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『ハンニバル・バルカ / 第6章 第1節 第2次ポエニ戦争 新たなる戦い』


【ノラの戦いに向けて】
 ハンニバルはカプアに入城し、反カルタゴ同盟派のデキウス・マギウスを追放した。そして当面の問題を解決したのち、さらなる同盟都市攻略の糸口をつかむべく行動を開始する。それが、カプアの東に位置する同盟都市ノラへの進軍であった。
 一方ローマでは、カンナエの敗戦後、デルポイの託宣所に派遣されていたクィントゥス・ファビウス・ピクトルが帰国し、持ち帰った託宣の書面を読み上げた。その書面には、ローマがどの男神や女神に対して、いかなる方法で祈願すべきかが記されており、さらに次のような内容が含まれていた。以下に、リウィウスの記述を紹介する。
 「『もしこのようにすれば、ローマ人よ、汝らの状況はより良く、容易になるであろう。汝らの国の物事はより思いどおりに運ぶであろうし、戦いの勝利はローマ国民のものになるであろう。汝らの国がうまく運営され、維持されたあかつきには、勝ち得た富のなかからピュティアのアポロンに対し贈り物をせよ。戦利品やその売却金、敵から奪った武具でもって敬意を表せ。汝ら慢心するなかれ』。ギリシア語の韻文から翻訳されたこれらの文音を読み上げたのち、彼は言った。『託宣所から退くとすぐに私は、これらのすべての神々に対し乳香とブドウ酒で祭儀を執り行った。また神殿の祭司から、先刻月桂樹の冠を被って託宣所に入り、祭儀を行ったときと同じように、冠を戴いた状態で船に乗り、そしてローマに着くまでこれを外さぬように指示された。私は命じられたことを無上の敬虔さと勤勉さで果たし、ローマにおいて冠をアポロンの祭壇に置いた』。元老院は、これらの祭儀と祈願がなるべく早い時期に入念に行われるべきであると決議した」。『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井萌
 内容を総括すると、ローマは地中海世界における宗教的権威として、デルポイの託宣所を重視していたことが良くわかる。クィントゥス・ファビウス・ピクトルが持ち帰った託宣には、神々への祭儀と祈願の方法が記されており、それに従えば状況が好転し、国家の運営と戦いにおいて勝利がもたらされると示されていた。すなわち、ローマは敗北を「神々との断絶」と捉え、託宣に従って正しい祈願と祭儀を執り行うことで、神々との信頼関係を再構築し、国家を再建しようとする姿勢を明確にしたのである。また、デルポイの託宣に書かれた「汝ら慢心するなかれ」という警句に表れているように、ローマは謙虚に神意を受け止め、元老院をはじめ全国民がこの方針に基づいて決意を新たにしたことがうかがえる。
 こうした託宣に従って祈願と祭儀が執り行われた後、独裁官マルクス・ユニウス・ペラは、民会および元老院に対し「乗馬の許可」を求めた。独裁官は慣習によって乗馬を禁じられていたためである。前年の独裁官ファビウスも同様に乗馬の許可を求めたことが、プルタルコス『英雄伝』「トラスメヌス湖畔の戦い」の章に記されている。余談ながら、その理由を紹介しておこう。
 「独裁官となったファビウスは、マルクス・ミヌキウスを騎兵隊長に自ら任命し、まず自分が先陣において馬を使用することを認めるよう、元老院の許可を求めた。古い法律によって禁じられていたために、それはできなかったのである。軍の主力は歩兵にありとされ、したがって指揮官は、密集陣形の歩兵の中に留まり、そこを離れてはならぬとされていたのか、あるいは、独裁官という職務がもつ権限が、ほかのすべての点で、専制君主それのごとく、絶大と考えられるために、せめてこの点においては、独裁官が民衆の許可を要すると見えるようにしたいと望んでのことであろう。しかしそれはともかく、ファビウス自身は、この職務の重大さと権威を示すべく、また市民たちがいっそう従順でよく服従してくれるようにと、同僚の執政官の分まで合わせて、24人のリクトルを従えて公の席に現れ、その同僚の執政官が彼に会いに来ると、ファビウスは使いをやってそのリクトルを解散するように命じ、とはすなわち、相手の職務のしるしを取り上げ、一私人として自分と対面するようにさせた」。『英雄伝』、著者:プルタルコス、訳:柳沼 重剛
 ローマには、これまでも述べてきた通り、様々な習慣やしきたりがあり、権力者が「馬を使用する」権限にも古来の決まりが存在した。プルタルコスが記すように、政治・軍事において絶対的な権限を有する独裁官でさえも、軍事組織の運用や共和政の枠組みの中では、法と秩序が優先されるのである。だからこそ、ファビウスは馬の使用を元老院に求めたが、法によって承認されず、マルクス・ユニウス・ペラも同様に馬の使用を元老院に求めたのである。もっとも、ペラの申請に対して馬の使用が認められたかどうかについては、リウィウスの記述には見当たらない。
 さらに蛇足ながら、独裁官や執政官に許されたリクトルの制度についても少し触れておこう。リクトルとは「護衛官」「儀仗官」「先導衛士」「随員」などと訳され、権威と命令権を象徴する役割を果たす者たちである。彼らはローマ市民権を有する平民の中から、一定の条件を満たした者が国家の任命によって選ばれた。多くは、軍務経験を有する退役兵であり、独裁官・執政官・法務官・プロコンスル・プロプラエトル(前執政官・前法務官などの軍司令官)など、職務に応じて定められた人数が付き従った。王政時代の王には12人の儀仗官が付き従っていたとされる。彼らはファスケスと呼ばれる束ねた棒を手に持ち歩き、高位官職者の側につき従うことで権威と象徴としての存在感を示した。特に独裁官のリクトルが持つファスケスには斧が仕込まれており、懲罰による死刑執行の権限を象徴するものとして恐れられていた。

【カルタゴ本国の動き】
 ハンニバルの指示を受けた弟のマゴは、カンナエの戦いで戦死したローマ軍将官たちの大量の指輪を携えて、本国カルタゴへ帰還した。帰国に先立ち、彼はカンナエの勝利後にカルタゴへ寝返った同盟都市ブルッティウム人の幾つかの都市を受け入れる任務を精力的に遂行した。その数日後、カルタゴ元老院においてイタリア戦線の状況を報告し、本国からの支援を取り付けることを目的として帰国したのである。彼はイタリアにおいて兄ハンニバルと共に成し遂げた戦況について、元老院において次のように説明した。以下に、リウィウスの記述を紹介する。
 「ハンニバルは6人の将軍(そのうち4人はコーンスルで、残る2人は独裁官と騎兵長官である)および6つのコーンスルの軍隊と会戦を戦った。敵を20万人以上殺し、5万人以上捕虜にした。4人のコーンスルのうち2人を殺した。残る2人のうち1人は負傷し、もう1人は全軍を失い、50万人の兵士とともにかろうじて逃げ延びた。コーンスルと同じ権限を持つ騎兵長官は粉砕され、敗走させられた。独裁官は、決して戦おうとしなかったがゆえに、無二の指揮官と見なされた。プルッティウム人やアプリア人、またサムニテスとルカニア人の一部は、カルタゴ人に寝返った。カンパニアの中心地であるばかりでなく、カンナエの戦いでローマ国家が打ち倒されたのちイタリアの首都となったカプアは、ハンニバルに投降した。これらの、かくも偉大でかくも多くの勝利について、不死なる神々に感謝が示されてしかるべきである。続けて彼は、かくも喜ばしい戦勝の証として、金の指輪を元老院議事堂の入口にばら撒くよう指示した。積み上がったその分量たるや、何人かの史家が記すとことによると、量ってみると3モディウス以上に達したという。だがより一般的な伝えによると、1モディウスを上回るほどの量もなかったと言われる(こちらの方が真相に近い)。彼はさらに相手が受けた損害をより大きく見せるため、こう説明を加えた。この標章を身につけているのは騎兵、それも地位の高い騎兵だけだ、と。彼が言おうとしたのは、要するに次のことだった。戦争を完遂する希望に近づけば近づくほど、ますます全力でハンニバルを支援することが求められる。なぜなら戦争は祖国から遠く、敵地の真っただ中で行われているのだから。すでに多量の穀物と金銭が費やされた。また度重なる会戦は、敵軍を壊滅させる一方で、勝者の兵力にもいくらかの損害を与えた。よって援軍が送られるべきである。カルタゴの名前のためにこれほど立派な貢献をした兵士たちに、給料にする金銭と穀物が送られるべきである」。『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 マゴの報告を聞いた元老院議員たちは、皆が歓喜したとリウィウスは記している。その場には、バルカ派の一員であるヒミルコの姿もあった。彼は、反ハンニバル派の筆頭である大ハンノを論破する好機と捉えていた。この大ハンノは、ハンニバルの父ハミルカルとも確執をもった人物である。第一次ポエニ戦争後に勃発した傭兵戦争において、ハミルカルは早期決着を目指し、カルタゴ全軍の統合を大ハンノに打診した。両者は合流したが、司令官同士の対立が生じ、敵を壊滅させる好機を逸したとポリュビオスは記している。その諍いの詳細は明記されていないが、指揮権や戦術、戦後処理に関する見解の相違が原因と推察される。その結果、敵を討つどころか逆に反撃を受け、味方に甚大な損害を招いた。また、第二次ポエニ戦争開始の発端となったイベリアでのサグントゥム攻撃に際し、ローマ使節への対応を巡って、大ハンノは元老院でただ一人、条約遵守を訴える演説を行っている。
 このように、大ハンノはカルタゴにおける保守派の代表格として、バルカ家の軍事覇権主義的に対し、常に批判的かつ敵対的な立場を貫いてきた。
 そこでヒミルコは、大ハンノに対し、これほどの戦果を挙げているハンニバルについて、何か反論があるなら言ってみろと言わんばかりに発言を求めた。
 それに対して、大ハンノはひるむことなく反論した。少し長くなるが、リウィウスの記述を引用しよう。
 「『ヒミルコに対し答えよう。私は戦争を遺憾に思うのをやめなかったし、何らか我慢できる条件でこの戦争に決着がつけられるのをみるまで、諸君の無敵の将軍を非難することをやめぬつもりだ。かつての平和を惜しむ私の気持ちは、新たな平和の到来によってしか解消されないだろう。よって先ほどマゴが吹聴した話は、なるほどヒミルコや他のハンニバルの仲間たちにとっては喜ばしいかも知れないが、私にとっても喜ばしいと言える。なぜなら、戦闘での勝利は、われわれがこの幸運をうまく利用するつもりなら、より有利な平和をわれわれにもたらしてくれるからである。実際もしこの機会――平和を受け入れるのではなく、むしろあたえてやるように見える機会――を逃したなら、われわれの今回の喜びもいたずらに盛り上がるばかりで、最後はむなしく終わるのではないかと、私は恐れる。だがそもそも目下のこの喜びは一体何なのか?『私は敵軍を打倒した。私に兵を送れ』。そなたが敗れたときにする要求は、これとどう違うのか?『敵陣を二つ攻め取った(そこはさぞかし戦利品や物資であふれているのだろう)。穀物と金をくれ』。そなたが略奪を被り、陣営を奪われたときにする要求は、これとどう違うのか?こうしたことすべてに、私一人が驚いているというのは良くない。そこで――ヒミルコに対し返答したからには、私にも質問をする権利があるし、そうしたとしても罰はあたらぬはずだ――ヒミルコかマゴに答えてもらいたい。カンナエの戦いでローマの支配は壊滅されられた。全イタリアが離反しつつあることは、みな知ってのとおりである。とすると、まず尋ねたいのだが、ラテン人の国々のいずれかがわれわれに寝返ることはあったのか?それから、35の区に所属する誰かがハンニバルの側に走ることはあったのか?」。両方の問いにマゴが『否』と答えると、ハンノは言った。『ということは、まだかなり多くの敵が残っているわけだ。だがこの大勢の者たちの士気はどうなのか。彼らはどんな希望を抱いているのか。私が知りたいのはこの点である。『そんなことは知らない」とマゴが言うと、『これほど知るのが簡単なことはない』とハンノは言った。『平和について協議するため、ローマ人はハンニバルに使節を送ってきたか?さらにまた、ローマで平和が取り沙汰されているとの情報が、そなたたちに届いたか?』。またしても『否」とマゴが答えると、ハンノは言った。『ということは、われわれが現在行っている戦争は、ハンニバルがイタリアへ渡った日と同じくらい、まだ手つかずの状態にあるわけだ。先のポエニ戦争で勝負がいかに揺れ動いたかを、私の世代の者は思い出すだろう(そうした者はまだかなり多く存命している)』【中略】『私の考えはこうである。すでに勝った者に支援を送ってやる必要はない。まして偽りの空虚な期待でわれわれをたぶらかす者には、なおさらである』。ハンノの発言に動かされる者はほとんどいなかった。バルカ家との確執ゆえに、彼の言うことはあまり信用されなかったからである。また目下の喜びに心奪われた人々は、歓喜に水を差すようなことにいっさい耳を貸さなかったし、あともう少し頑張れば間もなく相手は完全に敗れるだろうと考えたからである。こうして圧倒的多数の賛成により、ハンニバルに援軍として4,000人のヌミディア人、40頭の象と〔・・・〕タレントゥムを送るべきとの元老院決議が可決される。さらにイタリアやヒスパニアの軍隊への援軍として歩兵2万人と騎兵4,000人を雇い入れるため、独裁官がマゴとともにヒスパニアへ派遣された』。『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 以上がリウィウスの記すカルタゴ本国の状況である。
 このリウィウスの記述は、マゴによるイタリア戦線での戦勝報告と、ハンニバルへの支援要請を中心に展開される。演説を受けた元老院議員たちの歓喜、支援の決議の採択、そしてそれに対して大ハンノが冷水を浴びせるような反論を行う場面が描かれており、劇場型の政治描写として冴えが際立つ記述であると言える。しかし筆者は、第二次ポエニ戦争がカンナエの戦いを境に戦局の本質的転換点を迎えたと捉えており、カルタゴ元老院がこの局面をどれだけ深く洞察し、戦略的に対応したかという点において、物語的な躍動感は感じられるものの、実質的な政治的判断の重みがやや不足しているように感じられる。この点を補足・考察するために、ローマとカルタゴ両国の政体、軍事組織、戦争遂行能力、戦略文化、国民性およびその資質などについて、以下に分析を試みてみたい。
 先ずは両国の政体について考察しよう。
 ローマ、カルタゴともに共和政を採用していたが、その構造と運用には大きな差異が存在する。ローマは通常、執政官・元老院・民会による三位一体の政治体制を構築しており、緊急事態には独裁官を任命することで、行政・軍事両面において迅速かつ集中的な対応を可能としていた。また、同盟都市との契約関係を通じて、人的・物的資源の動員体制を制度として構築していたことも特筆すべき点である。ただし、共和政といっても、実質的には貴族階級による支配が色濃く、元老院の政治的影響力は極めて大きかった。これに対抗する形で、平民の権利保護を目的とした護民官制度が設けられていた。護民官は元老院の決議に対する拒否権、不当な扱いを受けた市民への救済権、民会への法案提出権などを有し、貴族による権利乱用に対する制度的な防壁として機能していた。しかしながら、このように制度的には整備されていたローマの政治体制にも、構造的な不安定要素は存在した。貴族支配と平民保護の制度が共存する中で、政治運営における完全な融合は達成されず、元老院内部の派閥抗争に護民官が関与することで、政争がさらに激化するという弊害も生じた。特に紀元前133年に提案された、グラックス兄弟の土地改革に見られるように、護民官が改革派の旗手として行動し、制度が政治闘争の道具となる危険性も孕んでいた。
 一方、カルタゴも形式上は共和政を採用していたが、実態としては寡頭制的な性格が強い政治体制であった。元老院は有力商人や貴族によって構成され、彼らの中から選出された執政官が統治を担っていた。リウィウスの記述には「独裁官がマゴとともにヒスパニアへ派遣された」とあり、カルタゴにおいても非常時には独裁官的な存在が認められていたことがうかがえる。これは、第二次ポエニ戦争がカルタゴにとって国家的危機と認識されていたことを示唆している。カルタゴはフェニキア系の海洋都市国家として、地中海交易を基盤に莫大な富を築いてきた。その結果、国家の中枢には商業的成功を収めた特権階級が集まり、寡頭制的な政治構造が自然発生的に形成されたのである。この体制の維持によって経済的な安定はもたらされたが、国家の命運を左右する戦争遂行という非常時においては、意思統一が困難となり、内部統制の脆弱さや戦略的判断力の欠如が露呈することとなった。
 次に、両国の軍事組織について考察して見よう。
 ローマの軍制の基本構造は、市民兵と同盟都市軍による連合体制である。すなわち、ローマ市民による軍団と、ラテン系・イタリア諸都市の兵士による連合軍が一体となって編成されていた。その兵力の構成比は、通常ローマ兵2に対し同盟兵は1とされ、戦況に応じて柔軟に調整されていた。軍の指揮系統においては、執政官(あるいは非常時には独裁官)が統率し、同盟軍は各都市の指揮官が率いたが、全体としてはローマの統制下に置かれていた。
 これに対して、カルタゴ軍の軍制は傭兵を中心に、一部カルタゴ市民によって構成されていた。傭兵の出自はイベリア人、ヌミディア人、ガリア人など多民族に及び、報酬や略奪を目的としてカルタゴの将官の指揮下に置かれていた。
 では、兵の忠誠心や士気はどうであったか。ローマ兵は出兵に際し、国家への忠誠を誓わせられており、国防意識と士気は高かった。同盟軍も、ローマとの同盟条約に基づく兵役の義務を果たす形で出兵していたが、同様に愛国心に根差した国防意識を有していた。
 これに対し、カルタゴ軍は契約に基づく傭兵によって構成されており、忠誠心は契約内容に左右される不安定なものであった。報酬や略奪を主目的とする彼らの軍事行動は、指揮や統制の面でローマ軍に比較すると大きな脆弱性を抱えていた。
 次に、戦争遂行能力について考察する。
 軍事行動において最重要とされる兵站・補給体制について、ローマは自国での物資調達はもちろん、同盟都市からの支援体制が制度的に確保されており、戦線が自国内にあるという圧倒的な地理的優位性のもとで戦闘を遂行することが可能であった。このことから、補給線の安定と継続的な兵站支援が実現されていた。
 これに対して、カルタゴの兵站・補給体制は現地調達、つまり略奪を基本構造としており、計画性に乏しく、その場凌ぎの不安定要素が常につきまとう脆弱な体制であった。特にハンニバル軍は、長期にわたる遠征において本国からの補給が困難であり、敵と比較して兵站構造が圧倒的に不利な状況が続いていた。
 兵力の再建能力についても、ローマは市民・奴隷、さらに同盟都市からの人的支援を制度的に動員できる体制が整えられており、比較的短期間に兵力の補充が可能な状況にあった。カンナエの戦いにおける敗戦後も、ローマは制度改革と人的動員によって軍の再編が行われ、戦局を立て直すことを可能にした。
 一方、カルタゴの兵力再建能力は困難を極めた。兵力構成がイベリア人・ヌミディア人・ガリア人などの多民族によって構成されているため、統一的な動員が困難であり、さらに本国と戦地との海上覇権をローマに握られていたことで、兵力補充は事実上不可能な状態となっていた。
 両国の戦略文化はどのようなものであったかを考察する。
 ローマは王政時代から、戦争を神聖な国家行動と捉え、宗教儀礼と密接に結びつけていた。軍事行動は神意に基づいて遂行され、市民兵によって構成された軍隊がその枢軸を担っていた。主な軍事行動は、近隣諸国との抗争における遠征や都市防衛であり、戦略の構築は国家の存続と神意の遵守を基盤としていた。共和政時代に入ると、戦争は領土拡張と覇権確立のための手段として制度化され、市民による軍団(レギオー)の編成が国家義務として定着した。このことから、戦略文化は防衛から拡張へと転換し、軍事制度はより体系的でかつ持続的なものへと進化した。さらに、イタリア半島における覇権確立の手段として、同盟都市との契約に基づく共同体防衛網が構築され、兵力の動員や兵站の確保が制度的に整備されたのである。これによって、戦争遂行の効率性と持久力が飛躍的に向上を遂げた。戦争の過程では軍制の改革が進み、軍事組織・兵種・兵装・戦闘隊形などの軍事技術の進歩も顕著に見られた。紀元前4世紀のサムニウム戦争以降に確立されたマニプルス戦術の導入は、まさにその一例であろう。マニプルス戦術とは、共和政ローマ期に成立した、三層構造の兵種編成によって構成される戦闘単位のことである。前列にはハスタティ(槍兵)と呼ばれる若年の初陣兵が立ち、中列にはプリンキペス(第一列)と呼ばれる壮年の熟練兵が配置され、後列にトリアリイ(第三列)と呼ばれる老練兵が控え、防衛や決戦時の対応を担った。この戦闘隊形は機動性と戦術的柔軟性を兼ね備えた構造となっていた。こうしてローマの戦略文化は、市民兵の徴兵制と同盟国の協力体制を基盤としつつ、宗教儀式と密接に結びついた制度的・技術的な軍事文化として確立されていったのである。
 それでは、カルタゴの戦略文化について考察して見よう。
 カルタゴは、前述の通りフェニキア系の海洋都市国家として、地中海交易を基盤に海洋交易路を拡大し、その富によって軍事力を維持してきた国家である。軍隊は主に傭兵によって構成されており、カルタゴの司令官が、多民族からなる戦闘集団を指揮する体制をとっていた。このような軍事制度は、ローマの市民兵制度と比較すると、計画性や統制の面で不安定な要素を多く孕んでいた。さらに、カルタゴの戦略は地政学的な観点から、シチリアやサルディニア、イベリアなどの地中海域における交易拠点の確保を目的としており、ローマとの地中海覇権を巡る争いが、商業的にも戦略的にも常に付きまとう状況にあった。この覇権争いが他国と衝突した場合、カルタゴでは元老院が遠征の決定や将軍の任命を行い、商業利益を基盤とする交易路および拠点の維持・拡張が最重要課題とされた。こうして、カルタゴは地中海世界において、交易と軍事を結びつけた独自の戦略文化を築き上げていったのである。戦略文化において、さらにつけ加えるならば、ローマは軍事行動に際して、「宗教儀式と密接に結びついた制度的・技術的な軍事文化」を築き上げたことを前に記した。これに対して、カルタゴでは、フェニキア人が植民都市としてカルタゴを建設した時点で、「バアル・ハモン神」が豊穣・嵐・国家守護を司る主神としてすでに崇められていた。このバアル神信仰は、ローマの宗教制度における神祇官や神官、司祭などが厳格に組織化されたものとは異なり、むしろ軍事行動の精神的な支柱として機能する性格を持っていた。この点も、ローマの戦略文化との顕著な相違点として捉えることができるだろう。
 最後に、国民性およびその資質について考察することにする。
 ローマ国民は、兵役に対する義務感と規律性、そして集団への忠誠心を備えており、国家政策の延長線上において、たとえ敗北を喫したとしても、執政官・元老院・民会の判断を冷静に受け止め、制度改革を推し進める柔軟な気質を有していた。
 これに対して、カルタゴの国民は、海洋民族の特性としての商業的合理主義と個人主義を有し、戦争を商業基盤である交易路拡張と防衛のための手段として捉えていた。そのため、寡頭制的な政治構造のもと、国民全体としての国家統合意識は相対的に希薄であり、ローマとは違って、国民の戦争への主体的な関与は限定的なものであった。さらに、軍事力の多くを傭兵に依存しており、忠誠心の欠如からくる反乱の危険性を孕んでいた。実際に、第一次ポエニ戦争後に「傭兵戦争」が勃発し、カルタゴは国家存亡の危機に直面するという苦い国家運営を経験した。
 以上、ローマとカルタゴ両国の政体、軍事組織、戦争遂行能力、戦略文化、国民性およびその資質などについて分析を行った。本稿の目的は、カルタゴがカンナエの戦いで勝利を収めた後、国家指導者や国民がいかに状況を捉え、いかなる対策を講じたかを判断するための基準を明らかにすることであった。これらの分析を総合すると、カルタゴ元老院が、マゴによるイタリア戦線でのハンニバルの活躍を、単なる局地戦の勝利としか認識せず、その戦果が国家の未来を左右する戦略的転機であることへの洞察力を欠いていたことが明らかとなる。その背景には、両国の戦略文化の根本的な違いがあったと推察される。したがって、カルタゴにとっては、地中海の覇権の再確保、司令官の育成、傭兵制度の軍制改革、兵站戦略の見直しなど、従来の戦略文化に抜本的な改革のメスを入れることが喫緊の課題であり、そのためには国政の根幹にある価値基準そのものを転換する必要があった。カルタゴは、国政の根幹に商業利益を最優先する海洋国家としての合理主義的な舵取りを行ってきた。これに対して、ローマは覇権主義を国家理念の中核に据え、周辺諸国をまるで波紋のように切り崩しながら、制度的安定と集団忠誠心を背景にして、粛々と領土拡大に邁進してきた。このように、両国の国政・軍制・戦略文化・国民の気質において、その基礎の強度には雲泥の差があり、カンナエ戦後の対応においても、その差は歴然とした形で現れたのである。つまり、カルタゴ元老院が下した判断は、国家の存亡をかけた戦局においても、バルカ家とハンノ家の派閥政治が優先された結果であり、これはカルタゴ共和政の制度的脆弱性を端的に示している。マゴの演説においても、カンナエの決定的な勝利が、今後の戦争を左右するローマ同盟都市の切り崩しの絶好の機会であることを見抜けなかった。結果として、ハンニバルへの援軍はヌミディア人4,000、象40頭、そして幾ばくかの資金援助にとどまり、ローマ軍の再建力を過小評価した戦略判断の誤りを招くこととなった。この判断の背後には、カルタゴの戦略文化がもたらした制度的・思想的限界が色濃く影響していた。両国の本質的な違いは、ローマが制度によって戦争遂行能力を発揮したのに対し、カルタゴは派閥政治と将軍個人の才覚に依存していたため、戦争遂行能力に構造的な制約を抱えていたという点にあった。
 この違いこそが、カンナエの戦勝という千載一遇の好機を生かしきれず、それ以後のハンニバル戦争の帰趨を奈落の底へ引き込む契機となったのである。カルタゴ元老院は、ハンニバル支援の決議と並行して、「イタリアやヒスパニアの軍隊への援軍として歩兵2万人と騎兵4,000人を雇い入れるため、独裁官がマゴとともにヒスパニアへ派遣する」ことを決議した。こうして紀元前215年の初め、マゴは兄ハンニバルのいるイタリアへは帰還せず、もう一人の兄ハスドルバルが指揮するイベリア戦線へと海を越えて赴いた。

【ローマの動向】
 前述のとおり、ローマは制度によって戦争を粛々と遂行する国家である。
 ここでは、カンナエの敗戦後におけるローマ軍の動きを追ってみよう。
 独裁官マルクス・ユニウス・ペラは、クィントゥス・ファビウス・ピクトルがデルポイから持ち帰った託宣に基づき、神々への祭儀と祈願を執り行ったのち、25,000の武装兵を率いてローマを出発した。その状況について、リウィウスの記述を参照してみよう。
 「独裁官のマルクス・ユニウス・ペラは、祭儀を執り行ったのち、通例通り国民に対し乗馬の許可を求めた。また彼は、年の初めにコーンスルが徴募した二個の首都軍団、奴隷の召集軍、ピケヌムの土地およびガリアの土地から集められた部隊だけでは飽き足らず、ほとんど絶望的な状態に陥った国家が名誉より必要を優先して採る非常手段に訴えた。重罪を犯した者や借財のため〔債権者〕に拘束された者のうち、彼の軍隊で働く気のある者については、懲罰や借財を免除すべきであるとの告示を発したのである。このような者6,000人が、ガイウス・フラミニウスの凱旋式のさいに運び込まれたガリア人からの戦利品の武具でもって武装させられた。こうして彼は25,000人の武装兵を引き連れ、都市を出立したのである」。『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 カンナエの戦い後、ローマは複数の軍事行動を起こし、紀元前216年秋頃のマルクス・ユニウス・ペラの行動もその一環であった。彼は独裁官として軍を率い、カンパニア地方のカシリヌム周辺に布陣し、副官ティベリウス・センプロニウス・グラックスとともに、ハンニバルの侵攻を阻止すべく防衛体制を整えた。
 同時期に、「ローマの楯」ファビウス・マクシムスは元老院の重鎮として、都市防衛や同盟都市の離反防止策、カルタゴ軍の兵站妨害など、国家危危機下における戦略指導の要として活動していた。
 さらに「ローマの剣」クラウディウス・マルケルスは、どのような状況下にあったのだろうか。クラウディウス・マルケルスはプラエトル(法務官)として軍隊とともにカシリヌムに駐屯していた。そこへノラの元老院から、都市が危機的状況にあることを知らせる使節が到着した。
 リウィウスの記述を紹介しよう。
 「田園は今やハンニバルとカルタゴ人のものになってしまった。救援がなければ、間もなく都市もそうなってしまうだろう。元老院は民衆に対し、いつでも彼らが望むときに離反に踏み切ると約束した。こうすることで、何とか離反を引き延ばしているのだ。」『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 クラウディウス・マルケルスはノラの元老院の忠誠心を大いに称賛し、カシリヌムからカヤティアへ向かい、ウォルトゥルヌス川を渡り、トレビアを経て山々を越え、ハンニバルを撃退するための防衛軍の指揮官としてノラに到着した。
 一方、ローマの予測通り、ハンニバルはノラにいる一部のカルタゴ支持派住民を利用し、都市の離反と制圧を図って進軍を開始していた。しかし、ローマのプラエトルが到着すると、ハンニバルはノラから撤退し、ネアポリス方面へ軍を移動させた。その目的は、カルタゴの支援船がイタリアに到着した際の、海岸都市を確保することにあった。しかし、ネアポリスには、すでにローマの守備隊が、都市の招請によって駐留しており、都市はローマの掌握下にあった。それを知ったハンニバルは、ノラと同様にネアポリスの占領を断念し、ヌケリア(ネアポリスの南東に位置)へ向かった。カルタゴ軍はヌケリアを包囲し、複数回の攻撃を仕掛けた末、食料が尽きたヌケリア人を降伏に追い込んだ。彼らには、一人一着の衣服のみ持つことを許し、町からの退去が命じられた。ハンニバルは、カルタゴがローマ人以外のすべてのイタリア人に対して寛大であるという印象を与えるため、このような措置を取ったのである。さらに、この地に留まろうとする者、あるいはハンニバルに仕えようとする者には、報酬と名誉を約束した。しかし、その約束に応じて残留した者は一人もいなかった。ヌケリア人はカンパニアのローマ同盟都市、特にノラやネアポリスへと逃げた。リウィウスの記述によれば、約30人の元老院議員がカプアを目指し逃れたが、ハンニバルを拒否したことを理由に受け入れられず、最終的にクマエ(ネアポリスの西に位置)へ向かったとされている。
 マルケルスは、ハンニバルがノラを去った後、軍事力よりも元老院議員たちの支持を巧みに活用して、同地を占拠した。ノラには、カンナエの戦いで重傷を負い、瀕死の状態からカルタゴ軍の手厚い看護によって命を取り留めた、勇敢な騎士リキウス・バンティウスがいた。
 彼は、プルタルコスの『英雄伝』では次のように記されている。
 「実はこの町には、一流の家の出で、勇気の点でも他に抜きん出た人物がいて、その名をバンディウスといった。この仁はカンナエにおいてひときわ目立ったはたらきをし、多くのカルタゴ兵を殺したが、ついには自身も、満身に多くの矢を射込まれたまま、戦死者の屍にまじって倒れておったのをハンニバルが感服し、身代金も取らずに放ってやったうえに、数々の贈り物を与え、友人かつ客人として遇した。この恩顧に報いるべくバンディウスは、進んでハンニバル党の一員となり、力をふるって民衆を反乱へと導いたのであった。マルケレスは、これほど輝かしい精神を持ち、ローマ人にとって最大の戦いに加わった者を殺すのは神の道に反すると考えたし、また、もともと情の深い人でもあったので、こちらから接近して、彼の名誉を重んずる性格をくすぐるような言葉をかけ、丁重に挨拶をして、ご貴殿はどなたでござるかと尋ねた。名前は先刻承知であったが、言葉を交わすきっかけと口実を求めたのである。相手が『それがしはルキウス・バンディウスと申す者』と言うと、マルケルスは驚きと喜びを顔に表して、『されば、ご貴殿こそかのバンディウス殿でござったか。ローマにおいて最も広く語り草になっておるお方よな。ただ一人執政官パウルス・アエミリウス殿を見捨てず、彼に降り注ぐ矢をば、終始身代わりとなって己の身に受けて耐えおおせたお方か』と言った。バンディウスがそうだと言って、その傷跡をいくつか見せると、『しからば、われらへの友誼のしるしをこれほどおもちでありながら、ただちにわれらのもとへ来られなんだは何ゆえじゃ。ひょっとして、ご貴殿の目には、われらは、敵すらも敬意を表した方の勇気に報いぬほど、それほどにまで見下げ果てたる輩と映ずるのでござろうか』。このような厚意のあふれる言葉をかけて歓迎の意を表し、さらに馬一頭と銀貨500ドラクマを与えた。それ以後バンディウスは、マルケルスにとって最も忠実な味方となり、反対のことを図る者たちには最も厳しい密告人、告発人となった」。英雄伝』、著者:プルタルコス、訳:柳沼 重剛
 バンディウスは、ハンニバルへの深い恩義からノラをカルタゴの支配下に置くことを画策し、民衆を反乱へと導いたとされる。マルケルスは、「ローマ人にとって最大の戦いに加わった者を殺すのは神の道に反すると考え」、武力による制圧ではなく、彼を呼び出して対話による解決を試みた。バンディウスは、マルケルスの好意あふれる言葉によって、ローマに対する矛先を収めた。
 この一連の経緯は、リウィウスも『ローマ建国以来の歴史』の中で同様に記している。
 「同国人の中には彼を妬む者が多数いるようだ。このことは、彼がどれほど多くの立派な軍功をなしたか、誰一人自分に語るノラ市民がいないことから容易に推測できる。だがローマの陣営で勤務した者は、彼の武勇に無知ではいられない。かつて彼とともに軍務を果たしたあまたの者が、彼はどんな男であり、ローマ国民の安全と威厳のためどれほど危険な目に、しかも再三遭いながら働いたか、自分に知らせてくれる。またカンナエの戦いで彼がどれほどふんばり、息も絶え絶えの状態になって、覆いかぶさってきた人や馬や武具の下敷きになるまで戦闘を止めなかったか、教えてくれる。『よって,その武勇に栄光あれ!』とマルケルスは言った。『私のそばにいれば、そなたはありとあらゆる名誉と報酬を得るだろう。私とともに多くの時を過ごせば、それだけますます私との交友がそなたの品位に見合っており、利益にもなることを、そなたは理解するだろう』。若者はこの約束をたいそう喜んだ。そこでマルケルスは彼に贈り物としてひときわ見事な馬をあたえるとともに、彼にビーガートゥス銀貨500枚を支払うようクワエストルに命じる。また彼が面会を求めるときにはいつでも通してやるよう、警吏たちに言いつける」。『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 バンディウスは、ハンニバルへの深い恩義からノラをカルタゴの支配下に置おこうとしていた。やがて、彼が政変を企てていることに気づいたマルケルスは、武力による制圧か、言葉による説得かを検討した末、彼を呼び出して対話による解決を試みることにした。その結果、バンティウスはローマへの忠誠を誓うこととなった。リウィウスはそう記している。
 マルケルスという武将は、ファビウスが「ローマの盾」と呼ばれるのに対して、「ローマの剣」と称され、数々の武勇伝をもつ歴史的英雄である。彼の戦略は積極的な攻勢と決戦志向を特徴とし、ファビウスの、持久戦・消耗戦を特徴とする慎重な戦いとは対極にあった。そのマルケルスが、ノラの勇士バンティウスを軍事力ではなく対話によって説得したことは、彼が猪突猛進型の単純な武将ではなく、柔軟な政治手腕をも備えた人物であったこと示している。
 こうして紀元前216年の秋、ローマとカルタゴによる「ノラの戦い」が勃発したのである。

【ノラの攻防戦】  ハンニバルはヌケリアを攻略した後、再びノラの市門付近に接近して布陣した。これを知ったノラの市民たちは動揺し、ハンニバル側に付くべきだと主張する者も現れた。マルケルスは、市民たちの寝返りを防ぐため城門を固く閉ざした。その後、彼は兵を率いて城門を出、カルタゴ軍に対峙し布陣した。両軍は幾度か小競り合いを繰り返したが、決定的な戦闘は行われないまま数日が過ぎた。やがてノラ元老院からマルケルスのもとに、市民とカルタゴ軍が夜間に密約を交わしたとの情報が届いた。それは、ローマ軍が城外に出た際に市を占拠し、カルタゴ軍を受け入れるというものであった。この情報を受け、マルケルスは政変決行前に決着をつけるべく軍を三分し、三つの市門に配置した。中央の門には精鋭の重装歩兵と騎兵を置き、他の二つの門には軽装歩兵と新兵を配置した。
 一方でハンニバルは、市壁前で戦闘隊形を組んだまま布陣し、市壁の内側で内乱が起こるのを待つ形となった。そして陣営から攻城装置を前線に急ぎ運び込むよう指示した。攻城戦に突入すれば、それに呼応して市壁内で政変が起こると予測し、カルタゴ軍は市壁へ接近を開始したのである。
 カルタゴ軍の行動に合わせて市門が開き、マルケレスの戦闘開始の合図とともに歩兵が突入し、続いて騎兵が参戦して正面で激しい戦闘が始まった。ところが両軍の激戦中、別の二つの門から副官プブリウス・ワレリウス・フラックスとガイウス・アウレリウス率いる軍が出撃し、両側からカルタゴ軍に襲いかかった。これはまさにハンニバルが得意とする包囲殲滅戦術を逆にローマ軍が用いたのである。ハンニバルは迂闊にもローマ軍を軽視していた節があり、カルタゴ軍は不意を突かれ混乱し、戦闘不能となって敗走した。
 この戦いの結果、ローマ軍の戦死者は約500人、カルタゴ軍の戦死者は約5,000人とされる。ノラの戦いはカンナエの戦いのように軍団の運命を左右する大規模戦ではなく、局地戦に過ぎなかった。しかし、ローマは負敗を誇るハンニバルという戦術の魔物に初めて勝利したのである。この勝利の効果は絶大であった。なぜなら、ローマはハンニバルに対し勝利することが不可能ではないことを示したからである。
 リウィウスの記述から話を先に進めよう。
 ハンニバルはノラの占領を断念し、西方約15キロに位置するアキラエへ撤退した。そして、アケラエに降伏を迫ったが、服従の意思を示さなかったため、攻撃に備えて堡塁を築き包囲を開始した。市民はその堡塁が完成する前に監視の隙を突き、夜のうちにカンパニアの諸都市に逃げ込んでしまった。ハンニバルは市民が逃げ去ったアケラエを略奪したのち、町を焼き払った。
 一方、ハンニバルが去った後、マルケルスはノラの市門を固く閉ざし、カルタゴと内通した者の審問を行った。その結果、70人以上を洗い出し、反逆罪として即刻処刑した。反逆者たちの財産は没収され、ローマの国有財産に組み込まれた。その後、ノラの政権を元老院に委ね、マルケルスは軍を率いてスエッスラ近郊の山上に陣営を築いた。
 ハンニバルはアケラエを略奪した後、ローマ軍が独裁官と新たな軍団をノラ方面に呼び寄せているとの情報を得た。カプアへの影響を考慮し、彼はカシリヌムへ向かうことにした。当時カシリヌムは、少数のローマ人と同盟軍約500人によって掌握されていた。
 ハンニバルは先遣隊として副官イサルカに、まず交渉によって開城を促し、抵抗する場合は攻撃を開始せよと指示した。イサルカ率いる軍が市壁に近づくと、都市は静まり返り人の気配がなかった。そこで門をこじ開けようと破壊行動を開始したところ、突然門が開き、喚声を上げながら兵が飛び出して襲いかかり、先遣隊は退却を余儀なくされた。そこでマハルバル率いる精鋭部隊がこの小都市を包囲し、全軍攻撃を行った。しかし都市は小規模ながら防備が固く、壁上や櫓から矢の攻撃を受け容易には攻め落とせなかった。一度だけ守備兵が門を開いて打って出たが、カルタゴ軍に多くの戦死者が出た。もし夕暮れが訪れなければ、さらに多くの犠牲が出ていたであろう。ハンニバルは最後の手段として、屋台と坑道を掘り進める作戦に出た。リウィウスは同盟都市の抵抗を次のように記している。
 「だがこうした敵のさまざまな企てに立ち向かうだけの活力と技量を、ローマ人の同盟者は具えていた。彼らは屋台に対抗して障害物を設置し、交差する坑道で敵の坑道をさえぎった。見える場所でも隠れた場所でも、相手の企てを邪魔した。こうしてついにさすがのハンニバルも、恥ずかしさのあまり作戦を取り止めざるをえなくなった。彼は作戦の中止を悟られぬよう、陣営を固めわずかな守備隊を置いた上で、カプアの冬営へ退いた。」『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 こうしてカプアでの冬営を余儀なくされたカルタゴ軍は、次は陣営内で「安逸」という新たな敵と遭遇することになった。戦場で極度の緊張や苦難に晒されてきた兵士たちにとって、突然訪れた安逸な生活は未経のものであった。睡眠、酒、宴会、売春婦、風呂などの日々は、精神と肉体を堕落させるには十分であった。この様子について、リウィウスは詳しく記している。
 「軍事の専門家に言わせれば、この事は指揮官にとって、カンナエの戦場からすぐに軍隊を首都ローマへ向かわせなかったこと以上に大きな過ちだとされる。なぜなら、前回の躊躇はただ勝利を遅らせただけなのに対し、今回の失敗は勝利する力を奪ってしまったと考えられるからである。こうして彼は本当にまるで違う軍隊を率いているような感じで、カプアから退去したのだった。そこにはかつての規律はすっかり見る影もなくなっていた。実際戻ってきた兵士の大半は、売春婦と抜き差しならぬ関係になっていた。天幕の下での生活が始まり、続いて行軍や他の軍役が行われると、彼らの肉体と精神はまるで新兵のように弱弱しかった。その後、夏の活動のあいだに大部分の者が許可なく軍旗から離脱した。脱走者の逃げ場所は、まさにカプアに他ならなかった。」『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 このような状況下、ハンニバルは冬営から軍を率いてカシリヌムへ向かい、再び都市を包囲した。戦闘は中断されていたが、包囲によって都市の食料は枯渇した。というのも、カシリヌム近郊にいたローマ軍の独裁官は鳥占いを行うためにローマに帰還しており、陣営を指揮していたのは騎兵長官のティベリウス・センプロニウス・グラックスであった。彼は独裁官から、「自分が不在の間は何もするな」との指示を受けていたのである。そのため彼はカシリヌム近郊に駐屯したまま行動を控えていた。しかし、カシリヌムからはカルタゴの包囲による城内の惨状が伝えられていた。飢えに絶えかねて身を投げる者や、武具を帯びず市壁に立ち敵の投槍に身をさらす者が出ているとの知らせである。独裁官の命令に縛られて救出の手立てがない中、グラックスは一計を案じ、周辺の農地から小麦を集めて甕に入れ、川に流す策を思いつき、これをカシリヌムの有力者に知らせた。この方法は当初うまく運んだが、降り続いた雨で川の流れが強まり、カルタゴの陣営側にも甕が流れ着いた。これを知ったハンニバルは川の監視を強化し、カシリヌムへの食料補給を完全に遮断した。
 その結果、城内は再び飢えの極限状態に陥った。人々は革紐や楯に張られた革を湯でふやかして食べ、捕らえた鼠や他の動物、さらには市壁の土手に生えた雑草まで口にした。カルタゴ軍が、住民に雑草さへ食べさせまいと、城壁沿いの土を鋤き返すと、彼らはそこに蕪の種を蒔いたという。これを機に、ハンニバルは拒んでいた身代金交渉を開始し、守備兵一人あたり金七ウンキア(約27グラム)で合意した。こうしてカシリヌムの守備隊は降伏した。金がすべて支払われた後、守備隊の570人のうち半数近くは飢えで命を落としたが、残りはローマへの帰還を許され、無傷で城外へ退去した。こうしてローマ守備隊は市壁を離れ、カシリヌムはカンパニア人に返還された。ローマ軍が去った後も、ローマの再攻撃を防ぐためにハンニバルはこの地に700人の守備隊を残し、自らは拠点とするカプアへ戻って行った。
 紀元前215年春のカシリヌムの攻城戦が行われた頃、カルタゴ軍に対するローマ軍の動きを検証しておきたい。まず位置関係を確認すると、カルタゴがカンパニア地方攻略の拠点としたカプアはカンパニア地方の中心に位置し、西にカシリヌム、南西にクマエ、北東にノラ、南にネアポリスといった都市に囲まれるような地理的環境にあった。アッピア街道の中継地点としても戦略的に重要な都市であり、ハンニバルがこの地を軍事拠点化したことはローマにとって脅威であった。そのためローマは、ノラに前執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスを、カシリヌム近郊に執政官マルクス・ユニウス・ベラとその騎兵長官ティベリウス・センプロニウス・グラックスを、さらにベネウェントゥム方面にファビウス・マクシムスを配置し、カルタゴの動きを牽制していたのである。このことからもわかるように、ローマの防衛体制は国家の意思を反映した組織的で確固たる信念に基づく動きであった。
 リウィウスは記述の端々にローマの道徳的価値観を示し、国家が如何なる脅威に晒されても規律や徳がそれを支え守ることを強調している。『ローマ建国以来の歴史』序文には次のような記述がある。
 「各自それぞれに真剣なまなざしを向けてほしいのは、次のようなことがらである。すなわち、人々の暮らしや道徳のありようはいかなるものであったのか。ローマの支配権はいかなる人物によって獲得され、拡大したのか。また、平時、戦時におけるそのありようはいかなるものであったのか。さらには、綱紀が徐々に弛むに従って、道徳がいかに廃れてきたのかにも心を向けて欲しい」。『ローマ建国以来の歴史』、著者:リウィウス、訳:安井 萌
 前述の通り、カルタゴ軍はカシリヌムの攻城戦に勝利し、その後カプアへ帰還して冬営を行った。リウィウスは、このカプアでの贅沢な生活によるカルタゴ軍の堕落を、軍事的敗北以上の道徳的敗北として描いている。一方で、敗北を重ねても不屈の精神で組織的な再建を試み、規律ある行動によって立ち直るローマという国家の姿を記している。ここには未来に向けて、ローマとカルタゴの勝敗を示唆する意図が見て取れる。実際、この示唆の通りに、ローマとカルタゴはその攻防戦において次の段階へと突き進んでいくのである。

(「第6章 第2節 第2次ポエニ戦争 ローマの盾とローマの剣」に続く)
元々はフェニキア人によってつくられた町/スース/チュニジア
チュニジアの至る所で見かけるサボテンの実/ドゥッガ遺跡/チュニジア
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
CNN 2016年4月5日掲載記事
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井 萌
「英雄伝」著者:プルタルコス・訳:柳沼重剛・訳:高橋 宏幸
「ポエニ―戦争の歌」著者:シーリウス・イタリクス
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭
『カルタゴの遺書 ある通商国家の興亡』著者:森本哲郎/td>
『アルプスを越えた象』著者:ギャヴィン・デ・ビーア・翻訳:時任生子
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館
「世界図書室」HP
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ
「「鐙━その歴史と美━」発行者:野馬追の里原町市立博物館」
「トラスメヌス湖畔の戦い戦図/フランク・マティーニ。アメリカ陸軍士官学校歴史学科地図製作者(フランク・マルティーニがウィキペディアの「米国陸軍士官学校歴史学科」の内容を使用する許可の引用)」
「トラシメヌス湖畔の戦いで斬首されたフラミニウス絵画/フランスの歴史画家:ジョゼフ・ノエル・シルヴェストル作/ウィキペディアより」
筆者画像:長槍(サリッサ)/テッサリア/ギリシア
子供を左手に抱くポエニ神官/バルドー博物館/チュニス/チュニジア
筆者画像2枚:デルフォイの宣託所遺跡/デルフォイ/ギリシア
筆者画像2枚:デルフォイ博物館収蔵品画像/デルフォイ/ギリシア
筆者画像2枚:アクロポリス博物館収蔵品画像/アテネ/ギリシア
筆者画像:ディドー女王を思わせるオリーブを持つ女性/1ディナール硬貨/チュニジア
ジョン・トランブル『パウルス・アエミリウス、カンナエの戦いで死す』(1773年)、出典:Wikipedia「ルキウス・アエミリウス・パウルス」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ルキウス・アエミリウス・パウルス
筆者画像2枚:スースの町画像/サボテンの画像
【ハンニバル・バルカ】
第1章 第1次ポエニ戦争
第2章 第2次ポエニ戦争 序章
第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越え
第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越え
第4章 第2次ポエニ戦争 第1節 戦闘開始
第4章 第2次ポエニ戦争 第2節 トレビア川の戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第1節 アペニン山脈を越えて
第5章 第2次ポエニ戦争 第2節 カンパニアからの脱出
第5章 第2次ポエニ戦争 第3節 二人の独裁官
第5章 第2次ポエニ戦争 第4節 ファビアン戦略
第5章 第2次ポエニ戦争 第5節 カンナエの戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第6節 戦闘開始
第5章 第2次ポエニ戦争 第7節 同盟都市攻略
第6章 第2次ポエニ戦争 第1節 新たなる戦い