『ハトシェプスト葬祭殿のこと』
私たちは「ハトシェプスト女王」の名を、壮麗な「ハトシェプスト葬祭殿」の存在によって知っている。しかし悲しいことに、この葬祭殿において1997年11月、イスラム過激派による外国人観光客襲撃事件が発生した。62名が死亡(うち日本人10名を含む)、85名が負傷した。事件の目的は、観光収入への打撃によるエジプト経済への悪影響を狙い、さらに政府転覆を企画したものとされている。観光に訪れていた人々が、偶然その場に居合わせ、無差別テロによって命を奪われたのである。この悲しみを表す言葉は見つからない。心からのご冥福をお祈りするばかりである。
2000年初頭には、政府による警備強化などの対策により観光が再開された。私も2024年2月、エジプトを訪れ、憧れであったハトシェプスト葬祭殿を実際に目にすることができた。
ハトシェプストは、古代エジプト第18王朝の女性ファラオである。紀元前1507年頃、第18王朝ファラオ・トトメス1世と王妃イアフメス王妃の娘として生を受けた。成長後、異母兄弟であるトトメス2世と結婚し王妃となった。しかし、トトメス2世は早世し、後継者は側室の子であるトトメス3世であったが、幼少であったためハトシェプストが摂政として政務を担った。その後、やがて自らファラオに即位し、約22年間にわたりエジプトに平和と繁栄をもたらした統治者として歴史にその名を刻んだのである。
この22年間、トトメス3世は形式的には共同統治王として存在していたが、実際の権力はハトシェプスト女王が掌握し、彼は軍事訓練や儀式への参加に限られていたようである。このハトシェプストの統治の特徴として、公的な場では男装し、儀礼用の付け髭をつけて「ファラオ」としての威厳を示した。政治戦略においては、戦争よりも外交を重視し、その一例が「プント遠征」と呼ばれる長距離の交易航海である。この遠征は軍事行動ではなく、商業的な使節団の派遣であり、エジプトの神殿建設や宗教儀式に必要な香料、金、象牙、黒檀、その他珍しい動植物などを輸入することで、非戦闘による友好関係の構築を目的としていた。その証拠しとして、デル・エル・バハリの葬祭殿には、プントの王と王妃がエジプトの使節団を歓迎する場面がレリーフに描かれている。結果的にこの交易はエジプトの経済を潤す効果をもたらした。
また、カルナック神殿の拡張、自身の壮麗な「ハトシェプスト葬祭殿」の建設、カルナック神殿にアスワン産の花崗岩で造られた巨大なオベリスクの建立、さらにヌビア地方に南方交易路の安定を目的とした要塞や神殿の修復事業など、数多くの建造物を築き、王朝の繁栄を象徴する時代を創り上げた。
この繁栄を受け継いだトトメス3世は、後に積極的な軍事遠征を行い、エジプト史上最大の版図を築き上げた。ハトシェプストの治世は、その偉大な帝国の礎を築いた時代であったと言っても過言ではないであろう。
それではハトシェプスト女王が自分のために築いた葬祭殿とはどのようなもので、どのような役割を果たしたのだろうか。
「ハトシェプスト葬祭殿」は、ルクソール西岸にあり、デル・エル・バハリ(アラビア語で「北の修道院」の意)と呼ばれる湾型の断崖に沿って建てられている。第18王朝の女性ファラオ、ハトシェプストの側近であった建築家センムトの設計によるとされている。
ここで話は少しそれるが、建築家センムトについて触れておこう。
センムトの出自は比較的無名な家庭の出であったとされるが、その卓越した才能と忠誠心によってハトシェプスト女王との強い信頼関係を築いた人物である。彼はその異例の栄達と栄誉を得たため、女王との上下の関係以上の関係を連想させる恋愛説が後世に語られるほどである。その証として、王妃の執事を務め、王女ネフェルウラーの教育係であり、アメン神財産の管理者であり、さらに王朝の建築事業の総監督者でもあった。これらを総合すると、単なる側近と呼ぶにはあまりにも大きな権限を有し、女王の分身ともいえるような存在であったことが分かる。彼はハトシェプストの意思の代弁者であり、常にその側にいて女王の治世を支える重要な役割を担った人物であった。センムトは庶民の出身でありながら王族に準じた扱いを受け、王家の墓に自分の像を残すことさえ許されている。彼は、王女ネフェルウラーの教育係であり、女王の右腕としての高級官僚であり、宗教儀式に深く関わる人物でもあり、王家の内部に多面的に関与していた。それゆえ葬祭殿やカルナック神殿に像を残し、さらにテーベ西岸に王族にも匹敵するような墓を築くことができたのである。
さて話を元に戻そう。
ハトシェプスト葬祭殿の建築様式の特徴は三層のテラス構造であり、各テラスは長いスロープで繋がっている。この構造は、参拝者が歩みを進めることで一つの物語を体験する仕組みになっているのである。
第一テラスは導入部で、参拝者は長いスロープと柱廊を歩きながら神殿の荘厳さを感じ取ることになる。第二テラスは物語を語る場であり、南側柱廊には「プント遠征」の場面が、北側柱廊には「神聖な誕生」の場面が描かれている。誕生のレリーフでは、アメン神がアハメス王妃との結合によってハトシェプストを誕生させたこと、神々が赤子ハトシェプストを抱き生命を授ける場面が表現されている。これにより、ハトシェプストは単なる人間の娘ではなくアメン神の血を引く存在として描かれ、女性でありながらファラオとして即位した正当性が強調されているのである。参拝者はこの物語を目にすることで、彼女を神格化された存在として認識することになるのである。
第三テラスでは、冥界の神オシリスの姿を模した柱像が並び、その顔はハトシェプスト自身を象ったものとなっている。これによって、彼女は神の化身として表現されている。また、第三テラスにはアメン神殿やハトホル礼拝堂が併設され、神々への直接的な奉納と祈りの場となっている。さらに、この三層構造は単なる建築的な配置だけではなく、宗教儀礼の進行そのもの表している。第一テラスは「俗界から聖域へ入る境界線」、第二テラスは「女王の神聖性の確認の場」、第三テラスは「神との関りによって永遠を確信する場」として構成されている。参拝者が段階的に進むことで、儀式の流れを体感し、ハトシェプストの神格化を実感する仕組みになっている。
さらに葬祭殿は、ナイル川東岸に位置するカルナック神殿と、ナイル川を挟んでほぼ一直線上に配置されている。つまり、カルナック神殿とハトシェプスト葬祭殿は、視覚的にも象徴的にも「軸線」で結ばれた建築物であった。カルナック神殿が太陽神アメン=ラーの本殿であるとすれば、ハトシェプスト葬祭殿はそのアメン神を崇め奉る場所だったのである。この両神殿を結ぶ「軸線」こそ、太陽神への奉納儀礼が東西を貫き、ナイル川を越えて行われていたことを示す象徴的な存在であることを世に知らしめていた。このように「ハトシェプスト葬祭殿」は、女性王であるハトシェプスト自身の神格化と王権の正当性を示すための重要な祭殿としての意味を持っていたのである。
ルクソール西岸のデル・エル・バハリにあるハトシェプスト葬祭殿/ルクソール/エジプト
ハトシェプスト女王頭部像/エジプト考古学博物館/カイロ/エジプト
ハトシェプスト葬祭殿の柱像/ハトシェプスト葬祭殿/ルクソール/エジプト