『日本宗教の多様性』
「多様性」という語がある。
私は最近、時間を自由に使える年齢を迎え、植物園や博物館を訪れる機会が増えた。そこでよく目にするのが、この「多様性」という語である。そもそも、この語はどのように使われ始め、どのように広まっていったのだろうか。まずはその点を確認してみたい。
多様性の語源を調べると、英語の“diversity“はラテン語の“diversitas“に由来し、12世紀頃にはすでに存在していた。もともとは「矛盾」や「不一致」といった否定的な意味を持っていたが、17世紀頃になると「相違」や「さまざまな形」といった肯定的な意味へと転じ、次第に幅広い分野で用いられるようになったのである。
では、多様性という語が歴史的にどのような分野で使われ始めたのだろうか。調べてみると、この語が最初に体系的に用いられたのは、自然科学の分野であった。生物学的・生態学的観点から、「種の多様性」や「遺伝的多様性」など、生物群の“多様さ“を示す概念として非常に適していたためである。こうして多様性という語は、自然科学の領域で発展し、やがて他の分野へと広がっていった。
18世紀、近代民主主義が成立し始める時期になると、「多様性は国家の美徳である」という考え方が登場した。これは、国家運営において一部の勢力が権力を独占することを防ぐための概念として用いられたものである。ただし、この段階ではまだ「民族」「性別」「文化」といった具体的な属性を指す意味として使用されたわけではなかった。
その後、20世紀後半になると、社会科学や人文学といった新しい学術分野において、現代的な意味での「多様性」が一般概念として定着した。「人種」「性別」「文化」「宗教」「性的指向」「障害」「ライフスタイル」など、多様な人間のあり方を表す語として広く使われるようになり、現代社会に不可欠な言語となったのである。まさに“言語“そのものが多様性を獲得したと言えるほどに、この語は豊かな広がりを持つに至った。
このように“多様性“という概念は、時代とともに意味を広げながら、人間社会を理解するための重要な視点となっていった。では、この視点を日本の宗教史に当てはめてみると、一体どのような姿が浮かび上がるのだろうか。ここからは、日本宗教がどのように多様性を育み、独自の宗教文化を形成してきたのかを探ってみたい。
日本の宗教といえば、日本神道と仏教がその中心を成している。なかでも日本神道は、古来より自然のあらゆるものに神が宿ると考える「八百万の神」の世界観を育んできた宗教であり、その柔軟で排他性の弱い性質が特徴である。
『日本書紀』には、552年に百済から仏像や経典が献上されたことが記録されている(他資料には538年とする説もある)。こうして新しい宗教である仏教が6世紀半ばに伝来すると、その受け入れをめぐって有力豪族のあいだで賛成派と反対派が対立した。賛成派の中心は曽我氏であり、彼らは百済との友好関係を維持するとともに、外来の仏教思想を取り入れることで国家の発展を図ろうとした。一方、反対派は物部氏や中臣氏であった。彼らは従来の日本神道を守る対場から、外国の神を祀れば神々の怒りを招くと主張したのである。しかし、この対立はやがて深刻化していった。
587年、ついに蘇我氏と物部守屋を中心とする反対派とのあいだで武力衝突(「丁未(ていび)の乱」)が起こる。この戦いは単なる宗教論争ではなく、国家の主導権をめぐる政治闘争の性格を帯びていた。
物部守屋は神道を守護する立場から、寺院を破壊し仏像を焼き捨てるなど、仏教排斥の姿勢を強めた。これはすなわち、仏教を保護する蘇我氏の勢力を政治の中心から排除しようとする行動でもあった。物部氏は古来より軍事に長けた氏族であり、戦いの初期段階では優勢だったと伝えられる。しかし、戦況は次第に蘇我氏へと傾いた。『日本書紀』によれば、戦場において聖徳太子(厩戸皇子)が「四天王」に戦勝を祈願し、仏教の守護を誓ったことで、蘇我軍の士気が大いに高まった。やがて蘇我軍は物部氏の砦を攻め落とし、逃走中の守屋は矢を受けて戦死した。物部氏の本拠地も焼かれ、その勢力は完全に壊滅した。
こうして物部氏が滅んだことで、仏教受容は国家的方針として確立されることとなった。丁未の乱に勝利した蘇我氏が政治の主導権を握り、592年には蘇我氏の後押しによって推古天皇が即位した。翌593年には聖徳太子(厩戸皇子)が摂政に任じられ、蘇我馬子と聖徳太子による協力統治が成立したのである。
ここで、推古天皇の即位と太子が摂政に任じられた経緯について、簡潔に触れておきたい。
聖徳太子(厩戸皇子)は、蘇我氏の血を引く用明天皇を父とし、欽明天皇の娘である穴穂部間人皇女を母として生まれた。この時代の皇位継承では、父系だけでなく「母方の血統」が強く重視されており、欽明天皇の直系の娘である推古皇女は、皇統の中心に最も近い立場にあった。推古の母・堅塩媛は蘇我氏の娘であり、推古皇女は用明天皇の同母妹、すなわち聖徳太子にとって叔母にあたる。こうした血統上の位置づけから、欽明系の皇統を安定的に継承する最適な選択肢として、推古皇女が天皇に即位したのである。
とはいえ、聖徳太子が即位する可能性がまったくなかったわけではない。では、なぜ太子は天皇とならず、摂政に留まったのか。その背景には、蘇我氏の政治的思惑が働いたと考えられる。蘇我氏にとって、政治的実権の発動が比較的穏やかであると見なされた女性天皇を即位させ、象徴的な君主として据える方が、自らの権力を維持しやすかった。もし聖徳太子を天皇に即位させれば、太子の政治主導力が強まり、蘇我氏の影響力が相対的に弱まる可能性があったからである。そのため、天皇には推古皇女を立て、聖徳太子はその摂政として政治改革を担うという体制が選択された。これは推古天皇の権威、聖徳太子の政治能力、蘇我氏の政治権力という三者の均衡を保つには最良で合理性を伴う政治構造の創造であったといえる。
この体制のもとで朝廷は安定期を迎え、国家改革を進めるための政治的環境が整った。この安定を背景に、太子は仏教を中心としつつ、儒家思想や法家思想も積極的に取り入れた国家改革を推進した。603年の冠位十二階制度、翌604年の十七条憲法の制定は、氏族連合的な政治構造から、より中央集権的な国家へと移行するための制度的基盤を整えることで、政治の安定化を強化する役割を果たすこととなった。
太子が進めたこうした政治体制の発展は、後世の日本宗教文化において独自の形をとる「神仏習合」へとつながる重要な転換点となった。神仏習合とは、神道と仏教を対立的に捉えるのではなく、むしろ調和しつつ融合させようとする、日本独自の宗教観の表れである。その理論的枠組みとして後に形成されたのが、「神は仏の化身である」とする本地垂迹(ホンチスイジャク)思想であった。この思想のもと、神社の境内に寺院が立てられ、神社で仏教儀礼が行われるという、日本特有の宗教的景観が生まれることとなった。もちろん、聖徳太子の時代(6~7世紀初頭)には、本地垂迹思想そのものはまだ成立していなかった。これは平安時代末期に体系化される思想である。しかし、太子が日本古来の神祇信仰を排除することなく、仏教を国家理念として積極的に導入し、両者を調和させる方向で国政を進めたことは、後の神仏習合の基盤を形づくる重要な精神的土壌を育んだといえるだろう。日本の宗教は単一ではなく、多元的な共存へと向かう精神の源流を、まさにこの時代に見出すことができる。
太子の「十七条憲法」には、仏教思想はもちろん、儒家思想や法家思想も織り込まれており、宗教・倫理・政治理念が重層的に融合した独自の世界観が示されている。これは、外来思想を柔軟に受け入れつつも、土着の神祇信仰と調和させるという、日本宗教の多様性が国家理念として芽生えた瞬間を読み取ることができる重要な資料といえる。
本稿では、十七条憲法の条文に織り込まれた思想を手がかりとして、神仏習合へ至る精神史的な流れを探ることにしたい。私たちが日常で聖徳太子の冠位十二階制や、十七条憲法に触れる機会は多くないため、以下に全条文を掲げ、その思想的背景を読み解く一助としたいと思う。
冠位十二階の制定
「(十一年)十二月五日に、はじめて冠位を施行した。大徳・小徳・大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)・大礼(だいらい)・小礼(しょうらい)・大信・小信・大義・小義・大智・小智、合わせて十二階、(冠は)みなそれぞれの階に合わせた色の絁(きぬ)で縫った。頂きはすべて袋状にして、縁(もとおり)を着けた。ただし、元日には髻花(うず)を着けた。」『現代語訳 日本書紀』抄訳:菅野雅雄より
聖徳太子は、それまで官人の身分が氏族や家柄によって決められていた慣習的な制度を改め、個人の能力と功績に応じて位を授ける新たな国家制度へと転換したのである。ここには、外来の制度や思想を取り入れつつ、古来の伝統を生かして新たな秩序を築こうとする「温故知新」の精神が明確に表れている。
そして、この制度改革は翌604年に施行された十七条憲法へと連続していくことになる。十七条憲法は、冠位十二階制が示した能力主義的な官僚制度に、国家を支える精神的理念を与える役割を果たした。すなわち、冠位十二階制が「制度」を整え、十七条憲法が「理念」を示すことで、仏教・儒家思想・法家思想、そして古来の神祇信仰が多層的に調和する、日本独自の宗教的・政治的ワールドが、太子によって国家レベルにおいて形づくられたのである。
憲法十七条制定
次に、冠位十二階制度の理念ともいうべき、十七条憲法全文を紹介しょう。
「十七条憲法」
夏四月丙寅の朔戊辰、皇太子、親ら肇めて憲法十七条を作りたまふ。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:西暦604年5月6日、推古天皇十二年、聖徳太子みずから憲法十七条をお作りになった)
一に曰く、和を以て貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもってあるいは君父に順(したが)わず。また隣里に違う。しかれども、上和らぎ、下睦びて、事を、論(あげつら)ふに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第一に言う。何よりも大切なのは、和を尊び、むやみに争わないことを基本にすること。人は誰しも自分の立場や思い込みがあって、物事の道理を十分に理解している者は少ない。そのため、ときとして君主や父に従わなかったり、身近な人たちと諍いをおこしたりする。しかし、上に立つ者が穏やかで、下の者が仲良くして、物事を議論するときに心を合わせれば、道理は自然と通じるものだ。そうなれば、成し遂げられないことなどなどない筈だ。
二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝はと、仏と法と僧なり。すなわち 四生の終帰(よりどころ)、万国の極宗なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人、はなはだ悪しきもの少なし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰りまつらず枉(まが)れるを直(ただ)さん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第二に言う。深く三宝(仏・法・僧)を敬いなさい。三宝とは、すべての生きものが最終的に帰依すべき拠りどころであり、世界中の国々にとって究極の拠りどころでもある。どの時代、どの人であっても、この教えを貴ばない者はいない。人は本来、元々悪い者は少なく、正しく教えで導けば従うものである。もし三宝に帰依しないならば、いったい何によって人の誤りを正すことができようか。
三に曰く、詔を承りてはかならず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。天は覆い、地は載す。四時順(したが)い行いて、万気通うことを得。地、天を覆はんとするときは、壊(やぶ)るることを致さん。ここをもって、君言(のたま)ふときは臣承る。上行うときは下靡く。ゆえに詔を承りてはかならず慎め。謹まずば、おのずから敗れん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第三に言う。天皇の詔を受けたなら、必ず慎んでしたがいなさい。君主は天のような存在であり、臣下は地のような存在である。天が覆い、地が支えることで、四季はめぐり、万物は通い、世界は秩序を保つ。もし地が天を覆おうとすれば、世界はただ崩壊するだけである。だからこそ、君主が言葉を発すれば臣下はそれを受け、上が動けば下はそれに従う。ゆえに、詔を受けたなら必ず慎重に従いなさい。慎みを欠けば、結局は自分を滅ぼすことになる。
四に曰く、群卿(まえつきみたち)百寮(つかさつかさ)、礼をもって本とせよ。それ民を治むる本は、かならず礼にあり。上、礼なきときは、下、斉(ととのお)らず。下、礼なきときは、かならず罪あり。ここをもって、君臣礼あるときは、位次乱れず。百姓礼あるときは、国家おのずから治まる。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第四に言う。大臣や役人たちは、何よりも“礼“を根本としなさい。民を治めるための基礎は、必ず礼にある。上に立つ者が礼を欠けば、下の者は整わない。下の者が礼を欠けば、必ず罪や乱れが生じる。だからこそ、君主と臣下のあいだに礼があれば、身分や秩序は乱れない。庶民に礼があれば、国家は自然と安定して治まるものである。
五に曰く、あじわいのむさぼり〈餐〉を絶ち、たからのほしみ〈欲〉を棄てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ。それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。このごろ訟えを治る者、利を得るを常とし、賂を見てはことわりもうす〈讞〉を聴く。すなわち財あるものの訟えは、石をもって水に投ぐるがごとし。乏しきものの訴えは、水をもって石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず、臣道またここに闕(か)く。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第五に言う。飲食のぜいたくを断ち、財物への欲を捨てて、公正に訴訟を裁きなさい。庶民の訴えごとは、一日に千件もあるほどだ。一日でさえそのような有様なのだから、まして年を重ねればどれほど多くなることか。ところが近ごろ、訴訟を扱う役人は、自分の利益を得ることを常とし、賄賂を受け取ればその者の言い分だけを聞く。そのため、財のある者の訴えは、石を水に投げ込むようにすぐ沈んで通るが、貧しい者の訴えは、水を石にかけるだけのように全く通らない。こうして貧しい民はどうしてよいか分からず、臣下としての道もまたここにおいて欠けてしまうのである。
六に曰く、悪を懲らし善を勧むるは、古の良き典(のり)なり。ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匤(ただ)せ。それ諂い詐(あざむ)く者は、国家を覆す利器なり。人民を絶つ鋒剣なり。また佞(かだ)み媚ぶる者は、上に対しては好みて下の過を説き、下に逢いては上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第六に言う。悪を懲らしめ、善を勧めることは、昔からの正しい規範である。だから、人の善行は隠さずに明らかにし、悪を見たなら必ず正さなければならない。おべっかを使い、人を欺く者は、国家を覆す危険な道具のようなものであり、民を滅ぼす鋭い刃物のような存在である。また、へつらい媚びる者は、上の者には取り入って部下の過ちを告げ立て、下の者に合えば今度は上の者の失敗を悪く言う。このような者たちは、君主に対して忠義がなく、民に対しても仁愛がない。これこそが大きな乱れの根源なのである。
七に曰く、人おのおの任あり。掌ること、濫(みだ)れざるべし。それ賢哲、官に任ずるときは、頌(ほ)むる音(こえ)すなわち起こり、姧者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、禍乱(わざわいみだれ)すなわち繁し。世に、生まれながら知るひと少なし。よく念(おも)いて聖となる。事、大小ととなく、人を得てかならず治まる。時、急緩となく、賢に遇いておのずから寛(ゆたか)なり。これによりて、国家永久にして、社稷(禝)危うからず、故に、古の聖王、官のために人を求む。人のために官を求めず。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第七に言う。人にはそれぞれふさわしい任務がある。ゆえに、担当する仕事が混乱してはならない。賢く徳のある人物が官職につけば、たちまち称賛の声が起こる。しかし、奸がしこい者が官職につけば、災いと乱れが次々に起こる。世の中には、生まれつきすべてを知る者などほとんどいない。よく学び、深く考えることで聖人の域に達するのである。物事は大小を問わず、適切な人物を得れば必ずうまく治まるというものだ。時勢が急であろうと緩やかであろうと、賢者に任せれば自然とゆとりが生まれる。こうして国家は長く安泰となり、社稷(国家の基盤)は危うくはならない。だからこそ、昔の聖王は“官職にふさわしい人物“を求めたのであって、“人物に合わせて官職を作る“ようなことはしなかったのである。」
八に曰く、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。公事監(いとま)なし。終日(ひねもす)にも尽くしがたし。ここをもって、遅く朝(まい)るときは急なることに逮(およ)ばず。早く退(まか)るときはかならず事尽くさず。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第八に言う。大臣や役人たちは、朝には早く出仕し、夕方には遅く退出するようにしなさい。公務には暇などなく、一日かけてもやり尽くせないほどある筈だ。だから、朝遅刻すれば、急ぎの用件に間に合わない。早く退出すれば、当然その日の仕事を終えることはできない。」
九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗はかならず信にあり。君臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。君臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第九に言う。“信(まこと)“は“義“の根本である。どんな事柄にも誠実さがなければならない。善悪の判断も、物事の成功と失敗も、すべて信にかかっている。君主と臣下がともに誠実であるなら、成し遂げられないことなどない。しかし、君主よ臣下のあいだに信がなければ、あらゆることがすべて失敗におわる。」
ここで、引用文の著者梅原猛氏は、この九条の「臣下」は、原文では「群臣」となっている旨を記述しておられる。筆者は「群臣」と「君臣」では表現は異なるものの、作者の意図として前者は“官僚全体“を直接的に指し、後者は一般的な語法で結果的には官僚全般を意味する点で、両者の表現内容は実質的には同じであると考える。そこで、筆者は「群臣」における現代訳も付記した。
(付記:群臣の場合)
訳:「第九に言う。“信(まこと)”は“義”の根本である。どんな事柄にも誠実さがなければならない。善悪の判断も、物事の成功と失敗も、すべて信にかかっている。群臣(多くの臣下たち)がともに誠実であるなら、成し遂げられないことはない。しかし、群臣に信がなければ、あらゆることがすべて失敗に終わる。」
十に曰く、こころのいかり〈忿〉を絶ち、おもてのいかり〈瞋〉を捨てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、詎(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく拳(おこな)え。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十に言う。心の中の怒り(忿)を断ち、顔に表れる怒り(瞋)を捨て、人が自分と違う考えを持っていても腹を立ててはならない。人にはそれぞれ心があり、その心にはそれぞれ強く抱く考えがある。あの人が“正しい“と思うことを、私は“間違い“と思うこともある。私が“正しい“と思うことを、あの人は“間違い“と思うこともある。私が必ずしも聖人と云うわけではなく、相手が必ずしも愚かというわけでもない。どちらもただの凡人にすいない。是非の理(正しいか誤りかの判断)は、いったい誰が完全に定められようか。
人の賢さや愚かさは、輪(鐶)のように端がなく、どちらが上とも下とも決めがたいものだ。だからこそ、相手が怒っているように見えても、まず自分の誤りを恐れ慎むべきである。たとえ自分ひとりが正しいと思っても、多くの人の意見に従い、共に行動しなさい。
十一に曰く、功過を明らかに察(み)て、賞罰かならず当てよ。このごろ賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事を執る群卿、賞罰を明らかにすべし。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十一に言う。功績と過失を正しく見極め、賞罰は必ずその実にふさわしく行わなければならない。ところが近ごろは、賞は功績に応じて与えられず、罰も罪に応じて科されていない。職務を担当する群臣(官僚たち)は、賞罰を明確にし、公正に実行すべきである。
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(ひやくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君無し。民に両主なし。率土の兆民は王をもって主となす。所任の官司はみなこれ王臣なり。何ぞあえて公と、百姓に賦斂(おさめと)らん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十二に言う。国司や国造は、百姓(民)から勝手に税や物を取り立ててはならない。国に君主は二人いない。民に主は二人いない。天下のすべての民は、王を唯一の主とする。官職を任じられた者は、すべて王の臣下である。どうしてそのような立場にありながら、公(おおやけ)の名を借りて、民から私的に税を徴収などしてよいはずがあろうか。
十三に曰く、もろもろの官に任ぜる者、同じく職掌を知れ。あるいは病し、あるいは使して、事を闕(おこた)ることあらん。しかれども知ることを得る日には、和(あまな)うことむかしより〈曾〉識(し)れるがごとくせよ。それ与(あずか)り聞かずということをもって、公務を妨(防)げそ。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十三に言う。さまざまな官職に任じられたものは、互いにその職務の内容を理解しておきなさい。病気になったり、出張に出たりして、仕事欠くことがあるだろう。しかし、再び職務の状況を知ることができるようになった日には、まるで以前からずっと知っていたかのように、円滑に仕事を引き継ぎなさい。『自分は聞いていなかった』という理由で、公務を妨げてはならない。
十四に曰く、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)むときは、人またわれを嫉(ねた)む。嫉妬の患(うれ)え、その極をしらず。このゆえに、智おのれに勝るときは悦ばず。才おのれに優るときは嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百歳にしていまし今賢(けん)に遇うとも、千載にしてひとりの聖を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ずば、何をもってか国を治めん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十四に言う。大臣や役人たちは、互いに嫉妬してはならない。私が誰かを妬めば、相手もまた私を妬むようになる。嫉妬というものは、どこまで行っても終わりがなく、心をむしばむ災いである。自分より知恵のある者に出会っても素直に喜べず、自分より才能のある者に出会えば妬みの心が起きる。このような心のあり方では、たとえ五百年に一度の賢者に巡り会えたとしても、千年に一人の聖人をえることは難しいだろう。賢者や聖人を得られなければ、いったい何によって国を治めることができるというのか。
十五に曰く、私を背きて公に向(ゆ)くは、これ臣の道なり。およそ人、私あるときはかならず恨(うら)みあり、憾(うら)みある時はかならず同(ととのお)らず。同(ととのお)らざるときは私をもって公を妨ぐ。憾み起こるときは制に違(たが)い、法を害(やぶ)る。ゆえに初めの章に云う、上下和諧(わかい)せよ、と。それまたこの情(こころ)か。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十五に言う。私情を離れて、公のために尽くすこと。これこそが臣下としての正しい道である。人は、自分の私的な思いにとらわれると、必ず恨みや不満が生まれる。恨みが生じれば、心は調和を失い、周囲と一致して働くことができなくなる。心が調和を失えば、私情によって公の務めを妨げるようになる。恨みや不満が高まれば、やがて規律に背き、法を破ることにもつながる。だからこそ、第一条で「上下が和らぎ、調和することが大切である」と説いたのである。この条文もまた、その精神を受け継いでいる。
十六に曰く、民を使うに時をもってするは、古の良き典(のり)なり。ゆえに、冬の月に間(いとま)あらば、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり。民を使うべからず。それ農(なりわい)せずば、何をか食らわん。桑(くわと)らずば何をか服(き)ん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十六に言う。民に労役を課すときは、季節をよく考えて行うこと。これは昔からの正しいやり方である。だから、冬のあいだで民に余裕がある時期には、公の仕事に従事させてもよい。しかし、春から秋にかけては、農業や養蚕にとって大切な季節である。この時期に民を徴用してはならない。農作業をしなければ、何を食べて生きていくのか。桑を育て養蚕をしないで、何を着て暮らすというのか。
十七に曰く、それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆ととともに論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論(あげつら)うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁(あいわきま)うるときは、辞(こと)すなわち理を得ん。『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛より抜粋
訳:第十七に言う。どんな事柄でも、一人で決めてはならない。必ず皆で相談して判断すべきである。小さな事柄なら軽いので、必ずしも大勢で議論する必要はない。しかし、大きな問題を扱うときには、一人で判断すると誤りが生じるおそれがある。だからこそ、多くの人と意見を交わし、互いに考えを照らし合わせて判断すれば、言葉(結論)は自然と道理にかなったものになる。
以上、冠位十二階制と憲法17条の全文を紹介した。
前述したとおり、冠位十二階制度と十七条憲法は密接不可分の関係にある。冠位十二階制度構築の目的は、国家を運営する官人は個人の能力と功績によって判断し、家柄や氏族による慣例制度は廃し、能力主義的な制度へと変革した。この冠位十二階制度の理念として、十七条憲法を施行した。これによって、国家運営の制度と理念を掲げ、新しい政治体制が動き出したのである。十七条憲法の各条文の内容を確認してみたい。
第一条は、「和を貴ぶ」ことを国家秩序の根本原理として掲げ、争いを避けて調停を重んじる姿勢を示した条文である。ここには、多元的な価値観を共存させ、氏族間の対立を抑制するという政治的意図が込められている。特に蘇我氏と物部氏の対立が国家の安定を脅かした歴史的背景を踏まえ、調和を国家統制の基軸に据えた点が重要である。この理念には、儒教の「和」の思想(礼による調和)と、僧団(サンガ)が一致と協力を保つ状態を指す仏教の「和合僧」思想が重層的に融合している。
第二条は、三宝(仏・法・僧)を敬うことを説き、仏教を国家の精神的支柱として位置づけた条文である。しかし、古来の神祇信仰(神道)を否定するのではなく、その上に仏教の考えを重ね合わせる形で共存を図っている点が特徴的である。これは後の神仏習合へとつながる二重構造の宗教的・政治的理念を示し、仏教の帰依思想と神道の共同体的基盤が調和的に統合(融合)されている。
第三条は、天皇への忠誠を求め、中央集権的国家秩序の頂点に天皇を位置づけた。これは、推古朝における聖徳太子と蘇我氏の協力体制の中で、有力氏族による恣意的支配を抑制するための政治的牽制としても機能した。思想的には儒教の君臣関係が明確に反映されている。
第四条は、官僚に対し礼儀の遵守を強く求めている。礼を失えば秩序が乱れ、罪を犯すことにつながるという警告である。儒教の「礼」思想(社会秩序の基盤)を政治倫理として採用した条文である。
第五条は、官吏は私情を捨て、国民に対して滅私奉公の姿勢持つべきだと説く。家柄や特権的支配から脱却し、能力主義的な政治運営を目指す理念が示されている。ここには、儒教の「義」「忠」「公」精神が色濃く反映されている。
第六条は、慈悲(仏教)、法治(法家)、仁愛(儒教)という三つの思想を融合し、徳治による政治の方向性を示した条文である。仏教思想の慈悲による救済、儒教思想の仁による統治、法家思想の法による秩序維持を総合し、調和のとれた政治理念を示している。
第七条は、万民の心のあり方に触れ、妬みや羨望を離れ、煩悩を制御して調和のとれた心を保つように諭す。これは、仏教の煩悩観と心の統御を政治倫理として取り入れた条文である。
第八条は、官吏の勤勉性を説く。冠位十二階制と密接に関連し、家柄や年功ではなく、能力と努力による昇進を目指す理念を示した。思想的には、儒教の「勤」「学」の精神が中心となっている。
第九条は、信頼関係が政治・社会の基礎であることを説く。特に君主と臣下が互いに信義を守ることで国家が成立するという考えを強調し、儒教の五常の一つ「信」を政治の根本に据えた条文である。
第十条は、怒りの心の制御を説き、寛容・忍耐・慎みが政治や社会秩序維持に不可欠であるとする。ここには仏教の心の統御(忍辱波羅蜜)が明確に反映されている。
第十一条は、賞罰の公平性を説く。功ある者を賞し、罪ある者を罰するという政治の要を示し、不公平が国の乱れを招くと警告している。これは、儒教の「義」思想と法家の賞罰論が融合した条文である。
第十二条は、公務に携わる者は私心・私欲を捨て、公正に努めるべきであると説く。人民の労役・税・財物を私欲で扱えば国は乱れるため、公私混同を厳しく戒めている。思想的には、儒教の「公」と、法家の「清廉性」が示されている。
第十三条は、官吏は公務を怠ってはならないと説く。怠慢は国家の混乱を招くため、勤勉と無私が不可欠である。ここには、儒教の修己治人(己を修めて人を治める)の思想が反映されている。
第十四条は、官人は嫉妬や憎悪の心を捨て、他者の才能や功績を妬んではならないと説く。妬みは争いの根源であり、国家の秩序を乱す原因となる。
第十五条は、私情を離れて公のために尽くすことが臣下としての道であると説く。私的感情に囚われれば憾みや不満が生じ、規律を乱し、法を守らなくなる。だからこそ官吏は、上下が日ごろから心を通わせ、調和を保つことが必要である。ここには儒教の「公私の区別」、仏教の煩悩からの離脱、法家の「法の前の平等」、神道の「和」など、多用な理念が重層的に組み合わされている。
第十六条は、農民を大切にし、賦役を課すときは季節を考慮すべきだと説く。国家の基盤を支えるのは農民であり、農業を妨げれば、食料も衣服も生産できず、社会は成り立たない。農産物を育てなければ何を食べて生きるのか、桑を育て養蚕を行わなければ何を着て暮らすのかという社会への根源的な問いが示されている。ここには、孟子の「民は国の本」、韓非子の「農政重視」、神道の「自然循環への畏敬」、仏教の「慈悲」による民生安定の思想が融合し、日本的な自然観に基づく政治思想が示されている。
第十七条は、重要な決定には必ず議論を行い、多くの者の意見を照らし合わせて判断すべきと説く。小事は一人で決めても良いが、大事を独断で決めれば誤りが生じる恐れがある。多くの者で議論をすれば、道理にかなう結論に至ることができると示唆している。この条文には、君主が独断専行してはならないという「徳治」「合議」の重要性を説き、後の儒教政治思想の根本となった『書経』の教え、「僧伽(サンガ)」の合議制、神道の「和」を基盤とした氏族合議の伝統などが重層的に反映され、日本的「合議制」の源流を象徴する条文として最後に配置された。
こうして冠位十二階制と十七条憲法の全文を見てきたが、現代の『日本国憲法』と比べれば、いずれも短文であり、一読すればすぐに目を通せるほどの分量に過ぎない。しかし、その内に秘められた思想の広がりは現代憲法と比べても決して劣らず、むしろ凝縮された理念の深さにおいては驚嘆すべきものがある。
『日本書紀』に聖徳太子の聡明さを記した箇所があるので紹介しよう。
「夏四月十日に、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ「聖徳太子」)を立てて皇太子とした。よって政務を摂らせ、国政を委ねた。(厩戸皇子は)橘豊日(たちばなのとよひ)天皇の第二子である。母の皇后を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と申し上げた。皇后は、皇子がお生れになる日に、宮中を巡行して諸司を監察なさっておられた。馬司にお着きになった時に、厩の戸に寄りかかってなんなく出産なさった。(皇子は)お生れになられてすぐものを言われた。聖の智恵をお持ちであった。成人なさって、一度に十人の訴えを聞かれて、間違えずに処理なさった。合わせて未来のことを予知なさった。また仏法を高麗の僧慧慈に習い、儒教の経典を博士覚哿に学びなさった。双方ともにすっかり奥義を極められた。父の天皇(用明天皇)は可愛がられて、宮の南の上殿に居らせなさった。そこで、その名を称えて上宮厩戸豊聡耳(かみつみやのうまやとのとよとみみ)太子と申し上げた。」『現代語訳 日本書紀 抄訳』抄訳:菅野雅雄
人口に膾炙した「一度に十人の訴えを聞かれて、間違えずに処理された」という聖徳太子の逸話が、ここに記されている。
さて、これまで日本宗教の多様性という概念を理解するために、聖徳太子の理念を示した冠位十二階制と十七条憲法を読み解いてきた。なぜなら、これらの制度と思想の中にこそ、古来の神道と外来宗教である仏教が敵対することなく融合し、政治理念として国家統制の源流を形成した、日本宗教の根底的構造が示されていると考えたからである。
日本神道は「創始者のいない宗教」とされ、仏教の釈迦、ユダヤ教のヤハウェ、キリスト教のイエス、イスラ-ムのムハンマド、儒教の孔子といった特定の創始者を持たない。山や川、太陽などの自然物や自然現象を神として祀る自然崇拝、そして世界のあらゆる存在に霊や生命が宿ると捉えるアニミズム的世界観を基層とし、弥生・古墳時代の首長を神聖化する王権祭祀が重層的に発展し、やがて天皇を中心とする国家祭祀体系へと統合されていった。こうした多層的な信仰と祭祀の積み重ねが、日本固有の宗教としての神道を形成し、後に神社制度や神祇官の整備を通じて体系化されて行ったのである。
さらに、日本神道には、仏教の経典やキリスト教の聖書のように、教義を体系的に文字で定めた絶対的な聖典は存在しない。『古事記』や『日本書紀』などの神話・歴史書はあるものの、これらは教義を規定するための経典ではなく、神道は本来、祭祀と慣習を中心に受け継がれてきた宗教である。言い換えれば、神道には経典が「無かった」のではなく、そもそも経典によって教義を体系化する必要がなかったと言うべきであろう。
さて、ここまで日本宗教の多様性を探るために、聖徳太子の宗教制度を源流とする思想的流れを追ってきた。太子の実行した仏教政策の本質とは、仏教を国家の統治理念として導入しつつ、在来の神道と対立させることなく、両者の共存と調和を図った点にある。
では、なぜ太子は国家運営の根本理念として、古来の神道ではなく、外来の仏教を中心に据えたのであろうか。
結論から言えば、太子が構想した「国家理念」は、神道の枠組みだけでは構築できなかったからである。神道は「祖先祭祀」「自然崇拝」「王権祭祀」などを基盤とする祭祀宗教であり、体系的な教義・倫理・法思想を持たないのが特徴である。そのため、国家をいかに治めるかという政治理念を提示する世界観を内包していなかった。神道は、天皇の神聖性、皇統の正当性、共同体の祭祀を支える宗教としては機能したが、政治倫理や官僚制度の原理・原則を提供する宗教ではなかったのである。
一方、仏教は国家統治の設計図を描くための思想的基盤を備えていた。仏教が内包する、慈悲、無常、因果応報、戒律といった倫理体系は、為政者のあるべき姿を明確に示し、徳によって国を治める「徳治」の理念を提供した。これらは、血統や氏族の枠を超えた普遍的な価値を持ち、太子が目指した「国家体系の理念」「統治の倫理」「官僚制度の精神的基盤」を支えるにふさわしい宗教であった。
太子は、この神道と仏教を対立させるのではなく、互いの不足を補い合うように重ね合わせた。ここに、日本宗教の多元的構造の原型が生まれたのである。
さらに、十七条憲法全文を見てきたとおり、太子は仏教の理念、神道の祭祀、儒教および法家思想の秩序観を組み合わせ、三層構造からなる日本宗教観の基礎を創造した。これは、後の神仏習合や日本的宗教観の受容性へと連なる、歴史的転換点であったと言えるだろう。
こうして太子は、神道と仏教を対立させることなく、むしろ両者を国家運営の理念として重ね合わせ、冠位十二階制と十七条憲法によって神道・仏教・儒教さらには法家思想の要素をも取り込みながら制度化した。そこには、異なる思想や宗教的世界観を排除せず、互いの役割を認めて調和させようとする姿勢が一貫して見られる。太子はまさに、この「異なるものを調和へと導く」精神によって、新しい日本的宗教精神の出発点を築いたのである。この重層的構造は、やがて神と仏を同一の存在として理解しようとする神仏習合の思想へと発展し、日本宗教に特有の、多様な信仰が共存しうる柔軟な宗教観として受け継がれていったのである。
以上見てきたように、日本宗教の多様性とは、聖徳太子が摂政として示した宗教観と政治理念が機能し、冠位十二階制と十七条憲法を通じて制度化されたことに源流を持つ。太子は、神道・仏教・儒教および法家思想という異なる思想や宗教的世界観を排除せず、互いの役割を認め、調和させる枠組みを築いた。筆者は、この「異質なものを組み合わせて共存させる」という姿勢こそが、多様性を生むという日本的宗教文化の根底にあると考えている。
余談ではあるが、こうした聖徳太子の仏教を中心とした制度改革によって国家運営は軌道に乗り、しばらくの間、安定した治世が続いた。
しかし、622年に太子が薨じ、628年に推古天皇が崩御すると、政治の均衡は急速に崩れ始める。ここから、蘇我氏の専横が顕著となった。太子が十七条憲法に託した思想的理念の深遠さを、政治的実権を握った蘇我馬子こそ、最も理解していなかったと言えるだろう。蘇我氏は権力の歯止めを失い、蘇我蝦夷・蘇我入鹿へと政権掌握が続く中で、国家は次第に彼らの私物と化していった。特に入鹿は皇位継承にまで介入し、反対勢力を武力によって排除するに至る。
643年には、太子の後継者としてその思想を継ぐと目されていた長男・山背大兄王を恐れ、これを迫害した。山背大兄王とその一族は斑鳩寺に追いつめられ、ついに自害へと追い込まれた。ここに太子の血統は絶たれたのである。
そして645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が挙兵し、大化の改新によって蘇我入鹿を討ち、蘇我氏は滅亡した。この政変を契機として、太子が構想した政治理念は再び息を吹き返し、日本国家の新たな方向性が模索されて行くことになる。
日本の宗教の多様性は、こうした流血の惨事をも歴史に刻み込み、さらに長い歳月を経ながら、今日の日本人の宗教観を形づくったのである。
聖徳太子幼少像/東京国立博物館蔵/著者撮影
聖徳太子幼少像/東京国立博物館蔵/著者撮影
| 出典: | 「Wikipedia」 |
| 『現代「神道」講座』著者:藤本頼生 | |
| 『日本の宗教 自然道がつくる神道・仏教』著者:田中英道 | |
| 『神道入門 民族伝承学から日本文化を読む』著者:新谷尚紀 | |
| 『日本人の神道 神・祭祀・神社の謎を解く』著者:島田裕己 | |
| 『教養としての世界宗教史』著者:島田裕己 | |
| 『ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道』著者:井沢元彦 | |
| 『日本がもっと好きになる神道と仏教の話』著者:竹田恒泰 | |
| 『仏教の歴史 いかにして世界宗教となったか』著者:ジャン=ノエル・ロベール、訳:今枝由郎 | |
| 『聖徳太子Ⅰ仏教の勝利』著者:梅原猛 | |
| 『聖徳太子Ⅱ憲法十七条』著者:梅原猛 | |
| 『聖徳太子Ⅲ東アジアの嵐の中で』著者:梅原猛 | |
| 『聖徳太Ⅳ理想家の孤独』著者:梅原猛 | |
| 『古事記』著者:梅原猛 | |
| 『現代語訳 日本書紀』著者:菅野雅雄 | |
| 『図解 世界5大宗教全史』著者:中村圭志 | |
| 『聖書、コーラン、仏典 原典から宗教の本質をさぐる』著者:中村圭志 | |
| 『逆説の日本史 2古代怨霊編/聖徳太子の称号の謎』著者:井沢元彦 | |
| 『聖徳太子:日本仏教の祖』著者:ひろさちや | |
| 『仏教散策』著者:中村元編著 | |
| 『仏教語源散策』著者:中村元編著 | |
| 『続仏教語源散策』著者:中村元編著 | |
| 『仏教語源散策』著者:中村元編著 | |
| 『仏教とは何か』著者:山折哲雄 | |
| 『日本人にとって聖なるものとは何か 神と自然の考古学』著者:上野誠 | |
| 『聖徳太子』著者:内藤湖南 | |
| 聖徳太子幼少像/東京国立博物館/著者撮影臓―1 | |
| 聖徳太子幼少像/東京国立博物館/著者撮影臓―2 |