『革命家・アメンホテプ4世』
古代エジプトのファラオにして、世界初の革命家でもあった男。
それが古代エジプト第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世である。少年王ツタンカーメンの父であり、古代エジプト三大美女の一人とされるネフェルティティを妻とした。一般的に言えば、扱いにくい人物であり、別の意味では天才的な革命家でもあった。なぜなら、彼こそが世界で初めて大規模な宗教革命を断行したファラオだったからである。
彼が生きた新王国時代(紀元前1570年頃―紀元前1070年)の第18王朝は、古代エジプト史上もっとも繁栄した時期とされる。しかし、その背景を理解するには、一つ前の第二中間期(紀元前1782年頃―紀元前1570年頃)にさかのぼる必要がある。
古代エジプト第二中間期は、第13王朝から第17王朝まで続いた激動の時代である。
第13王朝時代(紀元前1803年頃―紀元前1649年頃)は、メンフィス(ナイル川中地域)近郊に首都を置き、エジプト全土を支配していた。平民出身の王が多く王権は弱かったが、官僚機構は機能し、国家は安定していたとされる。しかし王位継承が不安定で、中央政府の統制力が低下していく。その末期、ナイル・デルタ東部に流入したカナン系(シリア、ヨルダン、イスラエルなどで商業活動を行っていた)住民が支配層を形成し、エジプト社会に大きな影響を与えながら第14王朝が自立した。この第14王朝の成立によって、エジプトの統一は崩れ去ったのである。
第14王朝は、第13王朝末期と並存しながら勢力を拡大していったと考えられている。第14王朝(紀元前1805年頃―紀元前1649年頃)は、カナン系住民がナイル・デルタ東部のアヴァリスを拠点に築いた王朝である。トリノ王名表に記載された数名の王のうち、ネヘシ王(エジプト人高官の息子と考えられる)が知られている。彼の治世は紀元前1705年頃とされ、当時のデルタ地域では長期の飢饉や疫病が蔓延し、政治・経済が深刻な危機に陥っていたことがわかっている。アヴァリス周辺の遺跡に残る記録や地層の分析結果から、長期的な飢饉と疫病の痕跡が確認されている。これらの災害は、並立していた第13王朝にも大きな打撃を与え、王権の弱体化、政治情勢の不安定化を招いた可能性が高い。
これらの混乱期に、シリア、パレスチナ起源のセム系民族とされるヒクソス(Hyksos=「異国の支配者たち」)がエジプトに侵入した。彼らは馬と戦車を用いた戦術でデルタ東部地域を征服し、第14王朝を滅ぼして第15王朝(紀元前1663年頃―紀元前1555年頃)を樹立した。
第15王朝を樹立したヒクソスは、エジプトの支配体制に自らの文化や宗教を取り入れつつ、同時にエジプトの官僚組織を継承した。政権内部には多くのエジプト人官僚が関わり、実務を担っていたとされる。神殿や建築物にはヒクソスの技術が持ち込まれ、後のエジプトの建設にも大きな影響を与えた。また、アナト神やバール神などの信仰を持ち込み、新しい神々の崇拝がひろまった。こうした異文化との接触は、エジプト人に自国文化への再認識を促し、いわば「古代エジプトのルネサンス」とも呼べる意識の高まりをもたらしたのである。
この時代の遺跡からは、ヒッタイトとエジプト文化の融合を示す遺物も発見されている。例えば、渦巻き文様の土器、アヴァリスの遺跡からは、シリア・パレスチナ風の建築様式、さらにはロバを犠牲にする儀式の痕跡などである。これらはパレスチナ地方の宗教儀式が取り入れられていたことを示している。
第16王朝(紀元前17世紀頃―紀元前16世紀頃)は、第2中間期に成立した王朝である。その実態については二つの説がある。
一つは、ヒクソスの諸侯が寄り集まって支配した政権であるという説。
もう一つは、ヒクソスの侵攻から逃れた第13王朝の残存勢力がナイル川上流へ移動し、そこで成立したとする説である。
いずれの説においても、第16王朝は現在のカイロから650㎞南に位置するナイル川上流のテーベ(現在のルクソール)を本拠地とし、上エジプトの諸都市へ支配を広げた王朝と考えられている。
第16王朝の衰退についても、二つの説がある。
一つは、ヒクソス勢力によってテーベの政権が吸収され、王朝が滅亡したとする説。もう一つは、第17王朝の台頭によってテーベ政権が吸収され、その支配下に入ったとする説である。
第17王朝(紀元前1663年頃―紀元前1570年頃)は、ヒクソスが下エジプト(現在のカイロ南部から地中海沿岸のデルタ地帯)を支配していた第15王朝の時代に、上エジプト(現在のカイロ南部からアスワン周辺まで)のテーベを中心に成立した政権である。
第17王朝は、ヒクソス第15王朝に臣従しつつ並存していたが、ファラオ・セケンエンラー2世(紀元前1591年頃―紀元前1574年頃)がヒクソスに反旗を翻した。しかし彼はその戦いにおいて戦死したことがわかっている。1881年、ルクソール西岸の遺跡Deir el-Bahri(北の修道院)で発見された彼のミイラには、頭蓋骨に複数の致命的な傷跡があり、研究によれば、彼が戦場で捕えられ処刑された可能性が指摘されている。
セケンエンラー2世の後を継いだのは、彼の兄弟または息子とされる第17王朝最後のファラオ・カーメス(在位:紀元前1573年頃―紀元前1570年頃)である。カーメスはナイル川を北上してヒクソスの首都であるアヴァリスを攻撃し、大きな打撃を与えたものの、陥落させるには至らなかった。しかし彼はヌビア遠征に成功し、その地を属国化している。
カーメスの死後、セケンエンラー2世の息子イアフメス1世(在位:紀元前1570年―紀元前1546年)がヒクソスとの戦いを継続し、ついにヒクソスの支配をエジプトから完全に排除して再統一を果たした。これが第18王朝の幕開けであり、イアフメス1世がその初代ファラオとなった。
第18王朝(紀元前1570年頃―紀元前1293年頃)は、古代エジプト史上もっとも重要で、かつ繁栄した王朝である。
その特徴をいくつか挙げてみたい。
先ず、第13王朝以来、カナン系やヒクソス系の外来勢力がエジプトを支配してきたことが、逆にエジプト人の文化・宗教への帰属意識を強める結果となった点である。これが、いわばエジプト「レコンキスタ(国土回復運動)」とも呼べる方向性へ舵をきる契機となり、エジプトは強力な国家として再び復活した。
建築面では、第18王朝には多くの大規模な建築物が造営された。中王国時代のセンウセルト1世に始まる、カルナック神殿の建設は、第18王朝でも継続され、二代目アメンホテプ1世は拡張計画を開始し、聖舟祠堂や門を建設した。第4代トトメス1世は第4・第5塔門の建設や、中王国時代の神殿を囲む泥煉瓦の周壁の修復・強化を行った。第五代女王ハトシェプストは、第4塔門と第5塔門の間に高さ30m・重さ323トンの巨大オベリスクを建立した。このオベリスクには、自分の称号、父トトメス1世、そしてアメン=ラー神に捧げる銘文が刻まれている。さらにトトメス3世は、カルナック神殿に「アク・メヌ(Akh-menu)=記念建造物のうち最も壮麗なもの」という意味を持つ祝祭殿を増築し、神殿の複合体の重要な一部とした。
ルクソール神殿においても、第18王朝のファラオたちは建設に力を注いだ。アメンホテプ3世(在位:紀元前1390年―紀元前1352年頃)が中心部分を建設したが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)の時代に工事は中断された。その後、ツタンカーメン(在位:紀元前1336年―紀元前1327年頃)が建設を再開し、最後は第18王朝最後のファラオ・ホルエムへブ(在位:紀元前1323年―紀元前1295年頃)が引き継いだ。なお、ツタンカーメンはルクソール神殿の大列柱廊(コロネード)も建設している。
アメンホテプ4世は、このような第18王朝の建築事業の象徴ともいえるルクソール神殿の建設を中断したファラオであり、この一点だけでも歴代ファラオとは異質の存在であったことがわかる。アメンホテプ4世(紀元前1362年頃―紀元前1333年頃)は、新王国時代第18王朝のファラオである。在位は、紀元前1353年頃から紀元前1336年頃。父はアメンホテプ3世、母親はティイ、そして正妃はネフルティティである。
彼の治世を象徴するのは、何と言ってもエジプトの伝統的な多神教を覆し、唯一神アテンを崇拝する宗教改革である。そのため、自らの名をアメンホテプ4世(「アメン神は満足している」)からアクエンアテン(「アテン神に有益な者」)へと改めた。アメン神はテーベの守護神として長く崇拝されてきたが、アクエンアテンはそのアメン神から離れ、太陽神アテンを唯一神として選択し、自身の名を変えることでその決意を示した。この改革は「アマルナ改革」と呼ばれる。
アメンホテプ4世が父アメンホテプ3世から王位を継いだ紀元前1353年頃、首都テーベではアメン神官団がカルナック神殿を中心に強大な宗教的・政治的・経済的な権力を握っていた。彼らは歴代王から金銀宝石、家畜、土地などの寄進を受け、神の宣託を司る宗教儀式を取り仕切り、その豊富な財力は王をも凌ぐほどであった。
アメン神官団が誇示していた過剰な権力に対する対立は、決してアメンホテプ4世が初めて始めたわけではなく、すでに父アメンホテプ3世の治世から顕在化していた。アメンホテプ4世はファラオに即位すると、父の意思を継ぎ、アメン神官団の権力を削ぐための宗教改革を断行することを、自らの悲願として掲げたのである。
まず彼は、自身の名を「アメンホテプ(=アメン神は満足している)」から「アクエンアテン(=アテン神に有益な者)」に改めた。これは、自らの名から「アメン」を排し、「アテン」を冠することで、アメン神を中心とした伝統的な多神教国家から、太陽神アテンを唯一神とする新たな宗教体制へと転換する強い意思を示したのである。
さらにその意思を確固たるものにするため、彼は従来の首都テーベを離れ、アケトアテン(現在のミニヤー県アマルナ、テーベから北へ約400㎞)に遷都した。
加えてアクエンアテンは、エジプト全土の神殿や墓に刻まれていたアメン神の名や図像を削り取らせ、可能な限りアメン神像や彫像を破壊させるという、従来の王権では考えられない大胆な措置を取った。これは、王が守るべき神への冒涜とも受け取られかねない行為であり、事実上の反乱ともいえる措置であった。そして最終的にはアメン神官団そのものを解体し、彼らの職務を廃止することで、宗教・政治の両面からその影響力を完全に排除したのである。
アクエンアテンの宗教改革は、芸術の領域にも大きな変革をもたらしている。後世「アマルナ美術」と呼ばれる独自の美術様式である。その内容については、次の書が詳しく伝えているので紹介したい。
「アメンホテプ四世は、即位三年を記念してセド祭を行うことにした。この祭りは普通ファラオ即位三十年後に行い、その後は数年おきに行われるのが普通だ。だからセド祭を行なわずに死んだファラオはいくらもいる。それを三年で行うというのはいかにも早い。これは彼がこのセド祭を契機に国家宗教のアメンを離れ、アトンに移ることを決意したためだったらしい。その動機の一つがアメン神官団の力に対抗するため、との想像は許されよう。アメンホテプ四世はセド祭りの準備期間中、芸術の新機軸を打ち出し、宮廷芸術家を集めてその旨を徹底した。これまでのスポーツマン的姿の比較的画一な理想的ファラオ像は中止され、ありのままに描くことになった。しかし初期には行き過ぎもあり、これまでの伝統から離れられない者もありで、統一を達するにはさらに数年を要する。とはいえ、高い頬骨、厚い唇、尖って長い顎、狭い肩、やせた胸、出た腹と尻というアメンホテプ四世の姿の方向は決定された。」『古代エジプト 失われた世界の解読』著者:笈川博一
セド祭とは、古代エジプトのファラオが在位中に行う王位更新の儀式であり、即位30年目に始めて執り行い、その後は3年ごとに繰り返すのが原則とされていた。ただし、この原則が厳密に守られたわけではない。アクエンアテンが即位後わずか3年でセド祭りを行った理由は、笈川氏が述べるように、宗教改革を行うという強い決意の表明であった。また、それは自身の統治の正当性と安定性を示す政治的宣言でもあり、信仰と統治は密接不可分であるという彼の強い信念を示す行為でもあったのである。
アクエンアテンはさらに、アテン神を唯一神とする宗教改革を行い、アテン神を讃える「アテン賛歌」を自ら記した。
あなたは美しい、地平線のアテンよ。
生けるすべてのものに命を与える者よ。
あなたが昇ると、すべての国々は光に包まれる。
あなたの光は、すべての心を喜ばせる。
この詩は、アテン神が万物に命に力を与える存在であることを強調し、その偉大さを広く伝えようとしたのである。
アクエンアテンが新都アケトアテンの建設を思い立ったのは治世5年目頃とされる。建設は急速に進められ、治世9年目頃にはほぼ完成した。実際には完成前から首都機能が移されていたようだ。ナイル川東岸に沿って約13㎞に及ぶ広大な都市で、王宮、行政機関、住居、そしてアテン大神殿・小神殿などの宗教施設が整備され、緻密な計画のもとに建設が奨められたことがうかがえる。アケトアテンの宮殿や神殿には、アテン神を讃える彫刻や壁画が施され、それらは従来のエジプト美術とは異なり、より自然で写実的な表現が特徴とされる。アクエンアテンやその家族の肖像画も、より人間らしい姿で描かれている。
遷都後、アクエンアテンはアテン神崇拝のための大規模な宗教儀式を頻繁に行った。従来、神と人との仲介を担っていたアメン神官団の役割を、アクエンアテンとネフェルティティが直接担うようになり、儀式には妻ネフェルティティはもちろん子どもたちも参加した。アケトアテンでの彼の生活は、宗教改革の延長としてアテン神への崇拝と儀式に没頭するものであったが、その一方で政治や外交、特に国防への関心は薄かった。そのため、従属国からの軍事支援要請には応じず、黄金や物資を送ることで済ませた結果、アルム国をはじめとする諸国が離反し、エジプトの勢力圏は縮小していった。
ここで、正妃ネフェルティティについても触れておきたい。
ネフェルティティの出自には確かな記録がなく、紀元前14世紀中頃の生まれとされる。大神官アイの娘とする説、ミタンニ王女タドゥキパの別名とする説などがある。結婚の経緯も明確ではないが、アケトアテン遷都後はアクエンアテンとともに統治に関わり、二人の間には6人の娘が生まれたとされる。ネフェルティティは宗教改革を進めるアクエンアテンの理解者であり、常に彼を支える存在であったと考えられる。しかし、ネフェルティティの記録はアクエンアテン治世12年目を境に突然途絶える。理由については諸説あるが、確実な資料は残されていない。
一説では、ネフェルティティは突然亡くなり、アクエンアテンは深い悲しみから彼女の記録をすべて封印したとされる。
また別の説では、何らかの理由でアクエンアテンの寵愛を失い、そのために歴史から抹消されたとされる。
さらに有力な説として、彼女は「アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテン」という名でアクエンアテンの共同統治者となり、その名が登場する時期がネフェルティティの記録消失と重なることから、同一人物とみなす研究者も多い。この点について触れた記事を次に紹介したい。
「アクエンアテンの治世第12年以後、アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンというという共同統治王がアクエンアテンと並んで描かれるようになる。現在では、大方の歴史学者がこの共同統治王はネフェルティティその人であると見ている。」『ナショナル ジオグラフィック 別冊』【日経BPムック】
天才(多分)ファラオは、古代エジプト史に宗教改革という特異な足跡を残し、紀元前1336年頃に崩御したとされる。
生前、彼は父アメンホテプ3世がアテン神への強い崇拝心を持っていたことを知っていた。しかし、父がアテン神を唯一神として掲げることは、当時の多神教社会において神官団と民衆の支持を失い、政治の安定を損なうと考えていたことを理解していたはずである。
それにもかかわらず、息子であるアクエンアテンはあえてその道を選んだ。妻ネフェルティティや家族とともに新都での生活すべてをアテン神信仰に捧げ、儀式に没頭した。その結果、彼は死後、自らの息子から手ひどい仕打ちを受けることになる。この点については後述したい。
ここで、アクエンアテンが強い信念をもって独断的ともいえる宗教改革を行ったことを、どのように評価すべきかを検討してみたい。
まず、アクエンアテン自身は自らの改革をどのように捉えていたのだろうか。
彼は、父が果たせなかったアテン神崇拝を独自路線で唯一神として確立し、強大な神官団の権力を奪い、その組織を解体した。宗教儀式の執行権や寄進による財源も断ち切り、さらにテーベを離れてアケトアテンへ遷都することで、自らの理想を実現しようとした。美貌の妻(エジプト三大美人の一人)を迎え、数人の娘にも恵まれ、宗教生活に没頭する日々は、彼にとって充実したものであったに違いない。エジプト最大の権力を手にし、日常生活も満ち足りていた。
では、第三者の視点から見た彼の評価はどうであろうか。
アクエンアテンの宗教改革がもたらした社会への影響を、貢献と弊害の両面から考えてみたい。
まず社会への貢献である。彼が行った宗教改革には、宗教・政治・芸術という複数の領域にまたがる理念が含まれていた。
宗教改革としては、従来の多神教信仰を唯一神アテンへと集約し、エジプト人の宗教観そのものを根本から変革した点が挙げられる。これは、その是非を超えて、社会構造に大きな変化をもたらしたと考えられる。
政治改革としては、治世5年目頃から周到に準備し、テーベからアケトアテンへの遷都を断行したことが挙げられる。これは国家の枠組みを大きく揺るがし、新しい政権の中央集権化象徴する出来事であった。
芸術改革としては、アクエンアテンの治世に独自の美術様式が開花した点が挙げられる。前述した笈川氏が述べるように、セド祭りの準備期間中に芸術の新機軸を打ち出し、宮廷芸術家にさせた結果、後に「アマルナ芸術」と呼ばれる新たな美術分野が確立された。
では、社会的な弊害はどこにあったのであろうか。先ず考えられるのは、宗教的迫害、経済基盤への負担、そして政治的混乱が挙げられるだろう。
宗教的迫害の影響は、当時の社会にとって想像以上に大きなものであったと推測される。古代エジプトでは、神への信仰が人々の精神的支柱であった。テーベの守護神アメンへの崇拝を禁止し、アメン神官団を解体し、アテン神への信仰を事実上強制したことは、多くの人々にとって神と映った可能性が高い。
また、経済的影響としては、新都アケトアテンの建設に要した莫大な費用が国家財政を圧迫したことが挙げられる。
『ナショナル ジオグラフィック エジプトの女王 別冊』(日経BPムック)には次のような記述がある。
「太陽であり王でもあったアクエンアテンは、持続可能な支出と建築を行っていた。それ以前の第18王朝の王たちは、戦争や金鉱などからの収入により君主としての真価を証明したが、アクエンアテンは太陽信仰を広めるために財源には無頓着だった。エジプトは破産状態に陥っていた。」
この記述が示すように、アクエンアテンは強い信念のもと宗教改革を断行したが、その結果、国家財政は破綻に近い状況へと追い込まれた。
政治面においても、彼の宗教改革を支えたのは、おそらく彼の方針に忠実な官僚と身内に近い側近たちであったと考えられる。当時の権力構造は大きく変化し、その影響が円滑に機能するはずもなかった。国王自身は日々の宗教儀式と神殿参拝に力を注ぎ、本来の統治という務めを軽視した国家に、発展が望めるはずがなかった。
以上、アクエンアテンの個人的評価と社会的評価を簡潔に分析したが、その結論は、彼の死後の歴史の流れがそれを雄弁に物語っている。
アクエンアテンの子であるファラオ・ツタンカーメンが父をどう評価したかは、「復古の碑(Stele of Restoration)」と呼ばれる碑文に明確に示されている。この碑文はもとはカルナック神殿に設置され、現在はエジプト考古学博物館(または大エジプト博物館)に収蔵されている。碑文にはアクエンアテンの宗教改革によって多くの神殿が荒廃したこと、アテン神のみを崇拝する政策をやめ、アメン神をはじめとする伝統的な神々への信仰を復活させたこと、神殿の再建と供物の復活、そしてアクエンアテン以前の文化を取り戻すことで社会が安定したことが刻まれている。つまり、父の治世を全面的に否定した内容となっている。
ツタンカーメンが父の政策を否定した理由は、前述の社会的弊害への対応として当然の判断であったと考えられる。そして、その判断を後押しした勢力が存在したことも否定できない。ツタンカーメンが即位したのは紀元前1334年頃、アクエンアテンの崩御は紀元前1336年頃とされ、同年には次のファラオ・スメンクカーラー(即位名:アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテン)が即位している。
もしスメンクカーラーがネフェルティティであったとすれば、彼女の治世約2年間はアクエンアテンの意思を継ぎ、アテン信仰が維持されたことになる。しかしスメンクカーラーの死後、幼いツタンカーメンが9歳で即位すると、これまで影を潜めていたアメン神官団の影響力が一気に復活し、国家は再び多神教へと戻っていった。アメン神官団や官僚たちは、アメンホテプ3世時代の体制を取り戻すべく、積極的に活動を再開したに違いない。
さて、ここまでアメンホテプ4世の生涯を追ってきたが、彼は一体何者だったのだろうか。
歴史を動かす人物というのは、その事業が成功するか否かにかかわらず、強力なリーダーシップと決断力持っているものである。アメンホテプ4世(アクエンアテン)も、まさにその一人といえるだろう。
私はアメンホテプ4世の宗教改革を考えるとき、古代ローマのカエサルを思い起こす。元老院との対立が深まり、ローマへ戻るか否かの決断を迫られたカエサルは、軍を率いて超えることが禁じられていたルビコン川を渡る際、「賽は投げられた」と言い放った。アメンホテプ4世もまた、父が越えなかった川を渡り、従来の慣習に敢然と挑戦したのである。
それが古代エジプト第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世である。少年王ツタンカーメンの父であり、古代エジプト三大美女の一人とされるネフェルティティを妻とした。一般的に言えば、扱いにくい人物であり、別の意味では天才的な革命家でもあった。なぜなら、彼こそが世界で初めて大規模な宗教革命を断行したファラオだったからである。
彼が生きた新王国時代(紀元前1570年頃―紀元前1070年)の第18王朝は、古代エジプト史上もっとも繁栄した時期とされる。しかし、その背景を理解するには、一つ前の第二中間期(紀元前1782年頃―紀元前1570年頃)にさかのぼる必要がある。
古代エジプト第二中間期は、第13王朝から第17王朝まで続いた激動の時代である。
第13王朝時代(紀元前1803年頃―紀元前1649年頃)は、メンフィス(ナイル川中地域)近郊に首都を置き、エジプト全土を支配していた。平民出身の王が多く王権は弱かったが、官僚機構は機能し、国家は安定していたとされる。しかし王位継承が不安定で、中央政府の統制力が低下していく。その末期、ナイル・デルタ東部に流入したカナン系(シリア、ヨルダン、イスラエルなどで商業活動を行っていた)住民が支配層を形成し、エジプト社会に大きな影響を与えながら第14王朝が自立した。この第14王朝の成立によって、エジプトの統一は崩れ去ったのである。
第14王朝は、第13王朝末期と並存しながら勢力を拡大していったと考えられている。第14王朝(紀元前1805年頃―紀元前1649年頃)は、カナン系住民がナイル・デルタ東部のアヴァリスを拠点に築いた王朝である。トリノ王名表に記載された数名の王のうち、ネヘシ王(エジプト人高官の息子と考えられる)が知られている。彼の治世は紀元前1705年頃とされ、当時のデルタ地域では長期の飢饉や疫病が蔓延し、政治・経済が深刻な危機に陥っていたことがわかっている。アヴァリス周辺の遺跡に残る記録や地層の分析結果から、長期的な飢饉と疫病の痕跡が確認されている。これらの災害は、並立していた第13王朝にも大きな打撃を与え、王権の弱体化、政治情勢の不安定化を招いた可能性が高い。
これらの混乱期に、シリア、パレスチナ起源のセム系民族とされるヒクソス(Hyksos=「異国の支配者たち」)がエジプトに侵入した。彼らは馬と戦車を用いた戦術でデルタ東部地域を征服し、第14王朝を滅ぼして第15王朝(紀元前1663年頃―紀元前1555年頃)を樹立した。
第15王朝を樹立したヒクソスは、エジプトの支配体制に自らの文化や宗教を取り入れつつ、同時にエジプトの官僚組織を継承した。政権内部には多くのエジプト人官僚が関わり、実務を担っていたとされる。神殿や建築物にはヒクソスの技術が持ち込まれ、後のエジプトの建設にも大きな影響を与えた。また、アナト神やバール神などの信仰を持ち込み、新しい神々の崇拝がひろまった。こうした異文化との接触は、エジプト人に自国文化への再認識を促し、いわば「古代エジプトのルネサンス」とも呼べる意識の高まりをもたらしたのである。
この時代の遺跡からは、ヒッタイトとエジプト文化の融合を示す遺物も発見されている。例えば、渦巻き文様の土器、アヴァリスの遺跡からは、シリア・パレスチナ風の建築様式、さらにはロバを犠牲にする儀式の痕跡などである。これらはパレスチナ地方の宗教儀式が取り入れられていたことを示している。
第16王朝(紀元前17世紀頃―紀元前16世紀頃)は、第2中間期に成立した王朝である。その実態については二つの説がある。
一つは、ヒクソスの諸侯が寄り集まって支配した政権であるという説。
もう一つは、ヒクソスの侵攻から逃れた第13王朝の残存勢力がナイル川上流へ移動し、そこで成立したとする説である。
いずれの説においても、第16王朝は現在のカイロから650㎞南に位置するナイル川上流のテーベ(現在のルクソール)を本拠地とし、上エジプトの諸都市へ支配を広げた王朝と考えられている。
第16王朝の衰退についても、二つの説がある。
一つは、ヒクソス勢力によってテーベの政権が吸収され、王朝が滅亡したとする説。もう一つは、第17王朝の台頭によってテーベ政権が吸収され、その支配下に入ったとする説である。
第17王朝(紀元前1663年頃―紀元前1570年頃)は、ヒクソスが下エジプト(現在のカイロ南部から地中海沿岸のデルタ地帯)を支配していた第15王朝の時代に、上エジプト(現在のカイロ南部からアスワン周辺まで)のテーベを中心に成立した政権である。
第17王朝は、ヒクソス第15王朝に臣従しつつ並存していたが、ファラオ・セケンエンラー2世(紀元前1591年頃―紀元前1574年頃)がヒクソスに反旗を翻した。しかし彼はその戦いにおいて戦死したことがわかっている。1881年、ルクソール西岸の遺跡Deir el-Bahri(北の修道院)で発見された彼のミイラには、頭蓋骨に複数の致命的な傷跡があり、研究によれば、彼が戦場で捕えられ処刑された可能性が指摘されている。
セケンエンラー2世の後を継いだのは、彼の兄弟または息子とされる第17王朝最後のファラオ・カーメス(在位:紀元前1573年頃―紀元前1570年頃)である。カーメスはナイル川を北上してヒクソスの首都であるアヴァリスを攻撃し、大きな打撃を与えたものの、陥落させるには至らなかった。しかし彼はヌビア遠征に成功し、その地を属国化している。
カーメスの死後、セケンエンラー2世の息子イアフメス1世(在位:紀元前1570年―紀元前1546年)がヒクソスとの戦いを継続し、ついにヒクソスの支配をエジプトから完全に排除して再統一を果たした。これが第18王朝の幕開けであり、イアフメス1世がその初代ファラオとなった。
第18王朝(紀元前1570年頃―紀元前1293年頃)は、古代エジプト史上もっとも重要で、かつ繁栄した王朝である。
その特徴をいくつか挙げてみたい。
先ず、第13王朝以来、カナン系やヒクソス系の外来勢力がエジプトを支配してきたことが、逆にエジプト人の文化・宗教への帰属意識を強める結果となった点である。これが、いわばエジプト「レコンキスタ(国土回復運動)」とも呼べる方向性へ舵をきる契機となり、エジプトは強力な国家として再び復活した。
建築面では、第18王朝には多くの大規模な建築物が造営された。中王国時代のセンウセルト1世に始まる、カルナック神殿の建設は、第18王朝でも継続され、二代目アメンホテプ1世は拡張計画を開始し、聖舟祠堂や門を建設した。第4代トトメス1世は第4・第5塔門の建設や、中王国時代の神殿を囲む泥煉瓦の周壁の修復・強化を行った。第五代女王ハトシェプストは、第4塔門と第5塔門の間に高さ30m・重さ323トンの巨大オベリスクを建立した。このオベリスクには、自分の称号、父トトメス1世、そしてアメン=ラー神に捧げる銘文が刻まれている。さらにトトメス3世は、カルナック神殿に「アク・メヌ(Akh-menu)=記念建造物のうち最も壮麗なもの」という意味を持つ祝祭殿を増築し、神殿の複合体の重要な一部とした。
ルクソール神殿においても、第18王朝のファラオたちは建設に力を注いだ。アメンホテプ3世(在位:紀元前1390年―紀元前1352年頃)が中心部分を建設したが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)の時代に工事は中断された。その後、ツタンカーメン(在位:紀元前1336年―紀元前1327年頃)が建設を再開し、最後は第18王朝最後のファラオ・ホルエムへブ(在位:紀元前1323年―紀元前1295年頃)が引き継いだ。なお、ツタンカーメンはルクソール神殿の大列柱廊(コロネード)も建設している。
アメンホテプ4世は、このような第18王朝の建築事業の象徴ともいえるルクソール神殿の建設を中断したファラオであり、この一点だけでも歴代ファラオとは異質の存在であったことがわかる。アメンホテプ4世(紀元前1362年頃―紀元前1333年頃)は、新王国時代第18王朝のファラオである。在位は、紀元前1353年頃から紀元前1336年頃。父はアメンホテプ3世、母親はティイ、そして正妃はネフルティティである。
彼の治世を象徴するのは、何と言ってもエジプトの伝統的な多神教を覆し、唯一神アテンを崇拝する宗教改革である。そのため、自らの名をアメンホテプ4世(「アメン神は満足している」)からアクエンアテン(「アテン神に有益な者」)へと改めた。アメン神はテーベの守護神として長く崇拝されてきたが、アクエンアテンはそのアメン神から離れ、太陽神アテンを唯一神として選択し、自身の名を変えることでその決意を示した。この改革は「アマルナ改革」と呼ばれる。
アメンホテプ4世が父アメンホテプ3世から王位を継いだ紀元前1353年頃、首都テーベではアメン神官団がカルナック神殿を中心に強大な宗教的・政治的・経済的な権力を握っていた。彼らは歴代王から金銀宝石、家畜、土地などの寄進を受け、神の宣託を司る宗教儀式を取り仕切り、その豊富な財力は王をも凌ぐほどであった。
アメン神官団が誇示していた過剰な権力に対する対立は、決してアメンホテプ4世が初めて始めたわけではなく、すでに父アメンホテプ3世の治世から顕在化していた。アメンホテプ4世はファラオに即位すると、父の意思を継ぎ、アメン神官団の権力を削ぐための宗教改革を断行することを、自らの悲願として掲げたのである。
まず彼は、自身の名を「アメンホテプ(=アメン神は満足している)」から「アクエンアテン(=アテン神に有益な者)」に改めた。これは、自らの名から「アメン」を排し、「アテン」を冠することで、アメン神を中心とした伝統的な多神教国家から、太陽神アテンを唯一神とする新たな宗教体制へと転換する強い意思を示したのである。
さらにその意思を確固たるものにするため、彼は従来の首都テーベを離れ、アケトアテン(現在のミニヤー県アマルナ、テーベから北へ約400㎞)に遷都した。
加えてアクエンアテンは、エジプト全土の神殿や墓に刻まれていたアメン神の名や図像を削り取らせ、可能な限りアメン神像や彫像を破壊させるという、従来の王権では考えられない大胆な措置を取った。これは、王が守るべき神への冒涜とも受け取られかねない行為であり、事実上の反乱ともいえる措置であった。そして最終的にはアメン神官団そのものを解体し、彼らの職務を廃止することで、宗教・政治の両面からその影響力を完全に排除したのである。
アクエンアテンの宗教改革は、芸術の領域にも大きな変革をもたらしている。後世「アマルナ美術」と呼ばれる独自の美術様式である。その内容については、次の書が詳しく伝えているので紹介したい。
「アメンホテプ四世は、即位三年を記念してセド祭を行うことにした。この祭りは普通ファラオ即位三十年後に行い、その後は数年おきに行われるのが普通だ。だからセド祭を行なわずに死んだファラオはいくらもいる。それを三年で行うというのはいかにも早い。これは彼がこのセド祭を契機に国家宗教のアメンを離れ、アトンに移ることを決意したためだったらしい。その動機の一つがアメン神官団の力に対抗するため、との想像は許されよう。アメンホテプ四世はセド祭りの準備期間中、芸術の新機軸を打ち出し、宮廷芸術家を集めてその旨を徹底した。これまでのスポーツマン的姿の比較的画一な理想的ファラオ像は中止され、ありのままに描くことになった。しかし初期には行き過ぎもあり、これまでの伝統から離れられない者もありで、統一を達するにはさらに数年を要する。とはいえ、高い頬骨、厚い唇、尖って長い顎、狭い肩、やせた胸、出た腹と尻というアメンホテプ四世の姿の方向は決定された。」『古代エジプト 失われた世界の解読』著者:笈川博一
セド祭とは、古代エジプトのファラオが在位中に行う王位更新の儀式であり、即位30年目に始めて執り行い、その後は3年ごとに繰り返すのが原則とされていた。ただし、この原則が厳密に守られたわけではない。アクエンアテンが即位後わずか3年でセド祭りを行った理由は、笈川氏が述べるように、宗教改革を行うという強い決意の表明であった。また、それは自身の統治の正当性と安定性を示す政治的宣言でもあり、信仰と統治は密接不可分であるという彼の強い信念を示す行為でもあったのである。
アクエンアテンはさらに、アテン神を唯一神とする宗教改革を行い、アテン神を讃える「アテン賛歌」を自ら記した。
あなたは美しい、地平線のアテンよ。
生けるすべてのものに命を与える者よ。
あなたが昇ると、すべての国々は光に包まれる。
あなたの光は、すべての心を喜ばせる。
この詩は、アテン神が万物に命に力を与える存在であることを強調し、その偉大さを広く伝えようとしたのである。
アクエンアテンが新都アケトアテンの建設を思い立ったのは治世5年目頃とされる。建設は急速に進められ、治世9年目頃にはほぼ完成した。実際には完成前から首都機能が移されていたようだ。ナイル川東岸に沿って約13㎞に及ぶ広大な都市で、王宮、行政機関、住居、そしてアテン大神殿・小神殿などの宗教施設が整備され、緻密な計画のもとに建設が奨められたことがうかがえる。アケトアテンの宮殿や神殿には、アテン神を讃える彫刻や壁画が施され、それらは従来のエジプト美術とは異なり、より自然で写実的な表現が特徴とされる。アクエンアテンやその家族の肖像画も、より人間らしい姿で描かれている。
遷都後、アクエンアテンはアテン神崇拝のための大規模な宗教儀式を頻繁に行った。従来、神と人との仲介を担っていたアメン神官団の役割を、アクエンアテンとネフェルティティが直接担うようになり、儀式には妻ネフェルティティはもちろん子どもたちも参加した。アケトアテンでの彼の生活は、宗教改革の延長としてアテン神への崇拝と儀式に没頭するものであったが、その一方で政治や外交、特に国防への関心は薄かった。そのため、従属国からの軍事支援要請には応じず、黄金や物資を送ることで済ませた結果、アルム国をはじめとする諸国が離反し、エジプトの勢力圏は縮小していった。
ここで、正妃ネフェルティティについても触れておきたい。
ネフェルティティの出自には確かな記録がなく、紀元前14世紀中頃の生まれとされる。大神官アイの娘とする説、ミタンニ王女タドゥキパの別名とする説などがある。結婚の経緯も明確ではないが、アケトアテン遷都後はアクエンアテンとともに統治に関わり、二人の間には6人の娘が生まれたとされる。ネフェルティティは宗教改革を進めるアクエンアテンの理解者であり、常に彼を支える存在であったと考えられる。しかし、ネフェルティティの記録はアクエンアテン治世12年目を境に突然途絶える。理由については諸説あるが、確実な資料は残されていない。
一説では、ネフェルティティは突然亡くなり、アクエンアテンは深い悲しみから彼女の記録をすべて封印したとされる。
また別の説では、何らかの理由でアクエンアテンの寵愛を失い、そのために歴史から抹消されたとされる。
さらに有力な説として、彼女は「アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテン」という名でアクエンアテンの共同統治者となり、その名が登場する時期がネフェルティティの記録消失と重なることから、同一人物とみなす研究者も多い。この点について触れた記事を次に紹介したい。
「アクエンアテンの治世第12年以後、アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンというという共同統治王がアクエンアテンと並んで描かれるようになる。現在では、大方の歴史学者がこの共同統治王はネフェルティティその人であると見ている。」『ナショナル ジオグラフィック 別冊』【日経BPムック】
天才(多分)ファラオは、古代エジプト史に宗教改革という特異な足跡を残し、紀元前1336年頃に崩御したとされる。
生前、彼は父アメンホテプ3世がアテン神への強い崇拝心を持っていたことを知っていた。しかし、父がアテン神を唯一神として掲げることは、当時の多神教社会において神官団と民衆の支持を失い、政治の安定を損なうと考えていたことを理解していたはずである。
それにもかかわらず、息子であるアクエンアテンはあえてその道を選んだ。妻ネフェルティティや家族とともに新都での生活すべてをアテン神信仰に捧げ、儀式に没頭した。その結果、彼は死後、自らの息子から手ひどい仕打ちを受けることになる。この点については後述したい。
ここで、アクエンアテンが強い信念をもって独断的ともいえる宗教改革を行ったことを、どのように評価すべきかを検討してみたい。
まず、アクエンアテン自身は自らの改革をどのように捉えていたのだろうか。
彼は、父が果たせなかったアテン神崇拝を独自路線で唯一神として確立し、強大な神官団の権力を奪い、その組織を解体した。宗教儀式の執行権や寄進による財源も断ち切り、さらにテーベを離れてアケトアテンへ遷都することで、自らの理想を実現しようとした。美貌の妻(エジプト三大美人の一人)を迎え、数人の娘にも恵まれ、宗教生活に没頭する日々は、彼にとって充実したものであったに違いない。エジプト最大の権力を手にし、日常生活も満ち足りていた。
では、第三者の視点から見た彼の評価はどうであろうか。
アクエンアテンの宗教改革がもたらした社会への影響を、貢献と弊害の両面から考えてみたい。
まず社会への貢献である。彼が行った宗教改革には、宗教・政治・芸術という複数の領域にまたがる理念が含まれていた。
宗教改革としては、従来の多神教信仰を唯一神アテンへと集約し、エジプト人の宗教観そのものを根本から変革した点が挙げられる。これは、その是非を超えて、社会構造に大きな変化をもたらしたと考えられる。
政治改革としては、治世5年目頃から周到に準備し、テーベからアケトアテンへの遷都を断行したことが挙げられる。これは国家の枠組みを大きく揺るがし、新しい政権の中央集権化象徴する出来事であった。
芸術改革としては、アクエンアテンの治世に独自の美術様式が開花した点が挙げられる。前述した笈川氏が述べるように、セド祭りの準備期間中に芸術の新機軸を打ち出し、宮廷芸術家にさせた結果、後に「アマルナ芸術」と呼ばれる新たな美術分野が確立された。
では、社会的な弊害はどこにあったのであろうか。先ず考えられるのは、宗教的迫害、経済基盤への負担、そして政治的混乱が挙げられるだろう。
宗教的迫害の影響は、当時の社会にとって想像以上に大きなものであったと推測される。古代エジプトでは、神への信仰が人々の精神的支柱であった。テーベの守護神アメンへの崇拝を禁止し、アメン神官団を解体し、アテン神への信仰を事実上強制したことは、多くの人々にとって神と映った可能性が高い。
また、経済的影響としては、新都アケトアテンの建設に要した莫大な費用が国家財政を圧迫したことが挙げられる。
『ナショナル ジオグラフィック エジプトの女王 別冊』(日経BPムック)には次のような記述がある。
「太陽であり王でもあったアクエンアテンは、持続可能な支出と建築を行っていた。それ以前の第18王朝の王たちは、戦争や金鉱などからの収入により君主としての真価を証明したが、アクエンアテンは太陽信仰を広めるために財源には無頓着だった。エジプトは破産状態に陥っていた。」
この記述が示すように、アクエンアテンは強い信念のもと宗教改革を断行したが、その結果、国家財政は破綻に近い状況へと追い込まれた。
政治面においても、彼の宗教改革を支えたのは、おそらく彼の方針に忠実な官僚と身内に近い側近たちであったと考えられる。当時の権力構造は大きく変化し、その影響が円滑に機能するはずもなかった。国王自身は日々の宗教儀式と神殿参拝に力を注ぎ、本来の統治という務めを軽視した国家に、発展が望めるはずがなかった。
以上、アクエンアテンの個人的評価と社会的評価を簡潔に分析したが、その結論は、彼の死後の歴史の流れがそれを雄弁に物語っている。
アクエンアテンの子であるファラオ・ツタンカーメンが父をどう評価したかは、「復古の碑(Stele of Restoration)」と呼ばれる碑文に明確に示されている。この碑文はもとはカルナック神殿に設置され、現在はエジプト考古学博物館(または大エジプト博物館)に収蔵されている。碑文にはアクエンアテンの宗教改革によって多くの神殿が荒廃したこと、アテン神のみを崇拝する政策をやめ、アメン神をはじめとする伝統的な神々への信仰を復活させたこと、神殿の再建と供物の復活、そしてアクエンアテン以前の文化を取り戻すことで社会が安定したことが刻まれている。つまり、父の治世を全面的に否定した内容となっている。
ツタンカーメンが父の政策を否定した理由は、前述の社会的弊害への対応として当然の判断であったと考えられる。そして、その判断を後押しした勢力が存在したことも否定できない。ツタンカーメンが即位したのは紀元前1334年頃、アクエンアテンの崩御は紀元前1336年頃とされ、同年には次のファラオ・スメンクカーラー(即位名:アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテン)が即位している。
もしスメンクカーラーがネフェルティティであったとすれば、彼女の治世約2年間はアクエンアテンの意思を継ぎ、アテン信仰が維持されたことになる。しかしスメンクカーラーの死後、幼いツタンカーメンが9歳で即位すると、これまで影を潜めていたアメン神官団の影響力が一気に復活し、国家は再び多神教へと戻っていった。アメン神官団や官僚たちは、アメンホテプ3世時代の体制を取り戻すべく、積極的に活動を再開したに違いない。
さて、ここまでアメンホテプ4世の生涯を追ってきたが、彼は一体何者だったのだろうか。
歴史を動かす人物というのは、その事業が成功するか否かにかかわらず、強力なリーダーシップと決断力持っているものである。アメンホテプ4世(アクエンアテン)も、まさにその一人といえるだろう。
私はアメンホテプ4世の宗教改革を考えるとき、古代ローマのカエサルを思い起こす。元老院との対立が深まり、ローマへ戻るか否かの決断を迫られたカエサルは、軍を率いて超えることが禁じられていたルビコン川を渡る際、「賽は投げられた」と言い放った。アメンホテプ4世もまた、父が越えなかった川を渡り、従来の慣習に敢然と挑戦したのである。
アクエンアテン顔面像(アメンホテプ4世)/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
アクエンアテン像(アメンホテプ4世)/エジプト文明博物館/カイロ/エジプト
アクエンアテン像(アメンホテプ4世)/エジプト文明博物館/カイロ/エジプト
(メムノンの巨像/顔がつぶれたアメンホテプ3世像(アクエンアテンの父)/ルクソール)
| 参考資料: | ウィキペディア「古代エジプト・ファラオ一覧、その他」 |
| 「古代エジプト 失われた世界の解読」著者:笈川博一 | |
| 「ナショナル ジオグラフィック 別冊 エジプトの女王6人の支配者で知る新しい古代史」【日経BPムック】 | |
| 「ナショナル ジオグラフィック 別冊 古代の都市」【日経BPムック】 | |
| 「ナショナル ジオグラフィック 別冊 古代エジプト 誕生・栄華・混沌の地図」【日経BPムック】監修:河江 肖剰 | |
| 「ナショナル ジオグラフィック 別冊 古代エジプトの女王」著:カーラ・クーニー、翻訳:藤井留美、日本語版監修:河江 肖剰 | |
| 「ナショナル ジオグラフィック 天才って? 日本版」2017年5月号 | |
| 「NATIONAL GEOGRAPHIC」ホームページ | |
| 「日経IDラウンジ ナショナル ジオグラフィック 電子版」 | |
| 「古代女王物語」著者:酒井傳六 | |
| 「古代エジプト文明 世界史の潮流 大城道則」 | |
| アクエンアテン顔面像(アメンホテプ4世)/大エジプト博物館/カイロ/エジプト(筆者撮影画像) | |
| アクエンアテン像1(アメンホテプ4世)/エジプト文明博物館/カイロ/エジプト(筆者撮影画像) | |
| アクエンアテン像2(アメンホテプ4世)/エジプト文明博物館/カイロ/エジプト(筆者撮影画像) | |
| (メムノンの巨像/顔がつぶれたアメンホテプ3世像(アクエンアテンの父)/ルクソ―ル)(筆者撮影画像) |