『プトレマイオス一世』
第二章 アケメネス朝ペルシア崩壊
【エジプト征服】
紀元前332年、ティルス包囲戦に勝利し、地中海の制海権を掌握したアレクサンドロスが次に向かったのはエジプトであった。当時のエジプトはアケメネス朝ペルシアの第31王朝として支配され、サトラペス(総督)が統治する属州であった。アレクサンドロスは、地中海沿岸を制圧したのち、エジプトを支配下に置くことでペルシア帝国の西側を完全に孤立させようとした。そのため、エジプトの玄関口に位置する要衝ガザを攻略することが不可欠だと考えたのである。
ペルシア側もアレクサンドロスの意図を予測し、ガザを徹底抗戦の拠点として強化した。ガザは砂漠の端にある高台に築かれた天然の要害であり、シリアからエジプトへ向かう主要道路を押さえる戦略的地点であった。ここは、属州エジプトを守るために死守すべき最後の防衛線でもあった。その任務を託されたのは、ダレイオス三世の忠臣であるガザ守備隊長バティスであり、彼は食糧を備蓄し、長期包囲に備えて徹底抗戦の構えを見せた。
一方、アレクサンドロスはガザ攻略を遠征の要と位置づけ、包囲戦に踏み切った。直前のティルス包囲戦で使用した攻城兵器を改良し、高さを増した攻城塔、巨大破城槌、投石器などを投入して城壁の弱点を探り、集中攻撃を加えた。また、ガザを完全に包囲して補給線を断ち、西側の砂漠を除く北・南・東の三方から攻撃を加えることで、徹底した持久戦を展開した。三カ月に及ぶ包囲の末、城壁の一部を破壊して突破口を開き、激しい白兵戦の末にガザは陥落した。
司令官バティスは捕らえられたが、アレクサンドロスの前に引き出されても屈服の言葉を述べず沈黙を貫いた。これに激昂したアレクサンドロスは、ホメロス『イリアス』においてアキレスがトロイの英雄ヘクトールに行った刑罰を模倣し、バティスの足首に穴を開けて戦車に括りつけ、城壁の周囲を引きずり回すという苛烈な処刑を行った。これは、アレクサンドロスが幼少期から理想とした英雄アキレスへの強い同一化を示す象徴的な行為であった。
この戦いの最中、アレクサンドロス自身も攻城塔の近くで指揮を執っていた際、城壁上の射手が放った矢を受け、肩に深い傷を負った。矢は骨に食い込むほど深く、治療には切開を伴うほどの重傷であったが、彼は戦線を離れず指揮を続け、兵士たちの士気を大いに鼓舞したとされる。
紀元前332年、ガザ攻略に成功したアレクサンドロスは、シナイ半島を越えてエジプト東端の要衝ペルシウムに入った。ここは抵抗を受けることなく無血で占領された。ペルシウムはナイル・デルタの東端に位置し、古来「エジプトの東の関門」と呼ばれた軍事拠点であり、東方からの侵入を防ぐ国境防衛の要衝でもあった。
当時のエジプトはアケメネス朝ペルシアの属州として、第31王朝のもとにサトラペス(総督)が統治していた。サトラペスはペルシア王によって任命され、税の徴収・行政・治安維持など広範な権限を掌握していた。しかし、ペルシア支配は重税と圧政を伴い、エジプトでは反乱が繰り返されていたと伝えられる。住民の多くは、長年のペルシア支配からの解放を切望していた。
そのような状況の中で、アレクサンドロス率いるマケドニア軍の到来は、エジプト人にとってまさに「解放者」の出現と映った。総督マザケスは戦うことなく降伏し、アレクサンドロスは無血でエジプト全土の支配権を掌握することができた。
ペルシウムを出発したアレクサンドロスは、軍を率いてナイル川沿いに南下し、当時の首都メンフィスに入城した。ここで彼はエジプト人からファラオとして歓迎され、宗教儀礼を通じて正式に王として承認された。さらに彼は、ナイル・デルタ西岸の地中海沿岸に、自らの名を冠した新都「アレクサンドリア」の建設を命じた。この都市は後にヘレニズム世界の中心として繁栄し、アレクサンドロスのエジプト統治の象徴となった。
紀元前331年頃、アレクサンドロスは軍事行動とは異なる、命がけの砂漠行軍を敢行した。彼が砂漠を越えて目指したのは、エジプト西方砂漠の奥地、リビアとの国境地帯に位置する「アモン神の神託所(Oracle)」で知られるシーワ・オアシス(Siwa Oasis)であった。アモン神はギリシア人にとって、オリュンポスの主神ゼウスと同一視され、「ゼウス=アモン」と呼ばれていた。当時の地中海世界において、デルポイ、ドドナ、そしてこのシーワ・オアシスは、いずれも王や都市国家が重大な決断を下す際に訪れる、一流の神託所として名声を博していた。なかでもシーワは、砂漠の奥に孤立して存在するがゆえに、神秘性と権威を兼ね備えた特別な場所とみなされていた。
このアレクサンドロスのシーワ・オアシス訪問についてウォーシントンが記述している。少し長くなるが紹介しよう。
「シーワへの五百マイルの旅は危険なものだった。そしてプトレマイオスは一行が直面した困難を記録しているので、おそらく彼は、アレクサンドロスが自分の随伴者としてじきじきに選んだ者たちのひとりだったろう。彼らの道程はメンフィスから、ファロス島の対岸にあって狭い地峡で地中海につながる沿岸部のマレオティス湖へ通じていた。この地域はギリシア人の古い交易植民地ナウクラティスから四十マイルしか離れておらず、軍船が地中海へ近づくのも容易であることから、アレクサンドロスは交易と通商についての将来性を見込んだのだと言われる。それゆえ彼は都市を建設し、自分にちなんでアレクサンドリアと名づけた。のちにプトレマイオスがこれを彼の首都にした。アレクサンドロスとその一行は、マレオティス湖から(今日のエル・アラメインを通過して)西へ百八十マイル進み、沿岸の国境都市パライトニオン(現マルサ・マトルーフ)へ至り、そこから南へ、リビア砂漠の焼け付く暑さと過酷な条件を通り抜ける百五十マイルの行進が始まった。プトレマイオスは『大王伝』の中で、他の同時代の作家たちもそれぞれの著作で、ベドウィンがこの旅行に要する通常の日数ではなく一行が二週間を要したこと、砂嵐や突然の滝のような豪雨が道しるべと人の足跡を消してしまったため道に迷ったこと、そして飢えと渇きに耐えた末、頭上を飛ぶ数羽の鳥につき従ってついにオアシスにたどり着いたことなどを語っている。アリアノスはこの行進のいくつかの局面について、同時代の史料に食い違いがあることを記している。たとえば一行が道に迷った時、アリストブロスとカリステネスは、彼らが烏に導かれて安全な場所へたどりついたと述べるが、プトレマイオスは、「二匹の蛇が声を発しながら一行の前を進んだ。そしてアレクサンドロスは案内人に、神の前兆を信じて蛇についていくように命じた」と主張した。プトレマイオスはアレクサンドロスの訪問の目的を思い、アンモンの祭祀との関連をより強めるため、ゼウスにつながる蛇を利用しようと決心したのかもしれない。アレクサンドロスは託宣所の神官と聖室で面会し、それから随員たちの前に現れて良い知らせを告げた 自分はゼウスの子であり、フィリッポスは人間としての父親に過ぎない、と。何よりも プトレマイオスが、アレクサンドロスは「彼の望みに適うことを聞いた」と書いているため、神官が本当にこの託宣をアレクサンドロスに告げたのかどうかははっきりしない。治世のあいだに強まった神性に対する彼の主張は、部下たちには受け入れられないだろう。彼らの反応をプトレマイオスはじかに目撃した。彼が304年以降に、ロドス人のような他の者たちが彼のための祭祀を持つのは許したが、彼自身の王国では神性に対するいかなる見せかけも注意深く避けたのは、このためである。プトレマイオスによると、アレクサンドロスはニトリア砂漠を横切るよりまっすぐな道筋でメンフィスへ帰った。時は331年の4月または5月初めで、彼は一年近く過ごしたエジプトを発つ準備をした。この国を統治するため、その広さと多様性を考慮して、アレクサンドロスは二人のエジプト人を任命し〔ひとりは辞退した〕、ペルシオンとメンフィスの駐留軍〔総計で約4,000〕を管轄する指揮官たちをじきじきに選抜し、他方で全軍隊はペウケスタスとバラクロスの指揮下に置かれた。さらにナウクラティス出身でクレオメネスという名のギリシア人が、エジプト全土から税を徴収し、それらが確実に王に支払われるようにし、アレクサンドリアの建設を監督することとされた。クレオメネスはすぐさま自分の地位を活用し、325年にアレクサンドロスは彼をエジプトの本当の総督にした。エジプト統治におけるこの任務の分割は、実のところ抑制と均衡のシステムであり、プトレマイオスは323年ないし322年にこの国の支配権を得るとこれを受け継いだ。」(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
ウォーシントンの記述を長く引用したのは、彼がこのシーワ訪問の場面を通して、アレクサンドロスとプトレマイオスという二人の人物が持つ性格の違いを鮮やかに浮かび上がらせているからである。以下では、その内容をたどりながら、両者の性格的特徴と政治的姿勢を読み解いてみたい。
まず注目すべきは、史料の食い違いである。アリストブロスとカリステネスは、シーワへの道中で「烏が一行を導いた」と記す。一方、プトレマイオスは「声を発する二匹の蛇が先導した」と述べる。この相違は、プトレマイオスがアレクサンドロスの神聖性──とりわけアンモン=ゼウスとの結びつき──を強調するため、蛇という象徴的な存在を用いた可能性を示唆している。
次に、アレクサンドリア建設の背景である。アレクサンドロスはマレオティス湖周辺の地形を見て、交易の将来性を直感し、ここに新都市を建設することを決意した。後にプトレマイオスがこの都市を首都としたことは、アレクサンドロスの地政学的洞察がいかに鋭かったかを物語っている。
また、シーワの託宣においてアレクサンドロスは神官と密談し、「自分はゼウスの子であり、フィリッポスは人間の父にすぎない」と随員に告げた。しかしプトレマイオスの記述は慎重で、「望んでいた答えを聞いた」とだけ述べ、神官が実際にそのような言葉を発したかどうかは曖昧にしている。この点にも、プトレマイオスの冷静な観察者としての姿勢が表れている。
さらに、アレクサンドロスのエジプト統治は、複数の人物に権限を分散させる「抑制と均衡」の制度によって特徴づけられていた。行政、軍事、財政、都市建設などの任務が分割され、互いに牽制し合う仕組みが整えられていた。この制度は、後にプトレマイオスがエジプトを支配する際にもそのまま継承され、彼の統治の基盤となった。
そしてウォーシントンが最も重視するのが、プトレマイオスの「神聖性」に対する慎重な姿勢である。アレクサンドロスは自らの神性を積極的に主張し、東方世界の神王思想を受け入れた。しかしギリシア世界では「人間は人間、神は神」という伝統的観念が強く、彼の神格化は必ずしも歓迎されなかった。側近としてその反応を間近に見ていたプトレマイオスは、後年、自らの王国では神格化の演出を慎重に避けるようになる。他国が彼を祭ることは許したが、自ら神性を主張することはしなかったのである。
このように、シーワへの旅はアレクサンドロスにとって神性の確認の場であると同時に、プトレマイオスにとっては「王としてどう振る舞うべきか」を学ぶ重要な経験となった。彼はこの旅で得た観察と洞察を、後のエジプト統治において巧みに活かしている。
以上のように、ウォーシントンはシーワ訪問の場面を通して、アレクサンドロスとプトレマイオスの性格的差異を鮮やかに描き出している。しかし、この旅が持つ意味は、単に両者の姿勢の違いを示すだけにとどまらない。シーワでの出来事そのものが、アレクサンドロスの内面に潜む根源的な問いに答えを与え、彼がこれから歩む王権のあり方を決定づける重大な転換点となったのである。プトレマイオスが冷静に観察したのは、まさにこの「アレクサンドロスの内に長く燻っていた根源的な問いが、ついに内的変容へと転じた瞬間」であった。そしてこの体験は、彼自身の後年の統治理念にも深い影響を及ぼすことになった。
ここからは、アレクサンドロスがなぜシーワへ向かったのか、その神託が彼に何をもたらしたのか、そしてそれが東方世界における王権思想の形成にどのような影響を与えたのかを、より詳しく見ていきたい。
アレクサンドロスがこの危険な旅に踏み出した理由は、単なる宗教的儀礼ではなかった。彼には幼いころから抱き続けてきた、深い内面的な問いがあったのである。それは、母オリュンピアスが繰り返し示唆し、彼自身も心の奥で揺れ動いていた、「自分は本当にゼウス神の子なのか」「自らの王権は正統なのか」「自分の征服事業は神の意志に適っているのか」。アモン神の神託を受けることは、これらの根源的な問いに対する答えを得るための、唯一の道であった。
さらに、この旅には政治的な意義もあった。エジプトでは王(ファラオ)は神の子として統治する存在であり、アモン神の神託を受けることは、アレクサンドロスがエジプトの正統な支配者であることを宗教的に裏付ける行為でもあった。彼はこの神託を通じて、自らの王権を神聖化し、東方世界における支配の正統性を確固たるものにしようとしたのである。
アレクサンドロスがシーワで受けた神託については、アリアノス・クルティウス・プルタルコスなどの記述を総合すると、三つの核心があったとされる。
第一に、神官はアレクサンドロスに対し「アモンの子よ」と呼びかけた。ギリシア人にとってアモン神はゼウス=アモンと同一視されていたため、これは事実上「アレクサンドロスはゼウスの子である」と宣言したに等しい。
第二に、父フィリッポス二世の暗殺について、「父の死はすでに報われている」と告げたとされる。
第三に、自らの遠征が神意に適うものかという問いに対し、「汝の行く道は神の意志である」と神託が下されたと伝えられる。
これらの神託は、アレクサンドロスにとって長年の内的葛藤を解消する決定的な答えとなった。彼は「神の子」であり、神の子であるということは「王権の正統性を持つ者」であり、さらに「遠征は神意に適うものである」と認められたのである。
シーワでの神託後、アレクサンドロスは自らを「人間王アレクサンドロス」から「神王アレクサンドロス」へと転換させていく。王は神の子であるという思想は、ナイル文明圏(エジプト)、ペルシア帝国圏(アケメネス朝)、メソポタミア文明圏(バビロニア・アッシリア)、レバント地方(シリア・フェニキア)において深く信じられていた。東方の支配者として、これからの遠征事業を完成させるためには「神王アレクサンドロス」という存在は必要不可欠であった。
しかし、ギリシア世界の根底にある宗教観は「人間は人間、神はオリュンポスの神々」であり、「神王アレクサンドロス」という存在は受け入れがたいものであった。彼の部下の中には、この神格化を強く否定する者もいた。そのような緊張の中で起きたのが、カリステネスの反発と処刑事件である。
アレクサンドロスは公文書で「ゼウス・アモンの子」と称され、自らを神の子としてアモンの角をつけた貨幣を発行し、王の前での跪拝(プロスキュネーシス)を導入することで、神王アレクサンドロスの誕生を決定づけようとした。この行いに猛然と反対したのが、アレクサンドロスの甥であり従軍歴史家であったカリステネスである。彼はギリシアの価値観・理性・節度を体現する生粋のギリシア人であり、東方的な王礼は「神にのみ捧げる行為」であって、人間に対して行うことは許されないと主張した。
この反発に対し、アレクサンドロスは激怒した。間もなく護衛官パウサニアスがアレクサンドロス暗殺を企てたとして逮捕される。当時、マケドニア兵士の間ではアレクサンドロスの神格化に対する不満が高まっており、パウサニアスは拷問の末、「主導者はカリステネスである」と供述したとされる。しかし、この証言は拷問下でのものであり、カリステネスが主導した証拠は存在しない。そもそも彼は権力とは無縁の歴史家であり、政治的陰謀を操る立場にもなかったことから、政治的判断が働いた可能性が高い。こうしてカリステネスは反逆者として処刑され、アレクサンドロスの東方的王権思想とギリシア的自由精神の衝突が生んだ犠牲となったのである。
シーワからメンフィスに帰還したアレクサンドロスは、エジプトにおける行政体制の整備に着手した。エジプトの慣習である宗教行事や伝統的な神殿の保護を行い、治世においてはギリシア人とエジプト人双方を登用することで統治機構を整備した。彼の考えは、単なる征服者ではなく、新しい統治者としての姿勢を示すものであった。彼自身はシーワでの神託に基づき、アモン神の子=ファラオとして、エジプト人の支持を得るために正式な儀礼を行い、宗教的権威を確立した。
こうしてメンフィスにおいてファラオとしての儀式を滞りなく終えると、アレクサンドロスは軍を率いて北上し、フェニキア(シリア方面)へ向かった。彼の最終的な目標は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス三世との決戦に勝利することであった。アレクサンドロスは軍の再編、補給線の確保、同盟都市との調整など、決戦に向けた準備を万端に整え、ティグリス川上流域、アッシリア平野にある小村ガウガメラへ向けて進軍を開始した。
【ガウガメラの戦い】
紀元前331年10月、ダレイオス三世は帝国全土から兵を再び動員し、アッシリア地方、アルベラ近郊の小村ガウガメラ(「駱駝の家」の意)においてアレクサンドロスとの決戦に臨んだ。イッソスでの敗北を雪辱し、王としての名誉を回復するための、まさに帝国の総力を挙げた戦いであった。ダレイオスはこの平野を戦場に選ぶために地面を整地し、戦車が最大限に機能するよう準備を整えていた。これに対しアレクサンドロスは、斜行陣を基軸とした柔軟な戦術をもって決戦に臨むことになる。
まず両軍の布陣を見てみよう。
ペルシア軍は、中央にダレイオス三世の戦車と親衛隊(軽装歩兵)を配置し、その周辺にペルシア本国人・バビロニア人・メディア人・カルデア人・さらには東方諸民族の歩兵が取り囲むように配置された。これらは統一された装備の重装歩兵ではなく、多民族からなる混成軽装歩兵であった。中央最前列には刃のついた車輪を備えた鎌戦車が並び、後方に弓兵と歩兵が控えている。さらに象まで投入されていたことは、ダレイオスがこの決戦にどれほどの意気込みを持っていたかを物語っている。総兵数は古代史料によれば数十万とも伝えられるが、現代の研究では誇張とみなされている。
一方、マケドニア軍は中央に長槍サリッサを構えたファランクス(重装歩兵)を配置し、右翼にはアレクサンドロス自らが率いるコンパニオン騎兵、左翼には老将パルメニオン率が騎兵・歩兵を率いて布陣した。総兵数は4万七千とされている。マケドニア軍は兵数においては大きく劣るものの、統制と機動力ではマケドニア軍が圧倒していた。
戦いは、ペルシア軍前列の鎌戦車の突撃によって幕を開けた。
しかしマケドニア軍は全く動じなかった。ファランクスは左右に道を開け戦車を通過させ、軽装歩兵が側面や後方から戦車兵を討ち取った。ペルシア軍の第一撃は効果を発揮できずに終わった。
次に動いたのはアレクサンドロスであった。
彼は右翼のコンパニオン騎兵を率いて右前方へ斜めに進み、いわゆる斜線陣を形成した。この動きは敵の左翼を引き寄せるための「偽装の前進」であった。ペルシア軍左翼はこれを包囲の好機と誤解し、横へ広がりながら追いかけるように前進した。その結果、ペルシア中央と左翼の間に大きな空白地帯が生じたのである。
アレクサンドロスの罠にダレイオスが嵌まった瞬間であった。
アレクサンドロスは機を逃さず、馬首を左へ切り返してその空白地帯へ突入した。鋭い楔形陣形を組んだコンパニオン騎兵は、一直線にダレイオス三世の戦車へ向かって突撃した。王の周囲は混乱し、護衛兵は次々と倒された。
ダレイオス三世は恐怖に駆られ、戦車を捨てて逃走した。
王が戦場を離脱したことで、ペルシア軍の士気は一気に崩壊し、軍は総崩れとなったのである。
この間、ペルシア軍右翼の騎兵が激しく左翼パルメニオンを攻撃し、マケドニア軍左翼は危機に陥っていた。それに気づいたアレクサンドロスは、敗走する敵中軍への追撃を中断し、即座に左翼支援へと進路を転じた。この判断が効を奏し、パルメニオン率いる左翼の壊滅を防ぐとともに、マケドニア軍全体の勝利を確実なものとした。こうして帝国同士の浮沈をかけたガウガメラの戦いは、アレクサンドロスの完全勝利に終わった。
この戦いは、ギリシア辺境の国にすぎなかったマケドニアが、ピリッポス二世によってギリシア世界を統合し、その父の構想を受け継いだアレクサンドロスが、ギリシアの宿敵ペルシアを打ち破って東方世界の覇権を握るという、歴史的転換点を創り上げた瞬間でもあった。
ガウガメラの勝利後、アレクサンドロスは紀元前331年11月頃、バビロンを無血開城させた。これにより、アケメネス朝の富と行政機構、そして優秀な人材をそのまま手に入れることとなった。アレクサンドロスはこの古代都市を破壊することなく、神殿修復の約束や寛容な統治姿勢を示すことで現地の支持を獲得した。彼の戦略は、単なる「征服者」ではなく、新たな支配者として振る舞い、「正当な王」として認められることを目指すものであった。
紀元前331年末から紀元前330年初頭にかけて、スサにもほぼ無血で入城した。ここにもアケメネス朝の莫大な財宝が蓄えられており、アレクサンドロスの軍事行動は財政的に盤石となり、さらなる遠征を可能にした。
紀元前330年1月から3月にかけて、アレクサンドロスはペルセポリスへ進軍した。ペルセポリスは王朝の「儀礼的首都」としての象徴性を持つ都市であり、周辺のペルシス地方(現在のファールス州)は王家の故地であったため、住民も軍も「帝国の中心としての誇り」を強く抱いていた。ここでは、他都市とは異なり、ペルシア本国軍やサトラップ軍が徹底抗戦の姿勢を示したのである。
抵抗勢力の中心は、山岳戦に長けたサトラップ(総督)アリオバルザネスであった。彼はペルセポリスへの進軍を阻止するため、「ペルシス門」と呼ばれる狭隘な峡谷を防衛拠点とし、地形を最大限に生かした防衛戦を展開した。この地形は、かのスパルタ軍が奮戦したテルモピュライの地形に酷似しており、まさにペルシア軍による「テルモピュライの再現」であった。アレクサンドロスは当初、通常の正面突破を試みたが、峡谷上部からの投石・投槍・弓矢による攻撃で大きな損害を受けた。狭所のためマケドニア軍最強の騎兵は機動力を発揮できず、崖上からの攻撃にさらされ続け、遠征全体の中でも最大級の危機に陥ったのである。
しかし、突破口はまさにテルモピュライの「逆パターン」で開かれた。地元民の情報により、峡谷を迂回して背後に回り込む「間道」が存在することが判明したのである。アレクサンドロスは夜間に精鋭部隊を率いて山を登り、夜明けとともにペルシア軍の背後から急襲した。同時に正面からも攻撃を再開し、前後からの挟撃によってペルシア軍は壊滅した。この戦いにおいて、アリオバルザネスは最後まで徹底抗戦し、戦死を遂げた。彼の最期は、まさにテルモピュライで戦い抜いたスパルタ王レオニダス一世を想起させるものであった。
このペルシア門の戦いについて、ウォーシントンの「プトレマイオスとペルシア門の戦闘」において、プトレマイオスが果たした役割に触れているので紹介する。
「アレクサンドロスとその兵士たちは、岩だらけの道とひどい寒さのため、峠を越えて進むのにその夜の残りと翌日丸一昼夜かかったが、ついにアリオバルザネスの背後に現れた。ここでアレクサンドロスはラッパをけたたましく鳴らすように命じた。それはクラテロスが正面から、フィロータスが中間地点から、アレクサンドロスが背後から攻撃するようにという、示し合わせた合図だった。プトレマイオスは、逃げようとする敵を皆殺しにするため、峠の背後から少し離れた場所に陣取るように命じられた。」(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
ここでも、ウォーシントンが描き出すプトレマイオス像が明確に示されている。プトレマイオスは後年、自身の著した『大王伝』の中で、アレクサンドロスから三千の兵を率いて中間地点からペルシア軍を攻撃する任務を与えられたと記している。しかしウォーシントンは、この自伝をそのまま受け取ることには慎重である。アリアノスやクルティウスといった他の史料を比較すると、プトレマイオスが実際に担っていたのは、前線での主攻ではなく、敗走兵を掃討するための後陣での任務であったと考える方が妥当であると指摘している。
「プトレマイオスは『大王伝』で、中間地点からペルシア人を攻撃することになっていた三千の兵を率いたのは、フィロータスではなく自分だったと書いた。しかしアリアノスは、アレクサンドロスはプトレマイオスに、逃走者を皆殺しにするため峠の背後に待機するように命じたとしている。クルティウスの記述はアリアノスと一致するが、プトレマイオスの役割については何も述べていない。我々は、アレクサドロスがこれ以上にはいかなる指揮権もプトレマイオスには与えなかったと知っているので、アリオバルザネスへの攻撃においてこれほど重要な役割のため、数千人もの兵を彼に委ねたというのはありそうにない。さらに330年、アレクサンドロスがプトレマイオスをえりぬきの護衛官〔七人側近護衛官〕のひとりにした時、〔兵卒から〕昇進させたと言われており、このことは彼がそれまで指揮権を持たなかったことを示唆する。それゆえ、プトレマイオス自身は自分が明らかに地味な掃討作戦に抜擢されたとみなしたのだが、アレクサンドロスの目にはプトレマイオスが、この時は実際以上に、重要で信頼できる者だとうつった出来事だったのである。」(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
また、ウォーシントンは、アレクサンドロスがプトレマイオスに大規模な独立指揮権を与えたとは考えにくいと述べる。というのも、プトレマイオスが「七人側近護衛官(ソーマトファラクス)」の一人に抜擢されたのは紀元前330年であり、その際「兵卒から昇進した」と記されていることから、彼がそれ以前に大規模部隊を指揮した経験はなかったと推測されるためである。したがって、プトレマイオスが『大王伝』で自らの役割を誇張した可能性は否定できない。
しかし、ウォーシントンは同時に、掃討作戦の指揮が決して軽視されるべき任務ではなかったことも強調する。前線の指揮官と後陣の指揮官の間に優劣があるわけではなく、むしろアレクサンドロスがプトレマイオスを信頼し、重要な局面で任務を与えたこと自体が、彼の資質を高く評価していた証左であると述べている。事実、後にプトレマイオスは側近護衛官に抜擢され、アレクサンドロスの最も近い位置で仕えることになる。これらの点からも、アレクサンドロスが人材の素質を見抜き、適材適所の人事を行っていたことが理解できる。
紀元前330年春、こうして激戦の末ペルシス門を突破したアレクサンドロス軍は、抗戦不能となったペルセポリスを占領した。
アレクサンドロスは、この都市がアケメネス朝の象徴的中心であり、なおかつ唯一抵抗を示した地域であったことから、他都市とは異なる「征服者としての顔」をのぞかせた。
彼は王宮の財宝を接収し、さらに王宮を焼却し、住民の一部を奴隷化するという厳しい処置を取った。特に王宮焼却の意図については、古代史家の間で「復讐説」「酔中衝動説」「政治的示威行動説」など諸説があり、その真意は今なお特定できない。しかし、いずれの説も一定の説得力を持ち、複合的な要因が絡んでいた可能性が高い。
まず復讐説について触れておく必要がある。
歴史をさかのぼれば、紀元前480年のペルシア戦争において、クセルクセス一世はアテナイを占領し、アクロポリスの神殿を焼き払った。アレクサンドロスは東方遠征の大義名分として「ギリシアの仇討ち」を掲げており、ペルセポリス王宮の焼却は、ペルシア戦争以来の屈辱に対する象徴的な報復行為と解釈される。
次に政治的示威行動説である。
アケメネス朝は長年にわたりエーゲ海沿岸のギリシア諸都市に影響力を及ぼし、領土拡大を進めてきた。マケドニア王国は、ピリッポス二世の時代からペルシア征服を戦略目標としており、アレクサンドロスはその構想を継承していた。ペルセポリスはアケメネス朝王権の象徴であり、その王宮を焼却することは、帝国の終焉を内外に示す政治的パフォーマンスとして極めて効果的であった。
さらに、古代史家クルティウスやディオドロスが伝える「酔中衝動説」もある。
ペルセポリス占領後の祝宴の席で、アテナイ出身の高級娼婦タイスが“ギリシアの復讐”を提案し、酔ったアレクサンドロスがこれに同意して王宮焼却を命じたという逸話である。史実性には疑問が残るものの、当時の雰囲気を象徴する物語として後世に語り継がれている。いずれの説も断定はできないが、アレクサンドロスの行動には、復讐・政治的象徴性・感情的衝動の三要素が複雑に絡み合っていたと考えるのが妥当と思われる。
紀元前330年夏、アレクサンドロス軍はペルシア南部のパサルガダエに到達した。ここはキュロス大王の墓所がある「王朝の聖地」である。アレクサンドロスは墓所の破損個所を修復させ、供物を捧げたと伝えられている。この行動は、ペルセポリスでの「征服者」としての振る舞いとは対照的であり、アケメネス朝創始者への敬意を示すことで、自らを「継承者」として位置づけようとする政治的意図がうかがえる。
紀元前330年7月頃、アレクサンドロスはペルシア北部のエクバタナ(アケメネス朝の夏の都であり、政治的中心地)を出発し、逃亡を続けるダレイオス三世の追撃を開始した。エクバタナには王家の財宝の一部が保管されており、ここを押さえたことでアレクサンドロスは帝国の中枢を完全に掌握した。そして、最終的な戦後処理として生き残りの王ダレイオスを追う段階へとたどり着いたのである。
逃亡を続けるダレイオスは、「ガウガメラの戦いの後メディア地方に逃れ、エクバタナで冬を越して、紀元前330年初夏頃エクバタナを出て東のバクトリア地方へ向かったとされる。その移動中にテヘランの東方の山中でバクトリアの総督ベッソスに拘束された」と、『英雄伝』の注釈に記載がある。これによると、ベッソスはダレイオスを保護するどころか、王権の失墜を見て取ると、ついに彼を拘束し、戦車に縛り付けて逃走した。
東方に覇権を築いたアケメネス朝ペルシア帝国の王が、家臣サトラップに縛られ連れ回されるという屈辱を、誰が想像し得ただろうか。これはまさに、栄枯盛衰の極みを象徴する出来事であった。
一方、追撃するアレクサンドロスは、軽装の精鋭部隊を率いて驚異的な速度で進軍し、ダレイオスを拘束して逃走するベッソス軍に迫った。古代史家は、この時のアレクサンドロスの行軍速度を「遠征中もっとも苛烈」と評している。
追い詰められたベッソスは、アレクサンドロス軍の接近を知ると、拘束していたダレイオスを刺殺し、遺体を荒野に放置したまま逃走した。アレクサンドロスの先遣隊が刺殺されたダレイオスを発見したとき、彼はまだ微かに息があったと伝えられる。その場所は、バクトリアへ向かう途中の荒野、現在のイラン北東部に相当すると考えられている。 紀元前330年7月、アレクサンドロスが到着した時、ダレイオスはすでに事切れていた。ダレイオスの死に際の様子は、プルタルコスがその書で詳細に記しているので紹介しよう。
『アレクサンドロスとともに敵の一行に襲いかかったのはわずか60騎だったという。
騎兵たちはその場に大量の銀と金が放り出されているのを飛び越え、夫人と子供を乗せた多数の天蓋付き馬車が馭者に見捨てられて右往左往しているそばを走り抜け、ダレイオスがいるはずの先頭集団を追って疾駆した。しかしようやく見つけたダレイオスは、全身にいくつもの刃傷を受けて馬車の中に横たわり、今にも息絶えようとしていた。それでも水を所望し、ポリュストラトスが差し出した冷たい水を飲み終えると、『ありがとう。おまえのこの親切に報いてやれないのが、わが一生の最後の不運だ。だがおまえへの返礼は、いずれアレクサンドロスがしてくれよう。そして私の母と妻と子供たちを丁重に扱ってくれたアレクサンドロスへの返礼は、神々がしてくれよう。ここに差し出す右手を、あの男に伝えてくれ』と言うなり、ポリュストラトスの手を取り、そのまま事切れた」。』(プルタルコス『英雄伝』、城江良和訳)
帝国の王が部下に裏切られ、荒野に放置されて死んだという事実を前に、アレクサンドロスが何を感じ、何を思ったのか、史料は語らない。しかし、その衝撃の大きさは想像に難くない。アレクサンドロスは、ダレイオスの遺体を丁重に扱い、バビロンへ送り届けた。そこでアケメネス朝の王として正式な葬儀を行わせ、さらにダレイオスの家族(母・妻・子)を保護し、厚遇した。これらの行為は、アレクサンドロスがアケメネス朝の正統な後継者として振る舞うための政治的演出であり、同時に王としての威厳を示す象徴的行動でもあった。
さらにアレクサンドロスは、ダレイオスを刺殺したベッソスを「王殺し(レゴギドス)」として追討するよう命じた。
ベッソスは捕らえられ、ペルシア式の刑罰――鼻と耳を削ぐという、王権に対する反逆者への伝統的処罰――を受け、その後処刑された。
これは、アレクサンドロスが「王を殺す者は許さない」という王権の原理を自ら体現し、アケメネス朝の継承者としての立場を明確に示した行為であった。
しかし、紀元前329年、アケメネス朝ペルシアとの戦争が終結し、マケドニアの覇権が確立したとはいえ、アケメネス朝時代から統治が難しいとされていたソグディアナ(現在のウズベキスタン・タジキスタン周辺域)で反乱が勃発した。この地域は、天山山脈とザラフシャン川に挟まれた険しい山岳地帯であり、断崖の上に築かれた要塞が点在し、ゲリラ戦に適した天然の要害に守られていた。アレクサンドロスの戦術の中核である重装歩兵や騎兵は、この地形では機動力を発揮できず、戦いはきわめて困難を極めた。
反乱の首謀者スピタメネスは卓越した指揮官であり、正面戦を避け、奇襲・夜襲・補給線攻撃・山岳地帯を利用した迅速な撤退など、ゲリラ戦術を駆使してアレクサンドロス軍を翻弄した。特にマラカンダ周辺での戦闘では、アレクサンドロス軍の一部が壊滅的打撃を受けるなど、遠征中でも屈指の苦戦となった。
さらに、夏の酷暑と冬の酷寒という過酷な気候、補給線の断絶、長期遠征による兵士の疲弊が重なり、マケドニア軍は十分な戦力を発揮できなかった。加えて、ソグディアナの部族勢力は、アレクサンドロスに降伏したかと思えば再び反乱に加わるなど、「離散と集合」を繰り返し、戦線の安定化を妨げた。
こうした複雑な状況を分析したアレクサンドロスは、軍事力だけでは反乱を鎮圧できないと判断し、「軍事・政治・婚姻を組み合わせた三段階戦略」を実行した。
まず軍事面では、山岳要塞を一つずつ攻略し、逃走経路を断つために要塞都市を建設した。騎兵部隊を分散させ、ゲリラ戦に対応できる柔軟な戦術を採用した。特に有名な「スグダイアの岩城」攻略では、断崖絶壁を登攀させて奇襲するという大胆な作戦を成功させ、現地勢力に強い衝撃を与えた。
次に政治面では、現地部族との同盟を積極的に結び、降伏者には寛容な政策をとることで、反乱勢力の分断を図った。アレクサンドロスの寛容政策は、敵対勢力の一部を味方に引き入れる効果を持ち、スピタメネスの孤立化を加速させた。
最終的に、スピタメネスは味方の部族に裏切られ、殺害されたうえで、その首がアレクサンドロスのもとに届けられた。こうして長期にわたるソグディアナの反乱は終息し、中央アジアの支配はようやく安定へと向かったのである。
反乱終息を機に、紀元前327年、アレクサンドロスはソグディアナ統合の証として、現地有力貴族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚した。この結婚には、アレクサンドロスがロクサネの美貌と気品に心を動かされたという個人的側面と、ソグディアナ支配を安定させるための政治的配慮という二つの意味があった。
この時期、アレクサンドロスはペルシア服を愛用し、宮廷儀礼にペルシア式の要素を取り入れ、政治機構にもペルシア人を積極的に登用していた。こうした「東方化」は、アケメネス朝の後継者として帝国を統合するための政策であったが、マケドニアの将兵にとっては、自らの文化や伝統が軽視されているように映り、不満を募らせる要因となった。
ロクサネとの結婚は、現地統合の象徴として一定の効果をもたらしたものの、マケドニア兵の間では「王が異民族の娘を正妻に迎えた」という反発も生んだ。こうした不満は蓄積し、後に表面化するプロスキュネーシス(跪拝儀礼)問題、宮廷史家カリステネスの失脚事件、さらにはヒュパシス河での兵士の反乱へとつながっていくのである。
紀元前327年後半になると、アレクサンドロスはソグディアナ制圧の余韻に浸る間もなく、次の目標に向けて動き出した。彼は根っからの英雄的気質の持ち主であり、ギリシア本土、エジプト、そして中央アジアを制圧し、もはや敵なしといえる状況に達したことで、征服者としての達成感とともに、アケメネス朝の旧領を完全に復活させたいという強い欲望が芽生えたのである。
アレクサンドロスは、インド遠征に備えて軍の再編成を行い、補給線の整備を進め、さらにソグディアナ各地に要塞都市を建設して後方の安全を確保した。同時に、現地部族との同盟を強化し、中央アジア支配の基盤を固めていった。
ここで余談として、アレクサンドロスが建設した要塞都市について触れておきたい。
彼は生涯にわたり、自らの名を冠した都市を三十前後建設したとされるが、伝承では七十に及ぶとも言われている。
これらの都市は、軍事拠点としての役割だけでなく、ギリシア文化の普及、行政・商業の中心地としての機能、さらには退役兵の入植地としての役割を担うなど、多面的な目的をもって建設された。
その代表例が、ナイル・デルタ地帯の地中海沿岸に位置するエジプトのアレクサンドリアである。ここは後にプトレマイオス朝の首都となり、古代世界最大級の学術都市として繁栄した。
中央アジアでは、アフガニスタンの軍事拠点としてアレクサンドリア・アラコシア(現在のカンダハル)とアレクサンドリア・アレイオンが建設され、のちに重要な交易都市へと発展した。また、アフガニスタン西部のアレクサンドリア・アリアナ(現在のヘラート)は、中央アジアとイラン高原を結ぶ要衝として機能した。
さらに、アレクサンドロスが建設した都市の中で最も東に位置するのが、アレクサンドリア・エスカテである。「果てのアレクサンドリア」と呼ばれ、ソグディアナ支配の象徴であると同時に、インド遠征への前進基地として重要な役割を果たした。
これらの都市網は、アレクサンドロスの征服地を単なる軍事支配にとどめず、ギリシア文化と現地文化が融合するヘレニズム世界の基盤を形成するものでもあった。
紀元前327年、アレクサンドロスはソグディアナの反乱を鎮圧すると、バクトリアの境界地域から軍を率いてインド遠征へと出発した。彼は反乱終息の余韻に浸ることなく、すでに次の目標を見据えていたのである。
〈第三章 インド遠征と帰還〉に続く
アモン神殿跡/シーワ/エジプト
アモン神殿は、神託(Oracle)が行われたシーワ随一の聖域であり、王権の正統性を支える政治的権威の中心でもあった。
アモン神殿は、神託(Oracle)が行われたシーワ随一の聖域であり、王権の正統性を支える政治的権威の中心でもあった。
ウム・ウベイダ神殿Temple of Umm Ubayd)遺跡/シーワ/エジプト
ウム・ウベイダ神殿は、日常的な祭祀を担う場であり、アモン神殿を補完する役割を果たした関連神殿であった。
ウム・ウベイダ神殿は、日常的な祭祀を担う場であり、アモン神殿を補完する役割を果たした関連神殿であった。
アモン神殿・至聖所跡/シーワ/エジプト
アレクサンドロス大王が神官から神託を受けたと伝えられる場所である。
アレクサンドロス大王が神官から神託を受けたと伝えられる場所である。
| 出典: | |
| Wikipedia | |
| プルタルコス『英雄伝』、城江良和訳 | |
| プルタルコス『アレクサンドロス大王伝』、森谷公俊訳 | |
| イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳 | |
| クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』、谷栄一郎・上村健司訳 | |
| フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記上』、大牟田章訳 | |
| フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記下』、大牟田章訳 | |
| 本村凌二『地中海世界の歴史2』 | |
| 本村凌二『地中海世界の歴史4』 | |
| 本村凌二『地中海世界の歴史6』 | |
| 阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』 | |
| 鈴木薫『帝国の崩壊』 | |
| フラウィオス アッリアノス (著), 大牟田 章 (翻訳) |