『プトレマイオス一世』
第三章 インド遠征と帰還
【インド遠征】
軍はその後、冬のヒンドゥークシュ山脈へ向かったが、氷点下の山岳地帯では吹雪と強風にさらされ、酸素の希薄さや食糧不足が重なって多数の落伍者が出た。ソグディアナでの長期戦により疲弊していた兵士たちの不満はさらに高まり、士気は極端に低下していた。この時点で、指揮官が抱く戦略的目的と、兵士たちが感じていた遠征への思いには大きな乖離が生じていた。
アレクサンドロスは、アケメネス朝の旧領を完全に継承し、世界の果てへ到達するという英雄的野心に突き動かされていた。ソグディアナの反乱を鎮圧し背後の脅威を取り除いたことで、彼の中ではインド遠征は必然の次なる段階であり、兵士の疲労や不満を理由に遠征を中止するという選択肢はまったく存在しなかった。
こうして軍はヒンドゥークシュを越え、インド北西部(現在のパキスタン付近)へと侵入した。そこは中央アジアとインド世界を結ぶ交通の要衝であり、アレクサンドロス軍はまずコーフェン(カーブル)地方の制圧に着手することになる。
アレクサンドロスは、最初に制圧したこのコーフェン地方をインド遠征の第一補給地点と定めた。さらに、地形に精通したコーフェン地方の部族兵士を自軍に編入し、戦力の補強を図った。これによってマケドニア軍は、もともとの本国軍に加え、ペルシア、中央アジア、スキタイ、そしてインド北西部の部族兵を含む、多民族混成の“帝国軍”へと変貌していった。
アレクサンドロス率いるこの多国籍軍はインダス川を渡河し、パンジャーブ地方へと進軍した。そして紀元前326年、ヒュダスペス河畔の戦いが勃発する。
この戦いは、ヒュダスペス川(現在のジャラム川)を挟んでアレクサンドロスとインドのポロス王が激突した、アレクサンドロス遠征の中でも最も壮大で、後世に強い尊敬をもって語られる戦いである。
ヒュダスペス川は幅が広く、流れも速く、この時は雨季の増水によって渡河が極めて困難な状況にあった。ポロス王はこの地形的優位を最大限に利用し、象軍・騎兵・戦車を川岸に配置してアレクサンドロス軍の渡河を阻止しようとした。アレクサンドロスにとっては、いかに敵に気づかれずに渡河し、戦場に橋頭堡を築くかが最大の難題となった。
そこで彼は、偽装と陽動を組み合わせた巧妙な作戦を実行する。夜ごとに渡河するふりをして松明を大量に焚き、騎兵を走らせて土煙を上げ、太鼓を鳴らすなどして、ポロス軍を翻弄した。ポロスはそのたびに軍を動かし、川岸の警備を強化したため、兵士たちは次第に疲弊していった。
アレクサンドロスが本当に選んだ渡河地点は、主戦場からかなり上流に位置する、島が点在し、川幅が狭く、さらに森によって視界が遮られる場所であった。嵐の夜、雷鳴と豪雨の中、アレクサンドロスは自ら選抜した騎兵と軽装歩兵を率いて渡河を開始した。船は激流に流され、馬は暴れ、兵士たちは濡れた装備に苦しんだが、アレクサンドロスは先頭に立って対岸へ突入し、兵士たちの士気を奮い立たせた。
渡河に気づいたポロスは、王子を指揮官とする騎兵部隊を急派した。これに対しアレクサンドロスは、騎兵で側面を衝き、軽装歩兵が投槍で牽制し、さらに後方から弓騎兵が射撃するという立体的な戦術を展開した。ポロスの王子は戦死し、その騎兵部隊は壊滅した。こうしてアレクサンドロス率いる渡河部隊の第一撃は見事に成功し、本格的な決戦への道が開かれたのである。
戦いの第二段階は、ついに象軍との正面衝突へと移った。ポロス王が率いた戦象は約二百頭と伝えられる。アレクサンドロス軍はすでに、渡河直後にポロスの王子が率いた先遣部隊を撃破していたとはいえ、その時点で主力はまだ川の対岸にあり、彼の手元にあったのは選抜騎兵と軽装歩兵のみであった。正面から象軍と決戦すれば壊滅は避けられず、かといって放置すれば包囲されるのは明白だった。
そこでアレクサンドロスは、決戦を避けつつ時間を稼ぐという目的に戦術を切り替える。彼は騎兵を左右に大きく散開させ、突撃と撤退を繰り返すことで象軍の注意を引きつけ、隊列を乱した。特に象の突進を意図的に誘発し、巧みにかわすことで、象軍の動きを自軍の機動力で翻弄したのである。戦象は強大だが動きは鈍く、方向転換も苦手であったため、アレクサンドロスの高速騎兵を捕捉することはできなかった。むしろ象たちは混乱し、暴走して自軍の歩兵隊列を乱し始め、かえってポロス軍の前進を妨げる結果となった。その間に、アレクサンドロスの後続部隊であるファランクス(重装歩兵)、弓兵、投石兵、追加の騎兵が次々と渡河を完了し、戦場に到着した。ここからアレクサンドロスは、彼の得意とする包囲殲滅戦術を実行する。
彼は戦列を整え、正面に重装歩兵ファランクス、左翼にクレイトス率いる騎兵、右翼に自ら率いる騎兵、後方に弓兵と軽装歩兵を配置した。まずアレクサンドロス自身が右翼騎兵を率いてポロス軍左側面へ突撃し、象軍の横腹を突く形で歩兵隊を混乱させた。ポロス軍は側面支援のため兵力をそちらへ回さざるを得なくなる。
その隙を突き、左翼のクレイトスが大きく迂回してポロス軍の背後に回り込み、退路を断った。これによって包囲網は完成した。後方に控えたマケドニア弓兵は象使いを狙って射撃し、象の統制を奪った。象使いが倒れると象は暴れ出し、味方の隊列を踏み荒らして混乱はさらに拡大した。
四方からの攻撃にさらされたポロス軍は次第に崩壊し、兵士たちは逃げ惑い、象も制御不能となった。それでもポロス王は退却せず、象の上で負傷しながら最後まで戦い続けたと伝えられる。最終的に彼は捕らえられ、アレクサンドロスのもとへ連行された。
その時の様子をプルタルコスは次のように記している。
「捕虜となったポロスに、アレクサンドロスがどのような処遇を望むかと尋ねたところ、ポロスは『王にふさわしく』と答えた。さらに何か望みはないかと重ねて問われても、『王にふさわしく。それがすべてだ』と返した。アレクサンドロスはその言葉に深く感じ入り、ポロスがこれまで支配していた王国を総督(サトラペス)として統治することを許したばかりか、自らが新たに征服した周辺地域をも領土として加え与えた。その領域には十五の部族、五千を超える大きな都市、そして数えきれないほどの村々が含まれていたという。また、これよりさらに広大な領土の総督として、側近のひとりピリッポスを任命した。」(プルタルコス『英雄伝』、城江良和訳)
この問答には、両者の性格が鮮やかに表れている。誇り高く堂々としたポロスの態度、そしてそれを称賛し、敵であってもその勇気と品位を認めて遇するアレクサンドロスの度量の大きさ。若きマケドニア王が、生来のカリスマ性と英雄特有の包容力を備えていたことを示す逸話である。
さらに、ウォーシントンが開戦後の記述の中で、プトレマイオスに触れているので紹介しておこう。
「会戦後、アレクサンドロスは新しい都市を二つ建設した。ニカイア(会戦の戦場に、おそらくジャラルプール)とブーケファラ(ジェルム)で、後者は傷を負って死んだ彼の馬、ブーケファラスにちなんで名づけられた。さらに二種類の記念貨幣を鋳造した。そのひとつはデカドラクマ(10ドラクマ貨)で、表面にはブーケファラスに騎乗して象の上のインド人(おそらくポーロス)を攻撃する、アレクサンドロスと信じられている人物が描かれ、裏面では(勝利の)女神ニケが、王の飾り紐を頭に巻いて長槍と稲妻を握りしめるアレクサンドロスに冠を被せている。これらの貨幣の図像学は、ポーロスに対するアレクサンドロスの勝利を、象徴的にインドに対する勝利へと変えた。この種の政治的宣伝を、アレクサンドロスの後継者たち、とりわけプトレマイオスがそこから学び、彼らが自分の力で支配者となった時に利用した。」(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
しかし、ポロスとの戦いに勝利したにもかかわらず、マケドニア軍の兵士たちの士気はすでに限界に達していた。アレクサンドロスはさらに東へ進み、ガンジス川流域の大国ナンダ朝との決戦を構想していたが、兵士たちはその命令に頑強な抵抗を示した。
ヒュダスペス河畔の戦いの後、アレクサンドロス軍はインド北西部パンジャーブ地方を進軍し、紀元前326年、ヒュパシス河(現ベアス川)に到達した。ここでついに、全軍規模の東進拒否、すなわち事実上の反乱が起きたのである。
その理由は多岐にわたる。長年に及ぶ遠征による疲労の蓄積、ソグディアナでの反乱鎮圧やインドでの戦闘など、過酷な戦いの連続、熱帯性の気候や風土への不安、さらに東には象六千頭を擁するとも伝えられたナンダ朝という巨大国家が控えているという情報、これらが兵士たちの心身をむしばみ、厭戦気分はもはや抑えきれない段階に達していた。兵士たちはアレクサンドロスに対し、明確に東進拒否の意思を示し、帰還を要求した。これはアレクサンドロスの遠征史上、初めて兵士たちが大王の命令に公然と逆らった瞬間であった。
アレクサンドロスは説得を試みたが、兵士たちの決意は揺るがなかった。こうして彼はついに東進を断念し、ヒュパシス河を遠征の最東端として引き返すことを決めた。その後、軍はインダス川を南下して河口へ向かい、さらにマクラン砂漠を横断して西方へ帰還するという、苦難に満ちた道のりをたどることになったのである。
その後、軍は方向を南に転じたが、それは単なる撤退ではなく、インダス川流域を征服しながら進む「戦闘的後退」ともいうべき行軍であった。その過程で、マッロイ族・オクシュドラケス族との激戦があった。以下にウォーシントンの記述を引用する。
「アレクサンドロスはそれでも南の大洋(インド洋)を航海したいと思った。それゆえ軍は、クラテロスが大艦隊を建造していたヒュダスペス川へと戻った。十一月、賑やかな喧騒のただ中で艦隊は出航した。しかしインダス川とアケシネス川の合流点で、悪天候のせいで多くの船が難破、損傷した。船の修理期間を無駄にすることなく、アレクサンドロスは、低地パンジャーブ地方で、ヒュドラオテス川の両岸に位置するマッロイ(マラヴァス)人の領土を襲撃した。降伏の印を送って来ず、いかなる外交的接触もなかったことは、彼らを敵と見なすのに十分な根拠だと確信したのである。彼は自軍をいくつもの師団に分け、それぞれにひとりの指揮官を置いて、その地域の異なる箇所を攻撃させた。プトレマイオスは本陣に三日間とどまってから彼らのあとを追い、今回も生存者を残らず掃討するよう指示された。」(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
ウォーシントンが記すように、この作戦ではプトレマイオスは「後続部隊の司令官」として配置され、先陣が制圧した地域の掃討と治安確保を任されていたことが分かる。これは単なる追撃ではなく、敵の残存勢力を一掃し、背後の安全を確保するという極めて重要な任務であった。
プトレマイオスはアレクサンドロスの幼少期からの側近であり、遠征全体を通じて「殿(しんがり)」や「掃討」「治安維持」といった、派手さはないが軍の安全を左右する要所を任されていたと考えられる。アレクサンドロスが彼にこうした任務を与え続けたことは、プトレマイオスの冷静さ・判断力・忠誠心・実務能力を高く評価していた証である。
また、マッロイ族との戦いは、アレクサンドロス自身が城壁をよじ登り、最初に城内へ飛び降りたことで知られる戦闘であり、彼が胸を深く矢で射抜かれ、生死の境をさまよった最も危険な戦いでもあった。プトレマイオスが後続部隊を率いていたことは、王の無謀ともいえる突撃を支えるための周到な布陣であったともいえる。アレクサンドロスはしばしば「先頭に立つ王」であったが、その背後には、彼の突撃が孤立しないよう戦場全体を管理する将軍たちの働きがあった。プトレマイオスはその中心的存在であった。
このように、マッロイ族・オクシュドラケス族との戦いは、単なる局地戦ではなく、アレクサンドロス軍がインダス川流域を南下しながら支配を固めるうえで不可欠な作戦であった。その過程で、プトレマイオスは目立たぬ形で軍の安全を支える重要な役割を果たしていた。アレクサンドロスの英雄的行動が歴史に刻まれる一方で、その背後には、戦場の秩序を維持し、敵の残存勢力を掃討し、補給線を確保するという、帝国軍の生命線を担ったプトレマイオスの働きがあったのである。
アレクサンドロスは城壁攻撃の際、いつものように自ら梯子を上って最初に城内へ飛び降り、敵の士気を挫こうとした。しかし後続の兵が続かず、わずかな護衛兵のみが城内に取り残されるという危機的状況に陥った。乱戦の中でアレクサンドロスは胸を深く矢で射抜かれ、その傷は肺にまで達したとされる。大王の負傷を知った兵士たちは猛り狂い、城門を破壊し、城壁をよじ登って死闘を繰り広げ、ついにマケドニア軍は勝利した。重傷を負ったアレクサンドロスは軍医たちの必死の治療によって甦生したものの、これは彼の生涯で最も危険な負傷であった。
この戦いは、アレクサンドロスの英雄的性格がもたらした危機であると同時に、プトレマイオスをはじめとする将軍たちの組織的な働きが軍を救った戦いでもあった。アレクサンドロスの「先頭に立つ勇気」と、プトレマイオスの「背後を守る知略」。この二つが揃ってこそ、インダス南下作戦は成立していたのである。
さらにインダス川下流域では、大王国ムーサカノスとの対峙があった。この王国は豊かな農耕地帯と強固な要塞都市を有し、インダス下流域の有力勢力として繁栄していた。ムーサカノスはアレクサンドロス軍の接近を知ると、戦わずして使者を送り服属を申し出た。アレクサンドロスはこれを受け入れ、王位の保持、領土の安堵、貢納の実行を条件とした。これは彼の政治的寛容政策である、「無抵抗者には寛大に、抵抗者には徹底的に鉄拳を下す」に基づくものであった。
しかし、ムーサカノスはこの寛容政策を誤解した節がある。自らが許され、領土も安堵されたことで、アレクサンドロスは本気で支配する気がないのではないかと考えた可能性がある。だが実際には、貢納のほかにも軍事協力、都市の開放、マケドニア式行政制度の導入、そしてサトラペス(総督)による政治監視など、厳格な統治条件が含まれていた。
ムーサカノス王国はギリシア式の中央集権国家ではなく、複数の部族・都市・祭祀階級が複雑に絡み合う連合体であった。服属を表明したのはムーサカノス個人であっても、部族長や都市の有力者、祭司階級などの中には服属に反対する勢力も存在したと考えられる。さらに、インダス流域を征服し続けるマケドニア軍の圧倒的な軍事力を目の当たりにし、いずれ自国も完全に吸収されるのではないかという恐怖が生じたことも、反乱の一因となったと考えられる。
こうしてアレクサンドロスが南下を続ける中、ムーサカノスはついに反乱を起こした。融和策を提示した相手の裏切りに対し、アレクサンドロスは激怒し、マケドニア軍の精鋭将軍ペイトンに鎮圧を命じた。ペイトンは迅速にムーサカノスの領土へ向かい、急襲によって反乱を鎮圧した。ムーサカノスは捕らえられアレクサンドロスのもとへ連行され、服属を許されたにもかかわらず反逆したという大義名分のもと、処刑された。これはアレクサンドロスの「寛容と鉄拳」の政策を示す象徴的な処分であった。
ムーサカノスの処分後、アレクサンドロスは領土の再編を行い、忠誠を誓った王族を総督として任命し、マケドニア式行政を導入した。こうしてインダス川のほぼ全域に覇権を確立し、統治体制を固めたのである。
紀元前325年、アレクサンドロスはインダス川下流で大規模な造船作業を開始した。これは単なる艦隊建造ではなく、インダス川を下り、アラビア海(インド洋)へ出て、ペルシア湾を経由しバビロンへ至る「海の帰還路」を開拓するという壮大な構想に基づくものであった。陸路のゲドロシア砂漠横断が極めて危険であることを知りつつも、アレクサンドロスは「海路の探検」という別の挑戦を同時に進めようとしたのである。
ここで建造された艦隊は、幼少期から信頼する友であり、クレタ島出身の海軍司令官ネアルコスに託された。ネアルコスはインダス川河口からペルシア湾を航海し、未知の海域を通ってバビロンへ至るという前人未到の航海を命じられた。これはアレクサンドロスが構想した「世界の海の地図」を完成させるための試みであり、征服王としての野心だけでなく、地理的・科学的探究心をも示す計画であった。
同年、アレクサンドロス自身は主力軍を率いて陸路を進み、ゲドロシア(マクラン)砂漠の横断という、遠征史上最大の試練へと向かっていった。ゲドロシア砂漠(現マクラン地方)は、水源がほとんどなく、海岸沿いは断崖と岩山が連なり、補給がほぼ不可能な地帯である。インダス川河口からネアルコス艦隊が出航したのは季節風(モンスーン)の終わりに合わせた時期であり、アレクサンドロスの陸路行軍もこれとほぼ同時期に開始されたと考えられる。したがって、アレクサンドロスが軍を率いて砂漠横断に踏み出したのは、紀元前325年の夏の終わりから初秋(8〜9月頃)と推定される。
この季節のゲドロシア砂漠は、日中の気温が50℃を超える酷暑となり、わずかな水源も枯れ果てていた。兵士たちは渇きと熱に耐えられず、行軍の途上で次々と倒れていった。補給隊は砂漠で迷い、あるいは水不足で壊滅し、軍は完全に孤立した状態で進まざるを得なかった。
この砂漠横断について、プルタルコスは短いながらも、その悲惨さを鋭く描き出している。
「アレクサンドロス自身は陸路でオレイタイ人の領国を通り抜けることにしたのだが、そこで言語を絶する苦境に陥り、大量の兵士を失って、結局インドから連れて帰れたのは全兵力の四分の一にも満たなかった。それまでは歩兵十二万、騎兵一万五千に上る大軍勢だったのである。大量死の原因は、悪性の疾病、不健康な食事、焼けつくような熱気、そして何よりも飢餓であった。その辺りに住んでいるのは、農耕を知らず、わずかながらの見すぼらしい羊を飼って暮らす貧しい人々であり、しかもその羊の肉は、海の魚を餌にする習慣のために、まずくて悪臭芬々たる代物だったのである。しかしそんな地域を六十日かかってようやく通り抜け、ゲドロシア〔のブラ〕に到達すると、すぐに近辺の総督や領主たちが物資を提供してくれたおかげで、何ひとつ不足は無くなった。」(プルタルコス『英雄伝』、城江良和訳)
こうしてアレクサンドロス率いる陸軍は、紀元前325年末頃、約六十日に及ぶ酷暑と酷寒、そして飢餓の行軍を耐え抜き、兵員の四分の三を失うという壊滅的損害を受けながらも、ようやくゲドロシア地方の中心都市ブラ(現在のイラン南東部)に到達したのである。ブラでは周辺の総督や領主が物資を提供し、軍は久方ぶりに十分な補給と休息を得ることができた。
この長い行軍を終えた兵士たちは、行軍中のアレクサンドロスが決して兵士を見捨てず、同じ苦難を共に耐え抜く王の姿を目の当たりにし、彼に対する尊敬の念を取り戻した。
アレクサンドロスはブラに到着すると、軍に休息を与えるとともに、負傷者の治療、軍需物資・食料・水の調達を行い、さらに軍の再編成に着手した。
そして紀元前325年から324年初頭にかけて、軍はイラン南部のカルマニア(カルマニア州)へ向けて行軍を開始した。目的は、インダス川河口からほぼ同時期にペルシア湾へ向けて出航したネアルコス艦隊との合流を果たすことであった。
その頃、ネアルコス率いる艦隊は、途中で嵐や補給不足に苦しみ、予定より大幅に遅れていた。アレクサンドロスは海岸沿いを進みながら艦隊の消息を探り、ついにホルムズ海峡付近のオルミズドでネアルコスと再会を果たした。アレクサンドロスは、危険な航海を成し遂げたネアルコスの功績を称賛し、ネアルコスはその航海日誌を大王に提出したのである。
この航海は、単なる軍事行動ではなく、未知の海域を切り開き、世界の地理を実証的に把握しようとするアレクサンドロスの壮大な構想の一環であった。新たな航路の発見は、危険を伴うだけでなく、当時としては想像を絶する冒険心と探究精神に満ちた、まさに歴史的快挙であった。
次にアレクサンドロスはパサルガダイを経てペルセポリスへ向かった。この行程について、ウォーシントンは興味深い逸話を記している。
「アレクサンドロスはカルマニアからパサルガダイを経て(ここで彼はキュロス大王の墓をおとずれた)、ペルセポリスへと進んだ。ここでプトレマイオスがもう一度姿を見せる。インドでアレクサンドロスは、ブラフマン族のひとりでカラノスと名乗る者を説得し、自分の遠征に同行させていた。カラノスはパサルガダイで病気になり、ペルセポリスに到着するまでに、自分の最後が近いことを知った。自己の宗教的信条に従って、彼は焼身自殺による死を選び、アレクサンドロスに自分のための火葬堆を用意するように依頼した。アレクサンドロスはカラノスを大いに尊敬し、火葬堆を建てる任務をプトレマイオスに委ねた。用意が整うとカラノスは頂上に登り、その間ずっとラッパが鳴り、兵士たちは彼に喝采を送った。それから彼が静かに座ると火葬堆が点火され、炎が彼を包んで死に至らせた。アレクサンドロスは飲み比べを含む競技会と祭典でもってカラノスの死を称えたが、飲酒の度が過ぎたため、35人が飲み比べの最中に、6人がその後まもなく死んだ。」(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
ウォーシントンがカラノスの火葬の逸話をここに置いた理由は何を意味するのだろうか。カラノスは当時、インドのブラフマン哲学者として高い尊敬を受けていた人物であり、アレクサンドロスは彼を説得して遠征に同行させたほどであった。そのカラノスが、自らの死期を悟り、ブラフマンの宗教的信条に従って焼身による死を選んだという事実は、マケドニア人にとって理解しがたい異文化の儀礼であったに違いない。
アレクサンドロスは驚きとともに、宗教的信念のために死を選ぶカラノスの精神性に深い敬意を抱いたと考えられる。そして、この重要な儀式を誰に任せるかは、アレクサンドロスにとって極めて重大な判断であった。異文化の宗教儀礼を正しく執り行い、王の意向を損なうことなく儀式を成功させるには、信頼と実務能力の双方を兼ね備えた人物が必要である。
その任務を託されたのが、プトレマイオスであった。これは、彼が単なる将軍ではなく、アレクサンドロスの側近中の側近として、王の私的領域にまで関わる存在であったことを示している。ウォーシントンがこの逸話を記したのは、まさにプトレマイオスがアレクサンドロスの最も深い信頼を得ていた人物であることを読者に示すためであり、後にエジプトを統治する王としての資質を暗示する意図も含まれていると考えられる。
紀元前324年春、アレクサンドロスは軍を率い、かつてアケメネス朝の儀礼と政治の中心であったペルセポリスから、帝国行政の要衝スーサへと向かった。彼が選んだ帰還ルートは、ペルセポリスからスーサ、そして最終的に帝国の首都バビロンへ至るという、アケメネス朝の伝統に倣った「王の帰還ルート」であった。これは征服王としての旅路を締めくくり、統治者としての新たな段階へ移行する象徴的な道程でもあった。
アレクサンドロスは、インド遠征における兵士たちとの軋轢、そして想像を絶する困難を伴ったゲドロシア砂漠の横断を経て、ようやくスーサへ帰還した。ここから彼は、これまでの「征服」から「統治」へと軸足を移し、広大な帝国をいかに統合するかという課題に本格的に取り組むことになる。その手始めとして挙行されたのが、帝国統治政策の象徴として知られる「スーサの大結婚式」であった。
アレクサンドロス自身は、ダレイオス三世の娘ステイラ、さらにアルタクセルクセス二世の娘パルサティスと結婚し、アケメネス朝王家との血統的結びつきを強化した。また、プトレマイオスをはじめとする主要幕僚たちにもペルシア貴族の娘が与えられ、さらに約一万人に及ぶマケドニア兵にも現地女性との婚姻が命じられた。これは単なる祝祭ではなく、マケドニア人とペルシア人を血縁によって結びつけ、広大な帝国を安定的に統合するための婚姻政策であった。
スーサの宮殿で行われたこの集団婚礼は、アレクサンドロスが目指した多民族帝国の理想を象徴する出来事であり、征服王から世界帝国の統治者へと変貌しつつあった彼の政治思想を最も鮮やかに示す儀式であった。
さらにアレクサンドロスは、長期にわたり遠征に従事したマケドニア兵の一部に恩賞と帰郷を約束する、しかし、彼が目指す帝国の東方化政策へのペルシア人の起用は、軍部においてこれまでも、さらに現在も長く火種がくすぶり続けていた。
紀元前324年夏、アレクサンドロスは大結婚式を終え、スーサを出て北上しチグリス川沿いのオピスに到着した。長年従軍したマケドニア兵のくすぶり続けた火種はこのオピスで発火した。
アレクサンドロスが進める東方化政策、特にペルシア人の積極的登用、ペルシア式服装の強要、ペルシア式儀礼の敢行、ペルシア人近衛兵の育成などが、マケドニアの兵士たちに疎外感を生じさせたのである。さらに、ペルシア人女性との結婚を強要され、帰郷兵の選抜では「高齢の兵士・負傷兵」を帰国させることが発表されると、マケドニア人を追放して、ペルシア人に置き換えると受け取り、怒りが爆発した。長期遠征では命がけで戦い、勝利に貢献した彼らにとって、マケドニア色がペルシア色にとって変えられるのは許せない行為と捉えられた。これらの不満が積み重なった結果、反乱状態となった。
ウォーシントンの記述するくすぶり続けた軍の不満の爆発は、より明確に描けているのでそれを記そう。
「遠征軍はスーサからオビスへ向かい、324年夏に到着した。アレクサンドロスがアラビア侵攻を計画しており、それゆえギリシアへ帰るつもりがないことは、今では兵士たちにはあまりに明白だった。彼がすべての古参兵と負傷兵に、名誉ある除隊と資金を与えて帰国させるつもりだと告げると、くすぶり続けてきた軍の不満が思いがけず爆発した。彼らは再び騒擾をおこした。アラビア遠征に適さないと思われる者たちを除隊させるのは理に適っているから、この騒擾は意外である。しかし引き金になったのは、リュディア、リュキア、シリア、エジプトおよび北東部の総督領から、三万人の若者が最近到着したことだったとおもわれる。アレクサンドロスはこれらの地域を通過する際に、彼らをマケドニア式の武装で訓練するよう命じていた。アレクサンドロスはこれらの新参者を彼自身の兵士たちと取り換えるつもりであり、彼らをマケドニア密集歩兵の対抗勢力〔アンティタグマ〕として示すほどだった。だから除隊の通告は、自分の兵士に対する信頼の欠如だと受け取られたのである。アレクサンドロスは、最も声高に反抗した13人をただちに処刑したが、何の効果もなかった。彼は兵士たちに向かって長々と熱弁をふるい、自分の功業とほとんど同じくらい父親の功業を称えた。ここでも効果はなかった。軍は三日間彼に抵抗し、ついに彼は上級マケドニア人将校をペルシア人に置き換え始めると共に、歩兵ヘタイロイ、騎兵ヘタイロイというマケドニア式称号をペルシア人部隊に譲渡した。もう十分だった。兵士たちは降参した。アレクサンドロスは彼らを許し、その夜に和解の饗宴を催して、そこで彼らはすべての者たちの協調を祈った。彼の祈りは時おり理想主義的な動機を与えられ、彼は全人類の同胞たることを創出しようという願望の一部として諸民族の協調を祈ったのだとされてきた。しかしここでも彼の動機は現実主義的である。アラビア遠征の間、兵卒の中でいかなる不協和も望まなかったのだ。」(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
ここで筆者が思い出すのは、『史記・陳渉世家』に記されたあの言葉、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」である。中国・秦朝末期、陳渉が仲間とともに「戍卒(しゅそつ)」として辺境の警備に送られる途上で発した言葉として知られる。一農民の子が王になるなど荒唐無稽だと仲間に嘲笑された際、陳渉は、小さく羽ばたく燕や雀にどうして大空を悠然と飛ぶ雁や白鳥の志が理解できようかと返したのである。事実、彼は後に数十万の農民反乱軍を率いて蜂起し、「陳王」と称されるまでに至った。
この「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」という陳渉の言葉と同じように、アレクサンドロスが抱いた世界帝国の構想は、長年彼に従ってきたマケドニア兵でさえ理解し得ないほど大きなものであった。彼が目指したのは、単なる征服王としての栄光ではなく、民族と文化を超えて統合された新たな帝国の創造であり、その理念は当時の常識をはるかに超えていた。
ウォーシントンが「彼の動機は現実主義的である」と述べるように、アレクサンドロスは反乱を力で押さえつけるのではなく、アラビア遠征を控えた状況下で内部不和を排除し、兵士の忠誠を維持するために、あえて「帝国の理念」を優先したのである。そこには、彼が師アリストテレスから学んだ「王のあるべき姿」や「中庸の精神」といった哲学思想が深く息づいていた。理想と現実の双方を見据えながら、帝国統治のために最も合理的な選択を行うという姿勢こそ、アレクサンドロスの政治的成熟を示す証であった。
アレクサンドロスが、この時すでに「帝国の王」として完成しつつあったことを示すのが、ウォーシントンが記すマケドニア兵の「琴線に触れる」行動である。すなわち、彼は反乱が収まらないと見るや、上級マケドニア人将校をペルシア人に置き換え始め、さらに歩兵ヘタイロイ、騎兵ヘタイロイといったマケドニア固有の名誉称号をペルシア人部隊に譲渡したのである。これは、マケドニア兵にとっては自らの特権と誇りを根底から揺るがす衝撃的な措置であった。アレクサンドロスは、帝国の未来にとって必要とあれば、最も身近なマケドニア兵の感情すらも断ち切る覚悟を持っていたのである。
このとき、プトレマイオスをはじめとする側近中の側近たちは、動揺する兵士たちの間を奔走し、王の意図を密かに伝え、軍の分裂を最小限に抑える役割を果たしていた。アレクサンドロスが大胆な決断を下すことができた背景には、こうした忠実な幕僚たちの存在があったことも見逃せない。プトレマイオスは、王の理念を理解しつつも兵士たちの心情にも寄り添うという、微妙な均衡を保つ立場にあったのである。
この決断により、ついにマケドニア兵は降参し、アレクサンドロスのもとに許しを願い出た。アレクサンドロスは彼らを寛大に赦し、全軍を集めて和解の儀式を行った。その場で彼は、マケドニア兵とペルシア兵の「平等化」を正式に宣言し、反乱に加わった兵士や帰郷を望む兵士にも手厚い恩賞を与えたのである。こうして軍内部の不満を鎮めたアレクサンドロスは、ようやく帝国軍の再編と官僚制度の改革に本格的に着手することができた。
これは、征服王から統治者へと変貌したアレクサンドロスが、帝国の未来を見据えて進めた大規模な国家再編の第一歩であった。
〈第四章 王の死とディアドコイ戦争〉に続く
マルサ・マトルーフ海岸/マルサ・マトルーフ/エジプト/筆者撮影画像
エジプト制圧後、アレクサンドロスはメンフィスから地中海沿いを西に向かい、このマルサ・マトルーフから南下し、リビア国境近くのシーワ・オアシスに向かった。
エジプト制圧後、アレクサンドロスはメンフィスから地中海沿いを西に向かい、このマルサ・マトルーフから南下し、リビア国境近くのシーワ・オアシスに向かった。
砂漠の駱駝/リビア砂漠/エジプト/筆者撮影画像
アレクサンドロスは、わずかの側近とこの砂漠を越えてシーワ・オアシスに向かった。
アレクサンドロスは、わずかの側近とこの砂漠を越えてシーワ・オアシスに向かった。
砂漠の駱駝とベルベル人/リビア砂漠/エジプト/筆者撮影画像
砂漠の中でラクダを連れて移動するベルベル人。
砂漠の中でラクダを連れて移動するベルベル人。
| 出典: | |
| Wikipedia | |
| プルタルコス『英雄伝』、城江良和訳 | |
| プルタルコス『アレクサンドロス大王伝』、森谷公俊訳 | |
| イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳 | |
| クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』、谷栄一郎・上村健司訳 | |
| フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記上』、大牟田章訳 | |
| フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記下』、大牟田章訳 | |
| 本村凌二『地中海世界の歴史2』 | |
| 本村凌二『地中海世界の歴史4』 | |
| 本村凌二『地中海世界の歴史6』 | |
| 阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』 | |
| 鈴木薫『帝国の崩壊』 | |
| 著者撮影画像:マルサ・マトルーフ海岸、リビア砂漠1、リビア砂漠2 |