、誓いを立てた。そしてその身をスキピオの監視下に委ねた。」『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 プブリウス・スキピオがこうして監視下においたカヌシウムには、すでに一万人以上の兵が集結していたのである。
 一方、前述のウェヌシアに逃れ、生き恥をさらすこととなったもう一人の執政官、ガイウス・テレンティウスのもとには、戦場から逃れてきた騎兵や歩兵約4,500人がたどり着いていた。ウェヌシアの人々は、これらの敗残兵に対して寝床や衣類、金銭、武器などを与え、親切にもてなしたのである。
 アッピウス・クラウディウスとプブリウス・スキピオは、ガイウス・テレンティウスが無事であることを知ると、すぐに使者を送り、彼らの監視下にある兵士をウェヌシアへ移動させるべきか、それともカヌシウムに留め置くべきか、意向を尋ねた。ガイウス・テレンティウスは自ら軍を率いてカヌシウムへ移動してきた。この結果、ローマ軍は正規の執政官が率いる軍容に匹敵する規模となった。城壁に守られたこの軍容は、カルタゴ軍に対して十分に対抗できる可能性を秘めているように思われた。
 それでは、首都ローマはカンナエの敗戦後、どのような状況にあったのか。リウィウスによれば、前述のような敗残兵が軍団の形勢を整え始めたという情報は首都には伝わっておらず、二人の執政官がカルタゴ軍に完全な敗北を喫し、全軍が壊滅という知らせだけが届いていた。この状況は、前年のトラシメヌスの敗戦によって市民が受けた打撃の、さらに何倍もの災厄として受け止められたと記されている。このことから、二人の執政官が率いていた軍団は壊滅し、もはやローマの将軍も兵士も存在せず、ほとんどイタリア全土がハンニバルの手中に帰したという噂が広がった。
 この時、首都防衛の任に当たっていたプラエトル(法務官)プブリウス・フリウス・ピルスとマルクス・ポンポニウスは、今後の首都防衛の対応を協議するため、元老院を招集した。なぜなら、カンナエの戦いに勝利したハンニバル軍が、間違いなく首都ローマへの攻撃に踏み切ると確信していたからである。
 家族を出征させた者も、そうでない者も、特に女たちは公共の場で喚き、泣き叫び、ローマ市内は嘆きと悲しみ、そして恐怖の渦に巻き込まれていた。
 招集された元老院議員たちの前で、まるでこのような出来事を予見していたかのように、一人の議員が落ち着き払って意見を述べた。それが、クィントゥス・ファビウス・マクシムスである。リウィウスの記述を以下に引用する。
 「軽装の騎兵をアッピウス街道とラテン街道に派遣すべきである。そして彼らをして行き会った者(敗走してちりぢりになった者がきっといるはずである)に問い質させ、コーンスルと軍隊の運命がどうなったか報告させるべきである。またもし不死なる神々がこの国を不憫と思し召し、いくらかでもローマの名を残されたとすれば、その軍勢はどこにいるのか、戦闘ののちハンニバルはどこへ行ったのか、彼は何をもくろんでいるのか、彼は今何をし、今後何をしそうか、報告させるべきである。これらについて調査し確認するのは元気な若者の仕事である。元老院議員自らは、政務官の数が足りぬのだから、次の仕事をやるべきである。市内の混乱と動揺を鎮めること、女たちを公共の場から締め出し、自宅に閉じ込めておくこと。家族が大声で嘆き悲しむのを禁じ、都市全体を静穏にすること。何か知らせを持ってきた者はみなプラエトルのところへ連れて行かれるようにすること(各人は縁者の消息を家で待つべきである)。加えてさらに門のそばに見張りを置き、誰も市外へ抜け出さないようにし、都市と市壁の安全なくして自分たちの安全もないのだと人々に思わせることである。かくして騒ぎが収まったのちあらためて議事堂に議員を招集し、首都の防衛について協議するべきである」。この意見の提案者に全員が歩み寄り、賛意を表した。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 このファビウスがプラエトルに示した的確な提言は、リウィウスの記述のみならず、プルタルコスも『英雄伝』の中で詳しく記している。
 「この戦いの前にファビウスの臆病とか冷淡とか言われていた点が、戦いの後には、あれは人間の推理ではない、あれほど前から、いずれ起こるであろうことを予見した、しかも、その事件に実際に出会った人々にすら信じられないことを予見したのだから、神来の予見にちがいないと思われた。そこでたちまち、ローマは最後の希望をこの人に託し、さながら神殿か祭壇にでも駆け込むように、この人の意見を頼りにし、ローマが〔ここにわずかな欠損部がある〕ガリア人の難のときのように、破壊されずに残っている第一の、そして最大の原因は、この人の思慮だとした。それというのも彼が、何ら問題がないと見えたときに用心深く振る舞って、希望を捨てたかに見えたばかりか、今また、すべての人々が底無しの悲しみに打ち沈み、手の施しようのない混乱にあえいでいるとき、彼一人だけが、静かな足取りと落ち着いた顔つき、そして好意あふれる話しぶりで、町々を行き来し、女のように胸をたたいて大袈裟に悲嘆の情を表すのをやめさせ、互いに共通の泣き言を公の場に持ち出すのを押さえ、元老院を招集するように説き、役職者を励ましたが、彼自身こそ、その体力・気力の源となっていた。だれもがみな、何かと言えば彼を顧みていたからである。かくて彼は、城門ごとに人を立たせてローマを見捨てて逃げようとする群衆を押し止どめ、あるいは、死者のために嘆く場所は自宅、期間は30日と定め、それ以後はすべての嘆きをやめ、町を浄めることとした。そのころ豊穣の女神ケレスの祭日が巡ってきたが、犠牲式や行列に参加する者が少なく、また心も打ち沈んでいたので、この祭りを全面的に取りやめにする方がよいと思えた。なぜなら、神は幸せな人間から崇められることをお喜びだからである。ただし、神の怒りを鎮めまいらせる儀式と、奇怪な前兆が告げる不吉が現実に起こらないようにするためのお祓いの儀式は、占い師の主催のもと、きちんと行われた。それにまた、ファビウスの一族のピクトルが、神託を伺う特使としてデルポイに派遣された。ウェスタ女神に仕える二人の処女の巫女の不品行が発覚し、一人は古式にのっとって生き埋めにされ、もう一人は自害した。しかし最も讃嘆されたのは、執政官のウァロが、世にも恥ずべきことをなしたうえに、はなはだ不運な目にあった人さながらに、身を低うし、目を伏せながら、逃亡先から帰って来たのを、城門で、元老院の人々が快く迎え入れた、そのとき示された穏やかな気品であった。要職にある人々も、元老院の士だった人々も、群衆が静まるや、ウァロがかほどの不幸にあいながら、国について絶望せず、むしろ国政にあずかり、できるかぎり法律と市民を救おうとしていることを称讃した」。プルタルコス著:英雄伝、訳:柳沼 重剛
 このプルタルコスの記述から、カンナエの敗戦を機に、ようやく本当の意味での「ファビアン戦略」がローマ人の心に深く浸透し、理解されたことが読み取れる。
 この記述をもとに、さらに考察を進めて行こう。
 ファビウスは、ローマ市内が落ち着きを取り戻すのを見計らい、通常行われる豊穣の女神「ケレスの祭り」を中止し、神の怒りを鎮める儀式と、不吉な前兆が実現しないためのお祓いの儀式を執り行った。そして彼は、この後に続けて三つの重要な要素を明確に描き分け、ローマの正統的な宗教観・倫理観・政治的寛容性を織り混ぜながら、危機を乗り越える底力ともいえる強靭な精神力をしめしたのである。
 その要素の詳細に触れると、まずファビウスは、神託の地として知られるギリシアのデルポイに、ファビウス一族からクィントゥス・ファビウス・ピクトルを特使として派遣した。ローマにはもともと、神意をうかがうための宗教制度が独自に存在しており、卜占官や腸卜師による占い、シュビラの書による預言の確認などがそれにあたる。加えて、国家的な危機の際には「外部において神意を問う特別な場所」として、ギリシア中部のパルナッソス山麓にあるデルポイの神託所が利用された。
 ローマは独自の宗教制度を中心に政治を運営しつつも、デルポイの神託所を「外部の神意を伺う重要な場」として位置づけていたことがわかる。デルポイの神託は、ローマにとって「神意による国家再建の柱」としての意味を持つ、重要な宗教儀式でもあったのである。
 また、フォロ・ロマーノにあった「ウェスタ神殿(竈と家庭の守護神)」の「永遠の火」を守る「ウェスタの処女」と呼ばれる6人の巫女のうち、2人が不品行(貞操の破棄)を犯したことで、国家的純潔性を回復するために、一人は古式に則って生き埋めにされ、もう一人は自害したとされる。
 ウェスタ神殿は、単なる宗教施設ではなく、ローマという国家の存続と安定を象徴する、いわばローマ人の魂の中枢とも言える存在であった。そこで起きた巫女の不品行は、国家的災厄と見なされ、厳罰が科されることで、ローマの神聖性が回復されたことを国民に示す儀式となったのである。
 さらに、カンナエの戦いにおいて逃亡した執政官ガイウス・テレンティウスが、恥ずべき行為を経た身にもかかわらず、身を低くし、目を伏せてローマに帰還した際、城門で元老院議員たちに快く迎え入れられたことが記されている、
 このように、プルタルコスは三つの重要なローマの正統的な宗教観・倫理観・政治的寛容性を織り混ぜて、ローマという国の強靭性を語ったのである。

【ローマの剣登場】
 さらに、リウィウスはローマの強靭性を示す措置について記述している。
 「またいかなる祈願や供犠を行えば神々を宥められるのか、いかにしてこのひどい災厄は終わるのか、伺いを立てるために、クィントゥス・ファビウス・ピクトルがデルポイの託宣所へ送られた。この間に預言の書に基づきいくつかの異例な犠牲が捧げられた。そのうちの一つとして、ガリア人の男女とギリシア人の男女が牛の広場の岩で囲まれた場所に生き埋めにされた。そこはかつて、およそローマ的な風習とは言いがたい人間の生贄が捧げられた場所だった。
 こうして神々の怒りは十分宥められたと考えられた。そこでマルクス・クラウディウス・マルケレスは艦隊勤務のため徴収した1,500人の兵士を、首都防衛のためにオスティアからローマへ送る。彼は艦隊の軍団(すなわち第三軍団)を軍団将校とともにテアヌム・シディキヌムへ先行させ、艦隊を同僚のプブリウス・フリウス・ピルスに委ねる。そして数日後カヌシウムへ強行軍で向かう。その後元老院の指示に基づきマルクス・ユニウスが独裁官に、ティベリウス・センプロニウスが騎兵長官に任命される。彼らは新兵の徴募を行い、17歳以上の若年兵と若干の紫縁のトガを着た若者を登録する。そしてこの者たちから四個軍団と1,000人の騎兵を編成する。彼らはまた兵員台帳のなかから提供されるはずの兵士を受け取るため、同盟者とラテン人の都市に人を遣わす。武具、投槍、その他の装備を準備するよう命じ、敵から奪った古い戦利品の武具を神殿や柱廊より持ち出す。自由人の数が不足しており、しかも時が切迫していたため、別なやり方の徴募が行われた。頑健な奴隷の若者8,000人を、あらかじめ一人一人に従軍の意思を尋ねた上で国費で購入し、武装させたのである。捕虜を買い戻した方が安く兵力を確保できただろうが、しかし彼らはこうした奴隷の兵士をより好ましく思ったのだった。」『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 リウィウスのこの記述からも明らかなように、カンナエの戦いにおける敗北は、ローマにとって軍事的な限界をもたらすものであった。しかし、いかなる状況下にあっても、ローマは不屈の強靭さをもって機能し続ける国家であったことが示された記述でもある。
 プルタルコスも記すように、「ウェスタの処女」と呼ばれる6人の巫女のうち2人が冒涜的な行為を犯したことは、災厄の予兆と見なされ、10人委員によるシュビラの書の参照が命じられたとリウィウスは記している。これに基づき、ガリア人の男女とギリシア人の男女が、牛の広場の岩で囲まれた場所に生き埋めにされた。
 この「牛の広場」とは、古代ローマ時代からティベリス川沿いに位置する、牛の取引が行われていた交易地である。周辺にはヘラクレス・ヴィクトル神殿、ポルトゥヌス神殿、アラクマス・ヘルクリス(ヘラクレス大祭壇)などが存在し、この地は同時に、家畜を神々に捧げる宗教儀式の場としても機能していた。その場所で、今回は共和制ローマにおいて禁忌とされる、人間を犠牲とする「異例の供犠」が行われた。これはシュビラの書に基づく非常手段であり、古代に行われていた儀式の一時的再現によって神々の怒りを鎮めようとする、なりふり構わぬ国運を賭した対応であったことがうかがえる。
 さらに、これらの儀式を終えたのち、元老院は即座に首都防衛と前線における軍の再編に着手する。まだ無傷の第三軍団(艦隊所属)は、ティベリス河口に広がる海の玄関口、オスティアに駐留していた。そこから艦隊勤務の兵士1,500人をローマへ移送し、首都防衛に充てた。加えて、第三軍団の将校とともに軍団をカンパニア地方のテアヌム・シディキヌムへ先行させ、クラウディウス・マルケレスは数日後、敗残兵が集結していたアブリアの奥地カヌシウムへ強行軍で向かった。なお、艦隊の指揮権は同僚のプブリウス・フリウス・ピルスに委ねての移動であった。
 カヌシウムでは、前述の通りスキピオが敗残兵をまとめ上げ、祖国防衛への誓いを立てさせた直後であり、クラウディウス・マルケレスの到着は、軍の再編と兵の士気回復にとって、まさに絶好の時期であったと言える。こうして、「ローマの剣」と呼ばれるもう一人の英雄が表舞台に登場したのである。

【カルタゴ軍の動き】
 ここでカルタゴ軍の動向については、引き続きリウィウスの記述をもとに追っていくことにしよう。
 カンナエの勝利以後の、ハンニバルの軍事行動を記す前に、ローマおよび同盟都市の捕虜の扱いについて、少々長くなるが、どうしてもここで触れておく必要がある。というのも、ローマが自軍兵士の捕虜交換をあえて拒否した経緯について、一般的には、カルタゴ軍の軍資金となることを恐れたためとされている。しかし筆者は、それ以上に、ローマという強靭な国体が持つ冷徹かつ緻密な計算による判断が、交換拒否の根底にあったのではないかと考えている。
 ハンニバルは、カンナエの戦いにおける勝利によって得た捕虜を、ローマ軍兵士と同盟軍兵士の二つの集団に分けた。そして、以前の戦いでもそうしたように、同盟軍兵士に対しては身代金を要求することなく解放した。次に、彼はローマ軍兵士に向かってこう語りかけた。
 「私は相手を皆殺しにするためローマ人と戦っているわけではない。名誉と支配のため戦っているのである。かつてわが父たちはローマ人の武勇に屈服した。今度は逆にローマ人をわが幸運と武勇に屈服させようと、私は努めているのである。それゆえ捕虜たちには自らを買い戻す機会をあたえてやろう。代価は騎兵一人につきクワドリーガ―トゥス銀貨500枚、歩兵300枚、奴隷100枚である」。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 捕虜たちの投票によって、ローマ元老院に交渉するための代表10名が選ばれ、カルタゴ人貴族のカルタロが同行して出発した。使節団がローマに到着し、その来訪が知らされると、一人の警吏がカルタロに面会し、捕虜たちを迎え入れた。しかし、彼には「日暮れまでにローマの領域から立ち去るように」との独裁官の言葉が伝えられた。
 捕虜たちの使節は元老院への出席を許され、その代表が元老院で次のように述べた。少し長くなるが、捕虜たちの必死の弁明であり引用しよう。
 「マルクス・ユニウス(筆者注:現独裁官)ならびに元老院議員の方々よ、われわれのなかでわが国ほど捕虜が軽んじられる国はないことを知らぬ者はない。だが、もしわれわれが自分たちの場合についてひどく手前勝手な理解をしているのでなければ、われわれが敵の手に落ちたときの状況は、これまで他の誰が捕虜となったときより、あなた方の同情に値するものだったと言える。なぜなら、われわれは戦場で臆病風に吹かれて武器を放棄したわけではない。屍の山の上で日暮れ近くまで戦い、しかるのち陣営に退却した。その日の残りと続く夜のあいだ、労苦とけがのため疲れ切っていたにもかかわらず、堡塁を守った。翌日、勝利した敵の軍隊に包囲され水を断たれた。群がる敵の間を突破できる見込みはなかった。われわれは、すでにわが軍の者5万人が斃れた今、何人かの兵士がカンナエの戦いから生き残ったとしても不埒なことではあるまいと考えた。こうしてついにわれわれは解放のための身代金の額を取り決め、もはや役に立たない武器を引き渡したのである。かつて私が聞いた話では、祖先たちも金でもってガリア人から解放されたという。また平和の条件にあれほど厳しかったあなた方の父たちも、捕虜を買い戻すためタレントゥムに使節を送ったという。だがアリア川でのガリア人との戦いも、ヘラクレアでのピュロスとの戦いでも、ともに損害の大きさよりむしろローマ人が見せた臆病ぶりと逃走で悪名高いものだった。これに対し、カンナエの平原は大量のローマ人の死体で埋め尽くされている。われわれがこの戦いを生き延びたのは、ただもう敵がわれわれを殺す剣と体力を失くしてしまったからにすぎない。わが軍のなかには戦闘に参加せず、陣営の守備隊長として残され、陣営が開け渡されたときに敵の手に落ちた者もあった。私はどの同胞市民や戦友の境遇も立場も妬んでなどいない。また他人を貶めることで自分を良く見せるつもりもない。とはいえ、足の速さや走りっぷりの良さを競う大会ではあるまいし、戦場からあらかた無腰となって逃げだし、ウェヌシアやカヌシゥムまで一気に駆け抜けたような者たちが、さもわれわれより手柄を立てたようなふりをしたり、われわれよりすぐれた国の守り手だなどと自慢したりするべきではない。なるほど彼らは立派で勇敢な兵士として働くだろう。だがわれわれは彼ら以上に国家のために尽くすだろう。われわれはあなた方によって購われ、祖国に戻されるわけなのだから。あなた方はあらゆる年齢と身分のなかから兵士を募っている。聞くところによると、8,000人の奴隷が武装させられたという。われわれの数は彼らより少なくはないし、われわれを買い戻す値段は彼らを買い入れる値段より高くはない。われわれという人間そのものを彼らと比較するのは、ローマの名を侮辱することになるからやめておこう。この問題について判断するにあたり、元老院議員の方々、あなた方には次のことも考慮してもらいたいと思う。すなわち、もしあなた方が厳しい態度を取ろうとすれば  われわれはそうした仕打ちに値するようなことを何もしていないのだが  、われわれがいかなる敵に委ねられることになるのか、ということを、捕虜を客人のように扱ったピュロスになのか?それとも貪欲以上に残酷と言うべきか、残酷以上に貪欲と言うべきかわからぬ野蛮人、カルタゴ人になのか?もし鎖に繋がれ、薄汚れ、みすぼらしげな同胞の姿を目にすれば、その光景にあなた方はきっとカンナエの平原に横たわる軍団を見たときに劣らず心動かされるだろう。あなた方は今、議事堂の入り口の前に詰めかけ、あなた方の回答を待つわが肉親たちの心痛と涙を目にすることができる。彼らがわれわれとここにいない者たちのためにこれほど不安で落ち着かない状態でいるとすれば、生命と自由が危機に瀕している当人の気持ちはいかばかりかとお思いか?かりにハンニバルが(神よ、憐れみたまえ!)その本性に反しわれわれを寛大に扱ったとしても、もしあなた方に買い戻すに値しないと見なされるのなら、われわれは命など無用と考えるだろう。かつてピュロスに無償で解放され、ローマに戻った捕虜たちがいた。しかし彼らは自分たちを買い戻すため派遣された(市民として錚々たる人士からなる)使節とともに帰って来たのである。私は銀貨300枚にも値せずと判断された市民として祖国に帰って来るのだろうか?人には人それぞれの思いがあるのだ。元老院議員のお歴々よ。私は自分の生命と肉体が危機に直面しているのを知っている。だが私がいっそう恐れるのは、あなた方に断罪され拒絶されて立ち去るとなれば、いかに名誉が傷つくかということである。なぜなら世の人は誰も、あなた方が出費を惜しんでそうしたなどとは考えぬだろうから」。
 『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 これに対して元老院は、ティトゥス・マンリウス・トルクワトゥスに意見を求めた。彼は、捕虜たちの訴えが単なる買戻しの嘆願ではなく、自己弁護と名誉の主張に満ちていたことを厳しく批判し、捕虜の買戻しに反対する演説を行っている。
 「もし使節がただ単に敵の手中にある者たちを買い戻してほしいと訴えただけなら、私は彼らについてとやかく言ったりせず、手短に発言を終えていただろう。諸君にこう忠告する以外、なすべきことなどないのだから。軍隊の活動に不可欠な手本を示し、かくして父祖伝来の慣習を固く守れ、と。だが実際彼らは敵に降伏したことをほとんど自慢せんばかりであった。また自分たちは戦闘中に捕らえられた者はもちろん、ウェヌシアやカヌシウムに辿り着いた者、さらにはコーンスルのガイウス・テレンティウスよりも高く評価されるべきだと考えていた。それゆえ元老院議員諸君、私は彼らがかの地でいかに振る舞ったかを、諸君にしかと教えてやらねばならぬ。私がこれから諸君に対し言うことをカヌシウムで、誰が臆病で誰が勇敢かを最もよく知る軍隊の前で言えたなら!せめてプブリウス・センプロニウスだけでもここにいてくれたなら!もし彼の先導にあの者たちが従っていれば、彼らは今日捕虜として敵の手中にではなく、兵士としてローマの陣営にあっただろう。敵は戦いに疲れ、あるいは勝利に浮かれ、多くが陣営に退いた。よってその夜出撃しようと思えばいくらでもできたし、また7,000人の武力をもってすれば、密集した敵の間を突破することさえできた。にもかかわらず彼らは自ら率先してそうすることも、誰かの後に従ってすることもなかった。プブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスは夜通し忠告し、説得し続けた。陣営の周囲の敵がまだわずかなうちに、平穏と静寂に包まれているうちに、闇にまぎれて企てを実行するうちに、自分のあとについてくるべきだ。そうすれば夜明け前には安全な場所に、同盟者の町に到達できるだろう、と」。
 さらに厳しい言葉で捕虜たちを攻め立てる。
 「だがこの連中の臆病ぶりをどうして非難なぞしようか?それより私は彼らが犯した罪を糾弾したい。彼らは正しい忠告をした者に従うのを拒んだばかりではない。この者を邪魔し、引き止めようとした  もし勇気ある者たちが剣を引き抜き、怯懦の輩を追い払わなかったならば、さよう、プブリウス・センプロニウスは敵の間を抜けるより先に、味方の軍隊を突破しなければならなかったのだ。はたして祖国はこのような市民を求めるだろうか?もし他の者たちも彼らと同類であるなら、今日カンナエからの生き残りのなかに誰一人市民と呼べる者はおらぬことになろう。7,000人の兵士のうち、あえて陣営を飛び出た600人が、身の自由を保ち武器を携えたまま祖国に帰還した。この600人の行く手を敵がさえぎることはなかった。およそ二個軍団の軍勢なら、その行軍はさらに安全だったと諸君は思わぬか?そうすれば元老院議員諸君、今頃カヌシウムには二万人の勇敢で忠実な兵士がいたはずである。今この者たちをどれほど善良で忠実な(『勇敢な』とは、さすがに当人たち自身も主張できぬだろう)市民とみなしうるだろうか?陣営から脱出する者を彼らは邪魔しようとしたのではなく手助けしたのである、とでも考えられるのでなければ。また勇気ある行動により安全と栄誉を得た者を彼らは妬んでいない、とでも考えられるのでなければ。彼らは自分たちが小心と怠慢ゆえに不名誉な奴隷状態に陥ったことを分かっている。夜のしじまを突いて脱出することができたにもかかわらず、彼らは天幕の中に隠れ、夜明けとそして敵の到来を待ったのである。【中略】彼らは戦場に踏み止まり戦うべき時に陣営に逃げ帰った。堡塁を守って戦うべき陣営を見捨てた。戦場でも陣営でも役立たずだった。それでいて私は〔捕虜の〕諸君を買い戻すべきというのだろうか?陣営から脱出すべきときに、諸君は躊躇して動かない。陣営に留まりこれを武器で守るべきときに、諸君は陣営も武器も自分自身も敵に引き渡してしまう。元老院議員諸君、私はこの者たちを買い戻すべきとは思わぬし、また陣営から飛び出て敵を突破し、あっぱれな勇気でもって祖国に帰還した者たちをハンニバルに引き渡すべきとも思わない」。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 ローマは、捕虜となった者たちの買戻しを拒否した。
 捕虜の中には元老院議員の家族も数多く含まれていたようである。しかし、リウィウスの記述にもあるように、ローマの伝統に照らせば、捕虜となった者は死を賭して戦うべきローマ戦士の義務と誇りを放棄した者とみなされた。もちろん、ローマはすでに奴隷を兵士として買い上げ、多額の費用を捻出しており、新たな出費を避ける必要もあった。さらに、捕虜を買い戻すことは、カルタゴ軍の軍資金を支援することにもなりかねない。このことからも分かるように、ローマではあらゆる出来事が古来の伝統に則って判断され、優柔不断や憶測、忖度などが入り込む余地のない、厳格な裁断が下されていた。ローマという国家が、やがて地中海世界に比類なき覇を唱えることになる最大の原動力は、この捕虜の扱いにもその一端が表れていると言えるだろう。
 この捕虜の買戻しに関し、もう一つの卓見を示す著作も紹介しておこう。
 「ローマは、捕虜の買い上げを拒絶したのではなく、ハンニバルからの講和の打診を拒絶したのであった。戻ってきた捕虜たちからローマの回答を知ったハンニバルは、八千のローマ市民の捕虜全員を、奴隷としてギリシアに売りとばした」。『ハンニバル戦記  ローマ人の物語Ⅱ』、著者:塩野七生
 リウィウスは、捕虜代表の動静に関して別の事例も記している。捕虜たちはローマに受け入れられたが、意見の聴取は行われず、長く逗留することとなった。その後、別の3人の捕虜が送られてきたが、そのなかの1人は護民官の親族であった。護民官は捕虜買戻しの提案を行ったが、元老院はこれを拒否する決議を下した。そのため、3人はハンニバルのもとに引き返すこととなった。一方で、最初に来た10人は市内に留まり、元老院でも彼らの処遇が検討されたが、引き渡さないことが決定された。しかし彼らは、次期監察官の監視下に置かれ、譴責と不名誉に苦しみ、自殺する者や人前に姿を現さずに生活を送ったという。
 カンナエの敗戦は、ローマにとって捕虜を見捨てるという苦渋の決断を迫られただけでなく、政治的にも重大な影響をもたらす結果となった。それまで堅固な関係を築いていた同盟国が、ローマの支配に見切りをつけ、次々と離反を始めたのである。リウィウスの記述によれば、寝返った諸民族は、以下の通りである。アテラ人、カラティア人、ヒルピニ、アプリア人の一部、ペントリを除くすべてのサムニテス、すべてのブルッティウム人、ルカニア人、ウゼントゥム人、沿岸地域に住むギリシア人であるタレントゥム人、メタポントゥム人、クロトン人、ロクリ人、さらにアルプスの手前のすべてのガリア人であった。

【ハンニバルの軍事行動】
 ハンニンバルはカンナエの戦い後、首都ローマへの直接侵攻を行わず、アブリア地方からサムニウム地方へと軍を移動させた。その理由は、コンプサの有力者スタィウス・トレビウスが、カルタゴへの忠誠を誓い、都市を引き渡すことを約束してハンニバルを呼び寄せたためである。
 コンプサでは、彼と権力を争っていたローマ支持派のモプシウス家が都市を離れた隙を突き、離反が実現した。こうしてコンプサは戦闘もなく、カルタゴ軍の支配下に入った。ハンニバルは、ここにすべての戦利品や荷物を集積し、弟マゴの指揮下に守備隊を配置して軍を分割した。さらにマゴに対して、その地域の平定を命じた。
 加えて、ハンニバルはマゴに対し、カンナエの戦場で戦死したローマ軍将校たちの金の指輪を戦果の証しとしてカルタゴ元老院に届けるよう命じていた。マゴは指輪を携えカルタゴに向かい、元老院においてイタリア戦線の戦況を報告し、本国からの援軍と支援を取り付けるという重要な使命を帯びて出発した。
 一方、ハンニバル自身はカプアを通過し、テュレニア海方面へ向かって進軍を開始した。その目的は、沿岸部に位置するローマ同盟都市ネアポリス(現在のナポリ)を攻撃し、支配下に置くことであった。この時点で地中海の制海権はローマが握っていた。ネアポリスを制圧することで、カルタゴ本国からの支援が決定された場合、海上補給や通信拠点としての役割を果たす大きな利点があった。今後の兵站を担う足場を築くという、戦略上きわめて重要な意味を持っていたのである。
 さらにハンニバルは、ネアポリス攻略が他の同盟都市に対して、カルタゴの戦略的巧妙さ示す格好の材料になると考えていた。カルタゴ軍に同盟都市の離反を促す、政治工作の一環として位置づけていたのである。
 ネオポリス攻略の作戦として、ハンニバルはヌミディア人を用いた奇策を実行した。彼は、くぼんだ道や見通しのきかない起伏のある地形を選び、ヌミディア騎兵を潜ませた。そして残りの騎兵には、近隣の農家から奪った家畜を追い立てて、ネアポリスの市門へ向かうよう指示した。この集団を確認したネアポリス側は、騎兵小隊(約30騎)を出撃させた。騎兵隊はまんまと待ち伏せの地点に誘い込まれ、包囲された。この戦闘で隊長は戦死し、近くの海岸に停泊していた船で逃げ延びた者もいたが、大半が戦死した。しかし、ネアポリスは城門を固く閉ざし、都市住民はローマへの強い忠誠心に基づく抵抗の意思を明確に示した。
 ネアポリスは、元々はギリシア人によって建設され植民都市であり、紀元前326年のサムニウム戦争においてローマ側に参戦し、正式な同盟都市となった経緯を持ち、自治権が認められ、ローマの有事には軍事的支援を行う関係が築かれていた。この関係を崩すことなく、ネアポリスはカンナエの戦い後、カルタゴ軍に対して都市防衛を強化し、住民の意思の統一による抵抗を示したのである。
 ハンニバルは、ネアポリスの都市防衛の堅固さと市民のローマへの忠誠心の強さを前にして、これ以上の軍の長期逗留による損耗を避けるべきだと判断した。それよりも、ローマからの離反の意思を示す都市を早期に取り込む策が先決であると考え、軍を転進させてカプアへ向かう決断を下した。
 カプアはカンパニア地方にあり、アッピア街道の要所ともいえる場所に位置していた。首都ローマと南イタリアを結ぶ、軍事的・交易的に極めて重要な都市であり、カンパニア地方の中心的都市として、当時はローマに次ぐ人口と経済規模を誇る戦略的な都市として発展を遂げていた。そのカプアが、ハンニバル軍に開城したのである。同じ同盟都市であるネアポリスが、ローマへの忠誠を固く守り、住民が結束してハンニバル軍を拒み排除したことを考えれば、両都市は全く正反対の対応を取ったことになる。
 では、何故この二つの都市がこのような異なる反応を示したのだろうか。それは両都市が内包する社会的・文化的な判断基準の違いに起因すると考えられる。
 ネアポリスは、ギリシア人が建設した植民都市であり、ギリシアという国家の特徴である「ポリス」と呼ばれる自律した社会共同体という意識が強かった。理性・秩序・均衡を重んじる文化を保有しており、ローマとの関係も従属ではなく、互いに自立した秩序と忠誠を誓う存在としての関係が成立していた。
 これに対してカプアは、元々オスキ人(またはオスク人)と呼ばれるイタリア半島土着の人々が建設した都市とされる。その歴史は古く、彼らは紀元前8世紀頃からカンパニア地方に定住し、カプアを始め複数の都市を建設した。その発展過程において貧富の差が生まれ、貴族階級と一般市民による社会が形成される中で、都市は一枚岩ではなく、派閥の形成が進んだ。
 カンナエの戦いでローマの敗戦が決定的になると、日頃からローマ人の支配に不満を抱いていた支配層の貴族たちが、離反という形でハンニバルをこの都市に引き入れたのである。
 この二つの都市によるローマへの「忠誠」と「離反」の選択は、後にそれぞれの都市の未来の運命を大きく決定づける判断となったのである。

【カプアの離反】
 リウィウスは、その頃の「カプアの状況」について次のように記している。
 カプアの名門貴族パクウィウス・カラウィウスは、民衆に人気があり、しかも不正な手段で元老院をも牛耳っていた。トラスメヌス湖畔の戦いでローマが敗北の年、彼は偶然にもカプアの長官職(ローマの執政官に相当する職位)にあった。ハンニバルの侵攻を理由に、従来から元老院に不満を抱いていた民衆の怒りを利用し、元老院議員たちに死の恐怖を与えた。その後、騒動を巧みに収拾することで元老院議員たちに服従を誓わせ、カプアの支配権を不動のものとした。この時から、カプアの元老院は民衆にこびへつらい、パクウィウス・カラウィウスの僕と化していた。
 このことをリウィウスは次のように記している。
 「このようにパクウィウスは元老院議員たちの命を助けてやることで、彼らが民衆に対してはもちろんそれ以上に自分に対して服従するようにした。今やすべての者が従ったので、彼は武力に訴えるまでもなく支配権をえた。これ以降元老院議員たちは品位や自立心を忘れ、民衆にこびへつらった。彼らに挨拶をし、愛想よく招待し、豪華な食事でもてなした。裁判で弁護を引き受け、常に彼らの利益を擁護した。陪審員として、より受けの良い、大衆の好意を勝ち取れそうな判決を下した。元老院の審議はまるでもう、そこで民衆の集会が開かれているのと変わりがなかった。この都市の住人は日頃放縦な生活に向かいがちだった。それは彼らの気質に欠陥があったためばかりではない。享楽にあふれ、海や陸のあらゆる魅力が心を誘惑する土地柄のせいでもあった。このときにはさらに、指導的な市民の隷従と民衆の勝手気ままのためにすっかり風紀が緩み、欲望と贅沢が際限をしらない状態に陥っていた。法や役職者や元老院を侮ることに加えて、カンナエの敗北後人々は、それまでいくらか敬意を払ってきたローマの権力さえ軽蔑するようになった。彼らが今すぐ離反するのを妨げていたのは、次の事情だけだった。古くからの婚姻関係により、多くの高名で有力な家族がローマ人と結びついていたこと、また相当数の者がローマ人のもとで従軍しており、なかでも非常に良い家柄のカプア人である300人の騎兵(彼らはローマ人により選抜され、シキリアの諸都市へ守備隊として送られていた)が最大の束縛になっていたこと、である」。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 このような状況下、カプアはカンナエの戦いの敗戦後、ウェヌシアに留まっていた執政官ガイウス・テレンティウス・ワロのもとに使節を派遣した。そこで彼らは、わずかな手勢を引き連れ、戦場を離脱したばかりのローマの執政官に面会した。もし絆の強い同盟国の者であれば、彼の姿は悲痛な印象を与えたであろう。しかし、高慢で不誠実なカプアの使節たちには、軽蔑に値する姿に映った。その軽蔑に値すると見えた執政官に対し、使節は、カプアの国民がローマに降りかかった不幸を遺憾に思っていること、また戦争に必要なものはすべて提供する意思があることを伝えた。
 すると、敗残の将はこう答えたとリウィウスは記す。
 「カプア人よ、そなたたちは戦争に必要なものを何でも申しつけてくれと言っているが、これは同盟者に対する型どおりの言葉かけにすぎず、現在のわれわれの境遇に見合った言い方ではない。足りぬものを同盟者に補わせるというのは、われわれにはまだ何かが残っていることを意味する。だが一体カンナエでわれわれに何が残されたというのか?われわれはそなたたちに歩兵を求めればよいのか?まるで騎兵はまだ残っているかのように、われわれは金がないと言えばよいのか?まるで不足しているのは金だけであるかのように。足りぬものを補おうにも、そもそも運命はわれわれに何も残さなかったのだ。軍団、騎兵、武器、軍旗、馬と人、金、食料、これらはすべて戦場で、あるいは翌日二つの陣営が失われたときに消え去った。それゆえカプア人よ、そなたたちはわれわれが戦うのを助けるのではなく、むしろわれわれに代わって戦いを引き受けなければならない。【中略】カプア人よ、敗北で揺らいだローマの支配権が、そなたたちの忠誠、そなたたちの力により支えられ、立て直されるとすれば、素晴らしいことだ。カンパニアからは、私の見るところ、三万の歩兵と4,000人の騎兵を集めることができる。さらにこの地には金銭と穀物が潤沢にある。もしそなたたちに富と同じ程度の忠誠があれば、ハンニバルは自分が勝ったとは思わぬだろうし、またローマ人は自分が負けたとは思わぬだろう」。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 こうして、執政官の語るローマへの忠誠心は、ネアポリスでは固く守られ、カプアではいとも簡単に反故にされたのである。
 こうして、ウェヌシアに執政官ガイウス・テレンティウス・ワロを尋ねた使節の一人、ウィビウス・ウィリウスは、帰国の途上で「イタリアの支配権を手にする好機が訪れた」と語った。使節団はカプアに戻り、ハンニバルとわれわれが望む条件で同盟を結べば、勝者となったカルタゴがイタリアを撤退する際、支配権をカプア人に委ねても誰も異を唱えないだろう、と報告した。この報告を聞いた民衆も元老院議員も離反に賛同したが、決定は数日間引き延ばされた。やがて多数派が離反を支持し、ローマ執政官のもとを訪れた同じ使節が、今度はハンニバルのもとへ派遣された。
 リウィウスは別の史書において、カプアの離反が決定される前に、ローマに対して傲岸な要求を携えた使節が送られたことを記している。曰く、ローマ国家がカプアの助力を望むならば、執政官の一人をカプア人にすべきだという要求である。しかし他の史家はこの話を無視しており、リウィウス自身も支持できないと述べている。
 さて、話をもとに戻そう。
 カプア元老院の決定を携えた使節はハンニバルのもとを訪れ、以下の条件を提示して同盟を結ぶことが決まった。
 ・カルタゴ軍はカプア人に対して指揮権も役職者も一切の権力を持たない。
 ・カプア市民に対して軍役やその他の義務を強要しない。
 ・カプアが独自の法と役職者を保持することを認める。
 ・カルタゴは、シキリア(現シチリア)で勤務するカプア人騎兵との交換のため、ローマ人捕虜の中からカプアが選んだ300人を引き渡す。
 また、民衆はカプアに駐在していたローマの同盟国監督官やその他のローマ人をすべて捕らえ、浴場に押し込んで監視した。彼らはそこで暑さと熱気により窒息し、惨めな死を遂げたと記録されている。

【カプア入城】
 このカプア人の悪行ともいえる行いに対し、全力で抵抗した元老院議員もいた。デキウス・マギウスという人物で、彼は生涯にわたりローマへの忠誠を貫いた。ハンニバルがカプアに守備隊を派遣した際、彼は公然とこれを殺害し、ローマ同盟国として復帰すべきだと民衆や元老院に訴えた。この行動はハンニバルの知るところとなり、彼は陣営に連行されることとなったが、デキウス・マギウスはこれを拒絶した。カルタゴがカプア人に対して権力を行使しないとする決定を引き合いに出したのである。そこでハンニバルは、カプアの長官マリウス・ブロッシウスに、翌日陣営を出てカプアを訪問することを伝えた。翌日、ハンニバルは少数の護衛を伴い陣営を出立した。長官マリウスは市民集会を開き、家族全員でハンニバルを出迎えるよう求めた。それは市民の望みでもあった。誰もがハンニンバルという人物を一目みて見たいという欲求に駆られていたのである。すべての市民がハンニバルを待ち受ける中、デキウス・マギウスは彼を慕うわずかな人々とパクウィウス・カラウィウスの息子とともに広場を歩いていた。
 以上の経緯を経て、紀元前216年の秋頃、ハンニバルはついにローマ同盟都市との関係を断ち、カルタゴ軍に開城の意思を示したカプアへ入城した。
 ハンニバルは大勢の出迎えを受けながら都市に入ると、すぐに元老院の開催を求めた。
 しかし元老院議員たちは、「今日はあなたの到着を祝う日です。われわれの仕事はさておき、どうかくつろいで下さい」と述べたため、ハンニンバルは一日のほとんどをカプアの町を巡ることに費やした。
 その日、ハンニンバルが宿泊したのは、富裕な貴族ニンニウス・ケレル家のステニウスとパクウィウス兄弟の邸宅だった。そこへ、ローマからハンニバルへ離反したパクウィウス・カラウィウスが、デキウス・マギウスに心酔する息子のカラウィウス(父親と同じ名)を伴ってやって来た。この息子は、デキウス・マギウスと共に、カプアがローマとの友好関係を断ち切り、カルタゴと同盟を結ぶことを強く反対していた。父は、息子の行動についてハンニバルに弁明と言うより哀願をし、ハンニバルは彼を赦したばかりか、夕食に招待さへした。宴はまだ明るいうちから始まった。その中で、主人やハンニバルが酒を勧めても、ただ一人手を出さない者がいた。息子のカラウィウスである。父は、息子の心の動揺が原因だとして懸命に釈明した。日没を迎え、カラウィウス親子は宴会場を後にし、建物の裏にある人目につかない庭へと向かった。そして息子は言った。
 これからの場面は、リウィウスの記述に従って紹介しよう。
 「『あなたにお知らせしたい計画があります、父上。これをなせば、われわれはハンニバルに寝返った罪をローマ人に赦してもらえるだけではありません。それどころか、かつてないほど大きな名誉と信頼が、われわれカプア人にもたらされることになるはずです』。父親は驚いて、その計画とは何かと尋ねた。すると彼はトガを肩から脱ぎ、体の脇にくくりつけた剣を露わにした。『ただ今、私はハンニバルの血でローマとの同盟を確かなものにするつもりです。これを実行するあいだ、あなたはもしかするとその場にいないことを望むかもしれない。そこで私はこの計画を事前にあなたに打ち明けようと思ったのです』。【中略】それから彼は、若者が涙を流すのを認めると、その体をしっかりと抱きしめ、口づけした。そして息子がついに説得され、剣を置いて、もうこのようなことはしないと約束するまで、懇願をやめなかった。そのとき若者は言った。『私は祖国に対し果たすべき義務を、父親に対し果たすことにします。私はあなたが置かれた立場を痛ましく感じています。あなたは三度にわたり祖国を裏切った罪を負わねばなりません。一度目に、あなたはローマ人からの離反を主導しました。二度目に、ハンニバルと平和を結ぶ張本人になりました。三度目に、今日カプア人が再びローマの味方になるのを引き止め、邪魔しました。祖国よ、私があなたを守るべく身に帯び、敵のこの本拠へと乗り込んだ剣を、わが父は私からもぎ取ってしまった。よってどうかこれを受け取りたまえ!』。彼はこう言うと、剣を庭の壁越しに街路へと投げ捨てた。そして疑念を持たれぬよう、宴会に戻って行った」。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 翌日、ハンニバルはカプアの元老院に招かれ、議会において演説を行った。
 その演説の中で、カプア人の心を特に引きつけたのは、彼が「カプアが全イタリアの首都となる」と述べたことである。さらに、「カプアが定めた法律に則り、ローマ国民もそれに従うことになる」とも語った。ただし、ハンニバルはこうも付け加えた。「ただ一人、例外となる者がいる。彼はカプア人ではないし、またそう呼ばれるべきではない。その者とは、マギウス・デキウスである」。
 元老院議員たちは、このハンニバルの言葉に全員が賛同した。しかし、この発言に対して、カプアの民の中には、自らの自由な権利が損なわれる可能性を感じた者も、少なからずいたかもしれない。
 こうして、ローマへの忠誠者マギウス・デキウスは逮捕され、ハンニバルの足元に引き据えられた。マギウスは毅然として、自らの潔白を主張した。彼は顔を覆われることもなく、堂々とカルタゴの陣営へと連行されていった。その折、彼はこう叫んだという。
 以下に、リウィウスの記述を引用する。
 「カプア人よ、諸君は追い求めた自由をすでに手にしている。広場のただ中で白昼、諸君の眼前を、他のどのカプア人にも引けを取らぬこの私が鎖に繋がれ、刑場へ引っ立てられていく。かりにカプアが攻め取られたとしても、これよりひどいどんな無法がなされただろうか?行ってハンニバルを出迎えるがよい。そして町を飾り、彼が来た日を祭日として祝うがよい。諸君の同胞市民に対するこの凱旋式を見物するために」。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 マギウス・デキウスはこの後、船に乗せられてカルタゴへ送られることとなった。彼をこの地に留め置くことで、不測の事態を防ぐための処置だったとされる。しかし、船はカルタゴに向かう途中で嵐に遭い、キュレネ(現在のリビアに位置する、ギリシア人が建設した都市)へと流された。マギウス・デキウスはこの地で再び番兵に捕らえられ、アレクサンドリアのプトレマイオス王のもとへ護送された。王は彼の釈明を聞き入れ、ローマでもカプアでも、望む地へ戻ることを赦した。しかしマギウス・デキウスは、プトレマイオス朝のもとで自由が保証されることを望み、この地に留まることを願い出た。この当時の在位年数から判断すると、この王とは、プトレマイオス4世フィロパトル(紀元前221年~紀元前204年)と思われる。
 その後、彼が実際にアレクサンドリアに居住し、どのような生涯を辿ったのかについては記録がなく、不明である。ただし、ローマへの忠誠を貫いた人物として、彼の名はリウィウスの記録によって歴史に刻まれることとなった。
 こうして、カルタゴ軍はカプアに入城した。これを察知したローマは、ハンニバルの影響が近隣の同盟都市にも及ぶことを警戒し、ただちに対策を講じることとなった。

( 「第6章 第1節 第2次ポエニ戦争 新たなる戦い」に続く )
BC5世紀末頃のギリシア式トリレーム・パラロス号/アクロポリス博物館/ギリシア
*手前のレリーフをもとに起こされた図
パラロス号(前画像)の解説/アクロポリス博物館/アテネ/ギリシア
エルジェム円形闘技場/エルジェム/チュニジア
紀元前146年カルタゴ滅亡後、エルジェムはローマ植民都市として再建された。
ローマ帝国の全盛期にこの円形闘技場が建設された。
古代にはティスドルスと呼ばれ、オリーブ油の大生産地として繁栄し、現代もその伝統は継承されている。
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
CNN 2016年4月5日掲載記事
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井 萌
「英雄伝」著者:プルタルコス・訳:柳沼重剛・訳:高橋 宏幸
「ポエニ―戦争の歌」著者:シーリウス・イタリクス
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭
『カルタゴの遺書 ある通商国家の興亡』著者:森本哲郎/td>
『アルプスを越えた象』著者:ギャヴィン・デ・ビーア・翻訳:時任生子
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館
「世界図書室」HP
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ
「「鐙━その歴史と美━」発行者:野馬追の里原町市立博物館」
「トラスメヌス湖畔の戦い戦図/フランク・マティーニ。アメリカ陸軍士官学校歴史学科地図製作者(フランク・マルティーニがウィキペディアの「米国陸軍士官学校歴史学科」の内容を使用する許可の引用)」
「トラシメヌス湖畔の戦いで斬首されたフラミニウス絵画/フランスの歴史画家:ジョゼフ・ノエル・シルヴェストル作/ウィキペディアより」
筆者画像:長槍(サリッサ)/テッサリア/ギリシア
子供を左手に抱くポエニ神官/バルドー博物館/チュニス/チュニジア
筆者画像2枚:デルフォイの宣託所遺跡/デルフォイ/ギリシア
筆者画像2枚:デルフォイ博物館収蔵品画像/デルフォイ/ギリシア
筆者画像:ディドー女王を思わせるオリーブを持つ女性/1ディナール硬貨/チュニジア
筆者画像3枚:デルフォイ博物館収蔵品画像2枚、エルジェム円形闘技場画像
【ハンニバル・バルカ】
第1章 第1次ポエニ戦争
第2章 第2次ポエニ戦争 序章
第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越え
第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越え
第4章 第2次ポエニ戦争 第1節 戦闘開始
第4章 第2次ポエニ戦争 第2節 トレビア川の戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第1節 アペニン山脈を越えて
第5章 第2次ポエニ戦争 第2節 カンパニアからの脱出
第5章 第2次ポエニ戦争 第3節 二人の独裁官
第5章 第2次ポエニ戦争 第4節 ファビアン戦略
第5章 第2次ポエニ戦争 第5節 カンナエの戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第6節 戦闘開始
第5章 第2次ポエニ戦争 第7節 同盟都市攻略
第6章 第2次ポエニ戦争 第1節 新たなる戦い