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『カント・永遠の平和のこと』


【ケーニヒスベルクの歴史】
 イマヌエル・カントが、『永遠の平和のために』と題する書物を刊行したのは1795年のことである。この年71歳となった彼がこの主題に取り組んだ時代、ヨーロッパの国際秩序は大きく揺れ動いていた。カントは「永遠の平和は果たして可能なのか」という根源的な問いを自らに投げかけ、その哲学的条件を探求したのが本書である。
 以下では、カントが生きた18世紀から19世紀初頭の時代背景とその思想を取り巻く環境、そして彼がこの命題を考察するに至った経緯について順を追って書き進めることにしよう。
 カントが生まれ、そして生涯を過ごしたケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)は、当時プロイセン王国の領土であったが、ブランデンブルク=プロイセンの本土とはポーランド領によって隔てられた、いわゆる「飛び地」であった。
 ここでケーニヒスベルクが「飛び地」となったその背景と歴史について触れておきたい。
 もともとこの地域は、古代よりバルト海沿岸の交易拠点として栄え、狩猟や漁労を営むバルト系プルーセン人(サンビア人)の居住地であった。
 13世紀頃になると、ローマ皇帝および教皇の承認を得たドイツ騎士団(テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団と並ぶ三大宗教騎士団の一つ。さらに、ドイツ語圏であるためチュートン騎士団をドイツ騎士団と表記する)が、バルト海沿岸の征服事業の一環として異教徒プルーセン人の制圧とキリスト教化を進め、その過程でケーニヒスベルクが建設された。これが都市の起源である。
 ケーニヒスベルクは成立当初、商人や職人の中心地であったアルトシュタット、交易と手工業が発展したレーベニヒト、そしてブレゲル川の中州に築かれたクナイプホーフという、三つの独立した都市から成り立っていた。これら三都市は後に統合され、一つの都市空間として発展した。1339年にはハンザ同盟に加盟し、ケーニヒスベルクはバルト海交易の重要拠点としてさらに繁栄を遂げた。
 その後もバルト海沿岸域において領土拡大を進める騎士団に対し、リトアニア西部のサモギティア(ジェマイティヤ)で反騎士団蜂起が発生した。騎士団にとってサモギティアは、自領である東プロイセンとリヴォニア騎士団(ドイツ騎士団の北方支部として現在のラトビア・エストニアを支配した軍事修道会)を結ぶ戦略上の要衝だった。ここを失うことはバルト海沿岸支配の根幹を揺るがす重大事であった。一方、ダンツィヒ(グダニクス)は、ポーランドにとって海上交通の要衝であり、バルト海への唯一の出口でもあった。騎士団がこの地域への影響力を強めることは、ポーランドにとって看過できない脅威となるのである。
 騎士団はサモギティアの反乱をポーランド=リトアニアの扇動とみなし、これを口実としてポーランド領への侵攻を開始した。こうして1409年、ポーランド=リトアニアとドイツ騎士団の戦争が始まった。
 この戦争の勝敗を決定的づけたのは、1410年のグルンヴァルトの戦いである。ここで騎士団は壊滅的な敗北を喫した。その結果、1411年に第一次トルン条約が締結され、一旦戦争は終結した。しかし和平条件は比較的緩やかで、領土の大きな移動もなかったため、根本的な対立は解消されず、後の戦争の火種として燻り続けた。
 1454年、ドイツ騎士団の支配にあったプロイセンの諸都市は、重税、自治権の侵害、商業活動の制限、そして騎士団の封建的政策による圧政に不満を募らせた結果、ついに反乱を起こした。ハンザ同盟の重要都市ダンツィヒ(ポーランド北部)、交易都市エルブロンク(ポーランド北部)、内陸の要衝トルン(ポーランド中北部、コペルニクス生誕地として有名)などの主要都市はプロイセン同盟を結成し、ポーランド王国カジミェシュ4世に支援を求めた。これが「十三年戦争」の始まりである。
 戦争は長期化し、プロイセン同盟とポーランド軍は騎士団の支配下にあった諸都市を次々と掌握していった。戦局の決定的な転機となったのは、1462年にポメレリア地方のシュフィエチノ(ザルノヴィエツ湖近郊)で行われた戦い(シュフィエチノの戦い)である。この戦闘でポーランド軍は決定的勝利を収め、ドイツ騎士団は軍事的にも財政的にも追い詰められ、和平交渉を受け入れざるを得なくなった。こうして1466年、ポーランド王国とドイツ騎士団の間で第二次トルン条約が締結され、十三年戦争は終結した。
 条約の内容として、ポーランドは西プロイセンを割譲され、これによってバルト海への確実な出口を手中に収めた。さらに、クルムラント、ポメレリア(ダンツィヒを含む)、そしてヴァルミア司教領などがポーランド領に帰属し、これらは総称して「王領プロイセン」と呼ばれる地域を構成した。一方、ドイツ騎士団はケーニヒスベルクを含む東プロイセンの残余領を保持したものの、以後はポーランド王の封臣として存続することが認められた。そのため、騎士団長は新任のたびにポーランド王に対し臣従の誓いを立てる義務を負うことになったのである。
 1525年には、ドイツ騎士団が世俗化しプロテスタント国家「プロイセン公国」が成立し、続いて1701年にはホ―エンツォレルン家がケーニヒスベルクで戴冠式を挙げ、「プロイセン王国」が誕生した。ケーニヒスベルクは王国発祥の地として象徴的地位を占めることになる。当時、ケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンは、ポーランド領によってブランデンブルク=プロイセンの本土と隔てられており、前述の通りいわゆる「プロイセンの飛び地」として地政学的に法的にも不安定な存在となっていた。つまり、ブランデンブルク=プロイセンと東プロイセンという異質な領域が、ホ―エンツォレルン家の同時支配によって一つの国家を形成していたのである。そもそもプロイセンは、複数の領土が連合した「集合体」としての性格を持ち、これらをホ―エンツォレルン家が統合的に支配していたため、近世には「ブランデンブルク=プロイセン」と呼ばれていた。
 1701年、ホ―エンツォレルン家がプロイセン王を名乗った頃、ポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパでも最大級の領域を持つ国家であった。リトアニア大公国は、同共和国の一部として東プロイセンの南方に広大な領域を有していた。では、現在バルト三国と呼ばれるエストニアやラトビアは当時どのような状況にあったのだろうか。
 エストニアは中世以来ドイツ騎士団の影響を受けてきたが、17世紀末にはエストニア北部およびラトビア北部(旧リヴォニア地方)がスェーデン帝国の支配下に置かれていた。スェーデンは本国に加え、エストニア、ラトビア北部、フィンランド、さらに北ドイツの一部(バルト海沿岸地域)を領有し、まさに「バルト帝国」とも呼びうる勢力を誇っていた。
 この強大なウェーデンのバルト海覇権に対抗するため、1699年にロシア・ツァーリ国、デンマーク=ノルウェー王国、そしてザクセン選帝侯国(選帝侯がポーランド王を兼ねていた)による反スェーデン同盟が結成された。1701年に大北方戦争が勃発、戦いは1721年のニスタット条約が締結されるまで続くこととなった。
 北方戦争に大敗したスェーデンは、かつて「バルト海の帝国」と称された大国の地位を失い、中規模国家へと後退した。
 一方、戦勝国となったロシア・ツァーリ国は、1721年のニスタット条約締結後に「ロシア帝国」を名乗り、ピョートル一世は自らを「皇帝」と称した。この戦争によってロシアが獲得した領土は、エストニア、リヴォニア(現在のラトビア北部を含む)、イングリア(サンクトペテルベルク周辺)、およびカレリアの一部であった。これにより、ピョートル一世が長年求めていた不凍港を手中に収め、ロシアはバルト海戦略を本格的に遂行できるようになった。
 デンマーク=ノルウェー王国にとっては、スェーデンの弱体化という安全保障上の利益はあったものの、ロシアの急速な台頭によって戦勝の効果は限定的であり、北欧秩序の変化という間接的な成果にとどまった。
 ザクセン選帝侯国にとっては、形式上は戦勝国となったものの、実質的には敗者に近い成果となった。ザクセン選帝侯アウグスト(ポーランド王アウグスト2世)は、ポーランド王権の強化を狙って参戦したが、戦争の過程でポーランドは一時的にスウェーデン軍に占領される屈辱を受けた。王権の弱体化はポーランド・リトアニア共和国の内紛を激化させ、貴族の分権化をさらに進める結果となり、この戦争は同共和国の衰退を加速させる契機となったのである。
 これらの状況を総合すると、ロシア帝国の誕生によって北欧や東欧における「バランス・オブ・パワー」が大きく変動したことが見えてくる。
 18世紀の北欧・東欧で顕著となったのは、弱体化した国家に対して列強が積極的に干渉を開始したという構造的な変化である。北欧では、バルト海の制海権が「スェーデンの海」から「ロシアの海」へと移行し、地域の主導権はスウェーデンからロシアへと完全に移った。
 東欧では、王権の弱体化が進んだポーランド・リトアニア共和国に対し、ロシア帝国、プロイセン王国、ハプスブルク帝国といった周辺列強国が内政干渉を強めるようになった。特に、大北方戦争に参戦しなかったプロイセン王国は、戦後のバルト海沿岸の安定化によって東プロイセン領の安全保障を確保し、勢力拡大の基盤を固めた。
 また、ハプスブルク帝国も北方戦争には参戦していない。18世紀のハプスブルク帝国は、ハプスブルク家が統治する複合君主国であり、その支配領域には、オーストリア本土、ボヘミア王国、ハンガリー王国に加え、スペイン継承戦争後ユトレヒト条約・ラシュタット条約によって獲得した南ネーデルランド(現在のベルギー)や、イタリア北部のミラノ公国、ナポリ王国などが含まれていた。こうした広大で多様な領域を抱えていたため、当時のハプスブルク帝国はヨーロッパでも有数の大国であった。しかし、多民族・多地域から成る国家構造は、各地域の民族文化・法制度・宗教制度や特権を維持する必要があるなど、統治上の火種を常に抱えていた。実際、1703年にはハンガリーで大規模な反乱(ラコーツィの独立戦争)が発生し、最終的には鎮圧はされたものの、帝国の脆弱性を露呈する結果となった。
 さらに、ハプスブルク家には「男子後継者がいなければ家督は断絶する」という伝統があった。皇帝カール6世には男子がいなかったため、娘マリア・テレジアへの相続を認めるための特別法「国事詔書(プラグマティック・サンクション)」を発布し、諸国に承認を求めた。1740年、カール6世が死去すると、この勅書に基づきマリア・テレジアが即位した。しかし同年12月、プロイセン王フリードリヒ2世はその相続を認めず、豊かな工業地帯であるシレジア(現在のポーランドの南西部)へ侵攻した。これが「オーストリア継承戦争」の始まりである。戦争の結果、ハプスブルグ帝国はシレジアを失ったものの、マリア・テレジアはこの危機を帝国再建の契機とし、行政・財政・軍事の大規模な改革を進めた。これにより、従来の封建的国家運営から脱却し、ハプスブルク帝国は近代国家へと変貌を遂げた。こうした改革を経て、帝国は再び列強国としての地盤をかため、18世紀後半にはプロイセン王国と並ぶ中欧の二大勢力として認識されるようになった。
 一方、北方戦争後に急速に国力を増強したのがプロイセン王国である。プロイセンは徴税制度や官僚制の整備、農村支配の強化などの内政改革を進め、強固な財政基盤を築いたうえで軍事改革を行い、当時のヨーロッパでも屈指の陸軍を創り上げた。前述の通り、ハプスブルク家の継承問題に端を発したオーストリア継承戦争では、1748年のアーヘンの和約によってプロイセンはシレジアを獲得し、オーストリアと覇権を二分する列強として中欧ヨーロッパに君臨するようになった。
 1756年、イギリスとフランスが主張する植民地領有権をめぐる対立が激化し、七年戦争(1756年ー1763年)が勃発した。この戦争はヨーロッパ・北米・インドにまたがる世界規模の戦争となった。北米ではイギリス軍とフランス軍が原住民を巻き込みながら戦闘を繰り返したが、1759年のケベックの戦いでイギリスが決定的勝利を収め、北米の主導権を握った。インドでも、イギリス東インド会社とフランス東インド会社が覇権を争い、最終的にはイギリスが優位を確立した。ヨーロッパ戦線では、イギリス・プロイセン・ハノ―ヴァー・ドイツ諸邦の連合軍とフランス・ロシア・オーストリア(神聖ローマ帝国)・スウェーデン・サクソニーの連合軍が対峙した。戦いの詳細は省くが、1763年、プロイセンとロシアがフベルトゥスブルク条約を締結し、ヨーロッパ戦線は終結した。結果として領土は戦前とほぼ同じ「現状維持」となり、プロイセンはシレジアの領有を維持し、オーストリアは奪回に失敗した。またイギリスは、ヨーロッパ戦線では直接の大規模陸戦には戦参加せず、資金援助と海軍力によってプロイセンを支えた。
 一方、七年戦争は陸戦だけではなく、海の覇権を巡る戦いでもあった。イギリス海軍とフランス海軍は、海軍力を基盤に交易と植民地支配を競い合っていた。1759年、両国はキブロン湾海戦で激突した。イギリス海軍は戦争開始以来、フランスの主要軍港ブレストを約5カ月にわたって封鎖し続けていたが、この封鎖はフランス植民地(カナダやインドなど)への補給を困難にし、戦局に大きな影響を与えた。そのためフランス艦隊は1759年11月14日、封鎖を続けるイギリス艦隊が悪天候で一時退避した隙をついてブレスト港を出航した。しかし、これを察知したイギリス艦隊が追撃し、11月20日、ビスケー湾内のキブロン湾で決戦となった。この海戦でイギリスは戦艦2隻を喪失し約300名の死傷者を出したが、フランス艦隊は戦艦5隻を喪失、1隻捕獲、4隻沈没、4隻座礁、死傷者約1,700名、捕虜約1,300名と壊滅的打撃を受けた。この海戦は「7年戦争のトラファルガー」と呼ばれ、イギリス海軍の決定的勝利として知られている。こうして、七年戦争は1763年の「パリ条約」によって終結した。この戦争は、イギリスが世界帝国へと飛躍する決定的な契機となった。
 こうして、近代国家へと変貌を遂げたオーストリア、北方戦争後に急速に国力を増強したプロイセン王国やロシア帝国、そして七年戦争によって世界帝国への道を切り開いたイギリスなどの主要列強国は、東欧情勢に一層関心を寄せ、衰退しつつあったポーランド・リトアニア共和国への影響力を拡大していった。やがて、ハプスブルク帝国、プロイセン王国、ロシア帝国の三国は、18世紀後半になるとポーランドへの政治的・軍事的介入を強め、その結果、ポーランド分割へと踏み出すことになる。
 ここで、ポーランド・リトアニア王国の衰退について、触れておく必要があるだろう。
 その衰退の要因は、内部的な要因と外部的な要因に分けて考えることができる。まず内部的要因としては、国家制度そのものが抱えていた構造的欠陥が挙げられる。第一に、国王を選挙によって選出する「自由選挙王政」である。本来、王国であれば世襲が一般的だが、ポーランドでは世襲ではなく選挙によって王が選ばれた。この制度は国王権の弱体化を招き、王位継承のたびに紛争が発生し、さらに外国勢力の介入を招く危険性を孕んでいた。第二に、議会制度における「全会一致原則」である。法案の成立には一人でも反対すれば否決となるため、買収や妨害によって議会運営が容易に麻痺しうるという脆弱性を抱えていた。第三に、貴族に大きな税免除特権が与えられており国家財政を著しく弱体化させた原因ともなっていた。財政基盤の弱体化は国家運営のみならず国防政策にも影響し、軍の近代化や増強を阻む要因ともなった。一方、外部的要因としては、周辺列強国による国王選出や国内政治への干渉が常態化し、国家の主権が侵害され続けたことが挙げられる。こうした内外の要因が複雑に重なって、国家の統治能力が次第に失われ弱体化を促進させたのである。

【ポーランド分割とケーニヒスベルク】
 そのような状況下で、ロシア帝国、プロイセン王国、ハプスブルク帝国のそれぞれの思惑は「ポーランド分割」という形で現実のものとなった。
 1772年、第一次ポーランド分割は、列強同士が直接衝突することを避けるため、三国の外交交渉の末に分割案が成立した。これを正当化するために、彼らは国際法上の名目を整える必要があり、その論理構成として、第一に「ポーランド内部の混乱に対して秩序を回復すること」、第二に「ロシア軍による治安維持を図ること」、第三に「国境の安定化を確保すること」などが掲げられた。こうした名目のもと、条約という形式を整えて分割に臨んだのである。
 この時点でロシア軍はすでにポーランドの国政や「自由選挙王政」に深く介入し、事実上の駐留状態にあったとされる。最終的に、サンクトペテルブルクにおいて分割条約が締結された。
 ここで決定された領土配分は、ロシア帝国がポーランド東部の広大な地域を、プロイセン王国がバルト海沿岸の西部地域(王領プロイセンと本国を結ぶ回廊)を、そしてハプスブルク帝国がガリツィア地方(ポーランド南東部とウクライナ西部に広がる地域)をそれぞれ獲得するというものであった。
 ここで読者にお断りしておく必要がある。本稿の主目的はイマヌエル・カントの著作を扱うことであり、あわせて彼が生涯を過ごしたケーニヒスベルクの歴史を辿ることにある。第一次ポーランド分割においてプロイセン王国が獲得したバルト海沿岸の西部地域こそが、この「飛び地」ケーニヒスベルクと深く関わり、その歴史を辿る際の源流となる。したがって、以降はこの「飛び地」の形成と変遷に焦点を絞り、論を進めていくこととする。
 1772年、第一次ポーランド分割において、プロイセン王国はバルト海沿岸の王領プロイセン(Royal Prussia)を獲得した。これによってベルリンを中心とする本国ブランデンブルクと、従来からプロイセン王国の領土であった東プロイセン(ケーニヒスベルク)は、バルト海沿岸に沿って伸びる細長い陸路によって結ばれることとなった。
 ハプスブルク帝国はガリツィア(現在の南ポーランド及び西ウクライナ)を獲得した。ガリツィアは農産物の生産力が高く、人口も多かったため、財政的利益が大きかった。中欧・東欧における勢力拡大を目指すハプスブルク帝国にとって、極めて重要な戦略的獲得といえた。
 ロシア帝国はリヴォニア南部および白ロシア(ベラルーシ)地域を獲得し、西方国境がポーランド領から遠ざかったことで、首都サンクトペテルブルクの防衛上の安全性が高まった。さらに、第一次分割後のポーランド・リトアニア共和国は、1773年以降、実質的にロシア帝国の保護下に置かれることになった。
 こうして、実質的にロシア帝国の保護下に置かれ、さらにプロイセン王国とハプスブルグ帝国の干渉も受けるようになったポーランドは、主権を十分に行使できない弱体化した国家へと転落していった。
 この中欧・東欧において、ロシア帝国・プロイセン王国・ハプスブルク帝国といった列強が第一次ポーランド分割をめぐって勢力争いを繰り広げていた頃、北アメリカでも大きな動きがあった。1775年4月19日、アメリカの独立戦争が勃発した。
 アメリカ独立戦争は、イギリスとフランスの七年戦争に起因するとされる。戦争には勝利したものの、莫大な戦費によって財政危機に陥ったイギリスが、アメリカ植民地にも税負担や規制を強いたことが直接の原因であった。
 1765年、イギリスは新聞・契約書・出版物に印紙税を課す印紙法を可決した。さらに1767年には、ガラス・紙・茶などに関税を課すタウンゼント諸法を制定した。加えて、イギリス東インド会社に茶の販売特権を与え、植民地商人を圧迫したことから、ボストンでは茶を海に投棄する「ボストン茶会事件」が発生した。これに対し、イギリスはボストン港を封鎖するなどの強制措置を講じ、両者の対立は決定的となった。
 イギリス側の課税政策の理論構成は、「帝国全体」の防衛と運営のために植民地も税を負担すべきであり、帝国会議は植民地を「仮想的」に代表しているため、代表制は成立しているというものだった。
 これに対し、植民地側は、自分たちの選んだ代表が議会に存在しない以上、一方的に課税されることは認められないと主張し、「代表なくして課税なし(No Taxation without representation)」の論理を掲げ反発を強めた。
 1774年には、植民地代表による第一次大陸会議が開催され、政治的な共同歩調が整えられた。
 1775年、イギリス軍が植民地民兵の武器庫を押収しようとした際、民兵が武力で抵抗したことを契機に、本格的な武力衝突が始まり、「アメリカ独立戦争」へと発展した。第二次大陸会議はジョージ・ワシントンを植民地軍の総司令官に任命した。
 1776年7月4日、大陸会議はフィラデルフィアにおいて独立宣言を採択し、13植民地は正式にイギリスからの独立を宣言した。
 これから、独立戦争を時系列に沿って追って行こう。
 1776年8月の「ロングアイランドの戦い」ではイギリス軍が勝利し、同年11月にはフォート・ワシントンが陥落して、アメリカ軍はニューヨークの大部分を失った。同年12月、アメリカ軍はデラウェア川を渡ってトレントンを奇襲し、勝利を収める。
 1777年1月のプリンストンの戦いでは、ワシントンが自ら前線に立って兵を鼓舞し勝利を収めたことで、アメリカ軍の士気は大いに高まった。そして同年10月、戦争の分岐点となったサラトガの戦いが起きる。イギリス軍はカナダから南下し、ニューヨークを分断して反乱を鎮圧する大規模作戦を展開したが、アメリカ軍はこれを迎え撃ち、進軍を阻止した。最終的にバーゴイン将軍率いるイギリス軍は包囲され、1777年10月17日に降伏し、約6,000名の兵が捕虜となったとされる。このサラトガの勝利は戦争の大きな転換点となり、アメリカとフランスが正式に同盟を結ぶ契機となった。仏米同盟の成立により、イギリスはフランス、スペイン、オランダとも戦うことになり、アメリカ独立戦争は国際的な戦争へと発展していったのである。
 1783年9月3日、パリ条約が締結され、イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に承認した。こうして、8年に及ぶ独立戦争は終結した。
 再びヨーロッパに目を向けると、1793年のポーランド第二次分割では、プロイセン王国がボズナンを含む西部地域を獲得した。続く1795年10月の第三次分割では、プロイセンはポーランド北部および西部の領域を併合し、ワルシャワ周辺の一部も支配下に置いた。同年4月5日、プロイセン王国は敵対していたフランスとバーゼル条約を締結し、軍事強国となった革命フランス軍との不利な対立をいったん収め、東方での領土拡大  すなわちポーランド分割への関与  を優先する政策へと舵を切ったのである。
 ハプスブルク帝国は、第二分割時にはフランス革命戦争への対応で不参加であったが、1795年の第三次分割においてクラクフ(ポーランド南部)を獲得した。
 ロシア帝国は、第二次分割でベラルーシおよびウクライナの広大な領域を獲得し、さらに第三次分割ではリトアニアとクールラントを併合した。その結果、ポーランド・リトアニア共和国は完全に消滅し、ロシアは東欧最大の陸上帝国としての地位を確立することとなった。
 こうしてポーランド・リトアニア共和国が消滅し、ケーニヒスベルクは東プロイセンの中心都市として、プロイセン王国の東端でその存在を維持することとなった。
 ポーランド第二次分割の時期、ハプスブルク帝国がフランス革命戦争への対応に追われていたことはすでに述べたが、1793年のフランスでは国王ルイ16世が革命政府によって処刑され、国内は急進派の支配のただ中にあった。革命の波がヨーロッパ全土に広がることを恐れ、イギリス・オランダ・スペイン・ポルトガルそしてオーストリアは対仏大同盟を結成し、その中心的役割をハプスブルク帝国が担った。こうしてフランス包囲網が形成されると、すでに交戦状態にあったプロイセンおよびオーストリアに加え、フランスはイギリスとオランダにも宣戦布告した。

【フランス革命とナポレオン戦争】
 フランス国内では「恐怖政治(Reign of Terror)」が始まり、ジャコバン派が政権を掌握して反革命容疑者を大量に処刑するという過激な時期を迎えていた。1793年3月、フランス軍はネールウィンデンの戦いで、ベルギー方面から侵攻したオーストリア軍およびオランダ軍を中心とする連合軍に大敗した。この敗北を受け、フランスは国家総動員を実施し、大規模な軍の編成に踏み切った。同年8月には、フランス東南部の地中海沿岸都市トゥーロンで、反革命派が、港をイギリスとスペインに明け渡す反乱が発生した。この重要な軍港をめぐる攻防戦で奪還作戦を成功に導き、頭角を現したのが若き砲兵将校ナポレオン・ボナパルトである。この後、彼は急速に軍事的・政治的地位を高め、ついにはフランスの危機を救う存在となり、「ナポレオン戦争」と呼ばれる時代を通じてヨーロッパに君臨することになる。
 ナポレオンのトゥーロン港奪還作戦成功後の、彼の輝かしい戦績を時系列で列挙してみよう。
 1795年10月5日(共和歴4年ヴァンデミエール13日)、パリでは王党派勢力が新政府「総裁政府」の成立に反対して武装蜂起した。市街地の要所に集結した数千人規模の武装市民に対し、ナポレオンはためらうことなく大砲を配置し、海戦用の散弾である「ぶどう弾」を至近距離から発射した。この大胆な行動は「ぶどう弾の洗礼」と呼ばれ、蜂起を短時間で鎮圧し、パリの治安を鎮静化させた。
 1796年3月、ナポレオンはイタリア方面軍司令官に任命された。当時の方面軍は、装備や補給が貧弱で、兵士の士気も低かった。しかしナポレオンは就任直後、「イタリアの豊かな平野が君たちのものになる」と演説し、勝利による報酬を約束することで軍の士気を一気に高めた。同年4月10日から28日にかけて、ナポレオンはモンテノッテ、ミレジモ、デーゴ、モンドヴィなどの戦いでピエモンテ軍を連続して撃破し、サルデーニャ王国を休戦に追い込んだ。これによって北イタリアへの進撃路が確保された。その後、5月10日にはロンバルディア州ロディのアッダ川に架かる橋で、退却するオーストリア軍のしんがりと激闘の末これを撃破した。この戦いは敵の軍事規模は大きくはなかったものの、この勝利を「自分が偉大な人物であることを悟った」と述懐するほど彼自身とその名声を決定づける戦いとなった。
 1796年5月15日、ナポレオンはロディの戦いを制してわずか5日後に、北イタリアの中心都市ミラノへ入城した。以後、この地がイタリア戦線の拠点となる。同年6月から、北イタリアにおけるオーストリア軍最大の要塞都市マントヴァの包囲を開始した。マントヴァはミンチョ川に囲まれ、わずか五本の堤道でしか出入りできない天然の要塞であり、オーストリア軍にとって北イタリア防衛の生命線であった。
 オーストリア軍はフランス軍の包囲を解くために四度にわたり救援軍を派遣したが、各軍の距離が離れすぎて連携ができず、いずれも撃退された。ナポレオンの戦術は、要塞を封鎖する包囲軍と、救援軍を有激する機動部隊を分けることで、包囲を維持しながら敵を迎撃するという戦略的消耗戦を展開した。
 1797年1月14日から15日にかけて、イタリア戦役の主要戦闘とされるリヴォリの戦いが行われた。複数の縦隊でマントヴァ救援に向かったオーストリア軍に対し、ナポレオンは高地を押さえて各部隊を個別に撃破し、決定的な勝利を収めた。この敗北によりマントヴァは完全に孤立し、補給路を断たれたオーストリア軍はついに1797年2月2日に降伏した。
 これにより北イタリアは完全にナポレオンの支配下に入り、オーストリアは休戦を申し入れた。こうして最終的にカンボ・フォルミオ条約が締結され、フランスは北イタリアの広大な領土を獲得し、チザルピナ共和国などの衛星国家が誕生した。一方で、長い歴史を持つヴェネツィア共和国は消滅することとなった。
 カンボ・フォルミオ条約の締結によって、第一次対仏大同盟はオーストリアが離脱し、フランスの敵対国はイギリスだけとなった。一方、イタリア戦線からパリに凱旋したナポレオンは、英雄としてパリ市民に迎え入れられた。彼は、戦役の勝利者としてだけではなく、オーストリアを屈服させた外交能力、新国家チザルピナを創設した立役者として、軍人でありながら政治家としても、国家の中心人物へと台頭してゆくことになる。
 次にナポレオンが打った手は、フランスの唯一の敵となったイギリスに対する戦略であった。
 当時、イギリスはヨーロッパ随一の強力な海軍力を誇っていた。ナポレオンは海戦で不利な状況を逆転するため、発想を転換し、イギリスの生命線であるインドからの通商航路を遮断することで経済活動を妨害しようと考えた。インド交易は、茶、綿花、香辛料、絹、宝石、インディゴ、アへン、塩などの生産品に限らず、それらの流通・輸出によって得られる莫大な税収がイギリス経済を支えていた。ナポレオンは、インドという富の源泉を揺さぶることで、イギリス経済を混乱させようとしたのである。
 こうして決定されたナポレオンのエジプト遠征は、彼の抬頭を快く思わない総裁政府内部の反ナポレオン派の思惑とも一致していた。1798年5月、ナポレオンは軍と学者団を率いてエジプト遠征へと出発した。
 イギリスからのインドへの交易ルートは、アフリカ南端の喜望峰を回る航路と、地中海からエジプトを経て紅海へ抜ける陸上ルートの二つがあった。ナポレオンはこの陸上ルートを遮断するだけでなく、将来は、この膨大な富を生むインドそのものを奪い取る計画さえ密かに抱いていたとされる。  ナポレオン率いるフランス軍は、1798年5月19日にフランスを出帆し、同年7月2日にアレクサンドリアへ上陸した。7月21日のピラミッドの戦いではマムルーク軍を撃破し、7月24日にはカイロへ入城した。  しかし、フランス軍のカイロ入城から間もない1798年8月1日、ネルソン提督率いるイギリス艦隊がアレクサンドリアの北東約19㎞、ナイル川ロゼッタ河口近くに位置する浅瀬の多いアブキール湾に姿を現した。ネルソン艦隊は3カ月にわたりフランス艦隊を追跡し続け、ついにこの湾で発見したのである。当時、ブルーエ提督率いるフランス艦隊はナポレオン軍を上陸させた後、アブキール湾に錨を降ろしたまま停泊していた。浅瀬が天然の防御になると考え、警戒を緩めていたのである。そこをネルソン艦隊が奇襲した。ネルソンは、通常の海側からの攻撃だけではなく、浅瀬ぎりぎりを縫うように陸側へ回り込み、フランス艦隊を両側から挟撃するという巧妙な戦術を用いた。戦闘は翌日まで続き、フランス艦隊は旗艦ロリアンの爆沈を含む壊滅的打撃を受けて、ほぼ全滅状態となった。
 アブキール湾の海戦におけるフランス艦隊の壊滅的敗北によって、ナポレオン軍約3万五千人はエジプトに孤立することとなった。
 この恐るべき勝利の報告は1798年10月2日にロンドへ届けられ、その内容は瞬く間にヨーロッパ中を駆け巡った。ネルソンは国民から一躍、イギリスの英雄として讃えられる存在となった。ネルソンはアブキール湾の戦後処理を終えると、地中海の制海権を掌握した艦隊を率いてナポリ王国へ向かった。そこでナポリ王フェルディナンド4世、王妃マリア・カロリーナ、そして駐ナポリ大使夫人エマ・ハミルトンらと会談し、反フランス同盟の強化に大きく貢献した。その後、彼をさらに次の大戦が待ち受けることとなる。
 一方、艦隊を失ったナポレオンは、エジプト遠征の戦略を根本的に見直さざるをえなかった。
 1798年8月22日、彼は「エジプト学協会」を創設し、軍事的苦境の中でも学術事業を推進した。この姿勢には、彼の計画性と統治者としての資質がよく表れている。
 同年10月、カイロでは大規模な反乱が勃発した。エジプト人による「第一次カイロ蜂起」である。これは、当時すでに完全にイスラーム社会であったエジプトに対し、フランス軍が宗教的・文化的理解を欠いた統治を行ったことが原因であった。フランス軍はモスクに宿営したり、重税を課したり、イスラームの慣習を無視する行動を取り、市民たちの怒りを買ったのである。
 反乱はカイロ市内の複数地点で同時に発生し、住民はフランス軍の小規模な駐屯地を襲撃し、アル=アズハル・モスクに立てこもって抵抗した。これに対しナポレオンはためらうことなく砲兵を投入し、反乱地区を砲撃した上で銃剣突撃により市街地を制圧、さらにモスク内部へ突入して抵抗勢力を制圧した。反乱側の死者は約6,000人に及んだとされる。
 年が明け、1799年2月から軍事行動が始まり、ナポレオン軍はシリア・パレスチナ遠征を開始した。彼は、エジプトにおける孤立状態を打開するため、オスマン帝国軍に先制攻撃を加えようと北上した。1799年3月7日にヤッファ(ジャッファ)を占領し、3月19日にはアッコンの包囲を開始した。アッコンはエジプトとシリアを結ぶ要衝であり、ここを攻略することは、インドへの進出を視野に入れたナポレオンの東方戦略の一環であった。しかし、オスマン・イギリス連合軍の強固な抵抗により攻略は失敗し、同年5月下旬頃に包囲を断念して撤退、6月にカイロへ帰還した。
 1799年7月25日、ナポレオンはアレクサンドリア北西約23㎞に位置するアブキール
 半島で、オスマン帝国軍と大規模な陸戦を行った。イギリス艦隊の支援を受けて半島に上陸したオスマン軍は約2万、これを迎え撃つフランス軍は約一万であった。この戦いの戦況を以下に記すことにしよう。
 オスマン軍の指揮官はムスタファ・パシャで、彼は約2万の兵をひきいて海岸線に沿って三重の防衛線を構築していた。一方、迎え撃つナポレオン軍は歩兵約9,000、騎兵約1000,大砲17門であった。
 戦闘は、フランス砲兵が第一防衛線の塹壕に対して近距離射撃を加え、続いて歩兵が銃剣突撃で塹壕を奪取することで始まった。第二の防衛線に対しては、正面攻撃を避け、砂丘の死角を利用して側面に回り込み突撃した。これによってオスマン軍は総崩れとなり、残存兵士は半島先端の第三防衛線に立てこもった。ここでナポレオンは全騎兵に中央突撃を命じ、ムスタファ・パシャの本陣を急襲して指揮官を捕虜とした。指揮官を失ったオスマン軍は崩壊し、多くの兵がイギリス艦隊の方向へと海に逃れたが、砲撃によって溺死した者も多かった。戦死・溺死・捕虜を合わせ、オスマン軍は約2万人の損害を被ったとされる。このアブキールの陸戦は、ナポレオンのエジプト遠征において、オスマン帝国によるエジプト奪回作戦を阻止した勝利であり、彼の名誉を一時的に回復させた戦いでもあった。
 1799年8月23日、ナポレオンはエジプトを密かに出発し、パリへ向かった。アブキール湾の海戦で辛うじて残った艦を用い、イギリス海軍の包囲網をかいくぐってフランスへ帰還しようとしたのである。
 ここで、ナポレオンのエジプト離脱と帰国について、私見を述べて見たい。
 司馬遼太郎の作品にはしばしば、「時代が変わるとき、その変化を担う人物が必ず現れる」「その人物は、時代の要請に応じて、まるで天から呼び出されたかのように登場する」といった表現が見られる。まさに、この時のナポレオンのエジプト脱出は、その典型であったように思われる。
 彼はエジプト遠征において軍事的には敗北し、政治的にも孤立し、遠征の戦略的目的はすでに破綻していた。この時点での彼の行動は、本来なら「敗軍の将の帰国」と呼ばれるべきものであった。しかし、歴史はそうはならなかった。
 前述の通り、アブキール湾の海戦で残ったわずか4隻のフリゲート艦に、側近の将軍たちと親衛隊を乗せ、ナポレオンはアレクサンドリアを出航した。後事はクレベール将軍に託し、軍には出航の事実を伏せたままであった。しかも、地中海の制海権はイギリス軍が握っており、その主力艦隊が地中海西部にいるであろうという“賭け“に基づく航海であった。この賭けが外れていれば、今日の歴史書に彼の名は残らなかったであろう。しかし、彼は賭けに勝ち、そして歴史にその名を刻むことになったのである。
 余談ではあるが、ナポレオンが敬愛した英雄は三人いたとされる。アレクサンドロス大王、ハンニンバル、カエサルである。彼は軍人としての活躍の裏で、歴史的ロマンを胸に抱く夢想家でもあった。パリの士官学校を卒業し砲兵士官として軍事キャリをスタートさせた頃から、リウィウス、ポリュビオス、タキトゥス、プルタルコスなどの歴史書を愛読していたことが知られている。特にアレクサンドロス大王には並々ならぬ畏敬の念を抱き、インド遠征や多数の学者を帯同したことも熟知していた。事実、ナポレオンはこのエジプト遠征に多くの学者を同行させている。目的の一つは、古代エジプト時代に存在したといわれるナイル川と紅海を結ぶ「ファラオの運河」の調査であった。当時はまだスエズ運河は開通しておらず、彼のこの調査は後のスエズ運河建設に影響を与えたとされる。
 さらに余談を一つ、アッコン包囲戦からエジプトへ帰還したナポレオンは、軍の再編を進め、迫りくるオスマン帝国軍とのアブキール陸戦に備えていた。その10日前、1799年7月15日頃、ナイル川河口に位置する「ジュリアン要塞」の修築作業中に、世界的大発見がもたらされた。ジュリアン要塞は、ラシード(アラビア語名、ヨーロッパ語ではロゼッタ)市の北西約5km、ナイル川が地中海に注ぐデルタ地帯にあり、河口を見下ろす軍事上の要衝であった。フランス軍は、将来予想されるイギリス軍との戦闘に備え、この要塞を防衛線の拠点とするため修築していた。要塞は過去にオスマン帝国によって改修されており、その際に古代エジプトの石碑が建材として再利用されていた。
 1799年7月15日、修築作業中に「黒色の美しい石碑」が掘り出された。これが後に「ロゼッタストーン」と呼ばれる石碑であった。発見者はピエール=フランソワ・ブシャール大尉であり、当時ナイル・デルタ地帯の司令官を務めていたメヌー将軍は、その重要性を直ちに理解した。メヌー将軍は同行していた学者に石碑の内容を写し取らせ、ヨーロッパ各地の学者に送るよう命じた。これの石碑は後に1822年、シャンポリオンによるヒエログリフ解読の決定的な手掛かりとなる。ナポレオンの数ある功罪の中にあっても、エジプト遠征は人類文化史に輝く貢献であったと言える。
 さて、話を元に戻そう。
 1799年8月23日、エジプトを出発したナポレオン一行は、同年10月8日または9日に、フランス南部トゥーロン近くの港町フレジュスに上陸した。その際、市民は本来必要とされる入港者の検疫を無視してまで彼を歓迎し、ナポレオンを英雄として出迎えたと伝えられている。
 さらに、ナポレオンはフレジュスからパリへ陸路で向かう途中、各地で群衆が押し寄せ、まるで凱旋将軍の帰還のように熱狂的な出迎えを受けた。この旅路によって、ナポレオンの人気と求心力は一気に高まり、彼を政治の舞台の中心へと押し上げることになった。
 1799年10月16日、ナポレオンはパリに到着した。彼は直ちに政界の中心人物であるシェイエスらと接触し、クーデターの準備を開始した。そして同年11月9日(革命歴ブリュメール18日)、クーデターを成功させ、第一執政(第一統領)として政権を掌握し、フランスの最高権力者となった。
 第一統領となったナポレオンを待ち受けていたのは、北イタリアで勢力を回復し、フランス軍を圧倒しつつあったオーストリア軍との戦いであった。ナポレオンは1800年5月、敬愛するカルタゴの将軍ハンニバルにならい、予備軍3万7千を率いてアルプスのグラン・サン・ベルナール峠(ハンニバルが越えた峠は未だ不明)を越え、北イタリアへ侵入した。
 1800年6月14日、イタリア北部ピエモンテ州アレッサンドリア近郊、マレンゴ村周辺の平原で大規模なマレンゴの戦い行われた。前日の13日早朝は激しい雨で、軽騎兵隊の斥候も敵の痕跡を発見できず、これによりナポレオンはメラス将軍が意図的に行動を避けているという確信を強めた。錯綜する情報の中で、ナポレオンはオーストリア軍が撤退中で戦意はないと誤認していたのである。
 「メラス将軍が次の日の戦闘にすべてを賭けようと決したことなどボナパルトは知る由もなかった。オーストリア軍総司令官は、ボナパルトおよびベルティエ指揮下の予備軍がマッセナおよびシュシェ指揮下のイタリア方面軍と合流することを何よりも恐れていた。しかもその軍隊がいま西方から襲ってくるのである。メラスは、両軍の合流がなされる前に、6月14日にまず予備軍を叩いてしまって、マントヴァおよびオーストリアとの連絡路も再開しようと目論んでいたのである。彼がジェノヴァへの撤退を考えていたのは、あくまでも戦闘に敗北したときのことだった。」『ナポレオン戦争』著者:ディヴィッド・ジェフリー・チャンドラー、共訳:君塚直隆/糸多郁子/竹村厚士/竹本知行
 メラス将軍は夜間のうちに攻撃の準備を整え、早朝にフランス軍へ奇襲を仕掛けた。フランス軍は不意を突かれて戦線の維持が困難となり、正午頃にはほぼ敗走状態に陥った。ナポレオン自身も敗北を覚悟したとされる。しかし、歴史の流れはそれを許さなかった。前日、ナポレオンは側近ドゼー将軍の部隊を別方向に移動させていたが、ナポレオンは副官を通じてラポワプ将軍とドゼー将軍に急ぎ帰還を命じた。この命令を午後1時に受け取ったドゼーは、泥まみれになりながら午後3時前に戦場へ駆けつけた。研究者の中には、召還命令が届く前から、ドゼーはすでに大砲の音を頼りに戦場へ向かっていたとする説もある。
 そして、その時ナポレオンとドゼーが交わした有名な言葉を紹介しておこう。
 『「この戦闘は完全に敗北しました。しかしまだ二時です〔実際には三時だったが〕。もう一戦交えれば勝利が得られます」。タイミングの良い加勢に元気づけられて疲れ切っていた兵士たちの心身はよみがえった。ボナパルトは兵士たちの間を馬で駆けめぐってこう叫んだ。「兵士たちよ、諸君はもう撤退する必要はない。余が戦場をすみかとしていることを諸君も知っているだろう」。さらに「元気を出せ!」と執政付き親衛隊の曹長に檄を飛ばした。」』『ナポレオン戦争』著者:ディヴィッド・ジェフリー・チャンドラー、共訳:君塚直隆/糸多郁子/竹村厚士/竹本知行
 ドゼーの到着により、フランス軍は一気に反撃へ転じた。集中砲火によってオーストリア軍中央部を崩し、ついに戦局を逆転させたのである。マレンゴの戦いは、第一執政ナポレオンの名声をさらに高め、「フランスの救国者」としての評価を決定づけた。
 1802年、アミアンの和約によってイギリスと講和が成立し、フランス革命以来初めての「平和」が訪れた。これにより、ナポレオンは国内改革に着手した。その中心となったのが中央集権化政策であり、「ナポレオン法典」の準備や、帝国運営に必要な人材不足を解消するための教育制度改革が開始された。
 1802年3月25日、イギリスとの「アミアンの和約」が締結された。
 イギリスは当時占領していた、マルタ島をヨハネ騎士団に、ケープ植民地(南アフリカ)をオランダ(バタヴィア共和国)にそれぞれ返還することとなった。ただし、セイロン島とトリニダード島の保持はイギリスに認められた。一方、フランスはナポリ王国およびローマ教皇領から軍を撤退することが決定され、こうしてヨーロッパには約一年間の平和が訪れた。
 しかし、1803年5月18日、イギリスは再びフランスに対して宣戦布告し、アミアンの和約は破綻した。戦争状態への逆戻りを受け、ナポレオンは元老院を通じた政治権力の集中、反対派の排除、報道・出版の統制、警察権力の拡大などを進め、国内統制を一段と強化した。さらに、国内改革の中心に据えて準備を進めてきた「ナポレオン法典」の施行に踏み切る。革命以前のフランスでは、北部は慣習法、南部はローマ法と地域ごとに異なる法体系が併存し、法律はまさにモザイク状であった。全国統一の法体系を整備することは喫緊の課題であり、革命の理念である「法の下の平等」や「所有権の保障」を制度として確立することは、フランスを近代国家として世界に示す重要な一歩でもあった。
 ナポレオンは自身の権力基盤を強化し、政治の統治の正当性を示すためにも、この民法典に自らの名を冠して「ナポレオン法典」とした。この法典は「世界最初の近代的法典」と位置づけられ、当時としては革新的な内容を含む法律体系として、各国の法制度に大きな影響を与えた。ここでは法律の体系そのものの詳細には立ち入らないが、この法典はナポレオンが近代国家に示した文化的功績の一つとして数えられるだろう。
 そして、ナポレオンはここからさらに高みへと歩みを進めていくことになる。
 1804年3月、ついにナポレオン法典が公布された。そして、歴史は再び大きく動き始める。
 同じ月、亡命ブルボン家を揺るがす「エンギアン公事件」が発生した。エンギアン公の正式名称はルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデであり、フランス王家ブルボン=コンデの若き王族であった。彼はフランス革命の勃発後に国外へ亡命し、ドイツ南西部のバーデン領エッテンハイム付近に居住していたとされる。彼は、亡命貴族による反革命軍「コンデ軍」に参加していたため帰国は不可能であり、革命によって王家の直系が断絶した後は、亡命貴族の象徴的存在となっていた。
 亡命者たちにとって、第一統領として国家の最高権力を握ったナポレオンは王権の簒奪者であり、彼を排除するための陰謀や暗殺計画が複数進行していた。ナポレオンはその背後にブルボン王家の関与を疑い、強硬策に踏み切る。
 1804年3月、フランス軍は中立国バーデン領に越境してエンギアン公を拉致し、パリ近郊ヴァンセンヌ城へ連行した。彼は軍事委員会による迅速な審問を受け、3月21日未明、城の堀で銃殺刑に処された。この事件はヨーロッパ中に衝撃を与え、ナポレオンとブルボン家の和解の可能性を完全に断ち切ったのである。
 『ナポレオン戦争』と題する書の、エンギアン事件について抜粋し紹介しよう。
 「1804年3月にアンギャン(エンギアン)公爵が誘拐され殺害されたときであった。この不運なブルボン家の御曹司は、中立国バーデンのエッテンハイムでフランス騎兵隊に捕まり、ヴァンセンヌ城に拉致された後、カドゥーダルの陰謀事件に連座したとするでっちあげの罪で3月21日の夜明け前に銃殺されてしまったのだ。王党派に対して決して忘れられないほどの報復に訴えたボナパルトの姿には、ヤッファあるいはカイロ砦での虐殺を彷彿とさせるような、情け容赦のない執念深い怒りが込められていたのである。あの皮肉屋のフーシェでさえ、ご主人様に抗議を試みたほどだった。(と事件のだいぶ後に述べている)。「『貴兄が何を言いに来たかはわかっておる』と彼(ボナパルト)は言った。『本日は、絶対に必要なことを申し上げに参りました』。私は、もしアンギャン公がエッテンハイムで陰謀に加担していたことを示す確かな証拠をねつ造しなければ、ヨーロッパ全土はおろかフランスでも大変な騒ぎになりますぞ、と指摘した。『なんの証拠がいるのだ?』と彼は叫んだ。『ヤツはブルボンじゃないか?しかも、そのなかで最も危険なひとりだった』。私はこの事件は国家理性を覆してしまったと主張した。『これは犯罪どころではございません。完全に誤りです』と断言した」しかし、我らがコルシカ人は、ブルボン家との血の抗争をさらに続けていくことに決め、反対派への有効な見せしめとしたのである」。『ナポレオン戦争』著者:ディヴィッド・ジェフリー・チャンドラー、共訳:君塚直隆/糸多郁子/竹村厚士/竹本知行
 この文章が示唆するのは、ブルボン王家の支配体制がすでに崩壊し、旧体制の正当性が完全に終焉を迎えていたという事実である。そのような状況下でナポレオンに求められた第一の使命は、国家の安定を確保することだった。そのためには、反体制派や王党派の動き、とりわけ政権中枢への暗殺計画や国家秩序を揺るがす行動を断固として抑え込む必要があった。エンギアン公爵の処刑は、新たに成立しつつあった国家体制において「旧王家の血統はもはや特権として扱われない」という強烈な宣言であり、新皇帝に敵対する行為は厳しく罰せられるという、新体制の規律と覚悟を示す象徴的な事件であった。
 もっとも、現代において国家運営の危機を理由に、何ら証拠もないままエンギアン公爵を有罪とし射殺する行為を全面的に肯定することはできない。それは歴史的文脈を無視した時代錯誤に陥る危険があり、法治国家の枠組みで生きる私たちには、過去の出来事から学びつつ、より熟成した社会へと進化し続ける必要があるからである。
 こうした「ブルボン王家の血統でも厳しく罰せられる」という姿勢は、王党派の行動を一気に沈静化させた。この事件を契機として、ナポレオンは「国家の守護者・指導者」として市民からの支持を強め、元老院が新しい皇帝を推戴するための土壌が整っていった。
 1804年5月18日、元老院から推戴されたナポレオンは、ついにフランス皇帝として即位することとなる。エンギアン事件からわずか二か月後のことであった。
 これまでヨーロッパの歴史を、ナポレオン戦争に至るまで時間をかけて辿って来た。そしてようやく、このエッセイの主人公であるイマヌエル・カントの登場となる。ここでいったんヨーロッパ史の筆を置き、これからはカントのことについて書き進めていきたい。
 ナポレオン・ボナパルトは、コルシカ島がフランス領となった1769年8月15日、同島のアジャッチョに生まれた。そして1804年5月18日、フランス皇帝として即位した。
 一方、イマヌエル・カントは1724年4月22日、東プロイセン王国ケーニヒスベルクに生まれ、1804年2月12日同地において生涯を閉じた。

【カント・永遠の平和のこと】  ナポレオンは、フランス革命後のヨーロッパにおける時代の変革者であった。そしてカントは、同時代の哲学における変革者であった。二人の変革者のうち、一人が人生の最高位へと上りつめたとき、もう一人は静かにこの世を去って行った。
 激動のヨーロッパ史のただ中にありながら、18世紀から19世紀を通じてケーニヒスベルクという“孤島“のような都市で暮らし、この地を一度も離れることなく、ひたすら内省し、哲学の道と平和を希求し続けた男  その人生とは、いったいどのようなものだったのか。
 これから、ヨーロッパ激動の時代に生まれ、そして去って行った男の謎を解き明かす旅へと歩みを進めていきたい。
 カントが生まれた1724年は、大北方戦争(1700-1721)が終結した直後であり、ロシア・ツァーリ国はニスタット条約(1721年)によってエストニア、リヴォニア、イングリア、そしてフィンランド・カレリアの一部を獲得した。この条約によってロシアは国策であったバルト海への恒常的な出口を確保し、以後「ロシア帝国」を名乗り、北欧の勢力図は大きく塗り替えられることになった。さらにケーニヒスベルクでは、1701年にホ―エンツォレルン家が同地で戴冠式を挙げ、「プロイセン王国」が誕生してから間もない時期であったため、王国発祥の地として象徴的な地位を有していた。一方で、ポーランド領によってブランデンブルク=プロイセン本土とは隔てられており、「プロイセンの飛び地」として地政学的に不安定な側面も抱えていた。
 父ヨハン・ゲオルク・カントは馬具職人であった。ケーニヒスベルクはもともとドイツ騎士団が建設した都市であり、軍事的性格の強い土地柄であったことから、当時の馬具職人は多忙極める職種であったと推察される。母アンナ・レギオーナ・カントは、ピエティズム(敬虔主義)の影響を強く受けた女性であった。ピエティズムとは、17世紀から18世紀にかけてのプロテスタント運動で、形式的な宗教教義よりも、内面の敬虔・道徳・個人の良心を重視する思想を指す。このため、幼少期のカントは、母親のピエティズム的な思想環境のもとで厳しく育てられた。この母から受けた教育は、成人後のカントの内面性を形づくる重要な要素となったに違いない。
 1740年、カントはケーニヒスベルク大学(アルベルティナ)に入学した。同じ年、ハプスブルク帝国のカール六世が死去する。彼には男子の後継者がいなかったため、あらかじめ「国事勅書(プラグマティック・サンクション)」を発布し、娘マリア・テレジアへの継承を諸国に承認させていた。しかし、プロイセン王フリードリッヒ2世はこれを認めず、1740年12月、ハプスブルク領シレジア(現在のポーランドの南西部)へ侵攻した。これがオーストリア継承戦争(1740年―1748年)の始まりである。この戦争の結果、ハプスブルク帝国は、1748年アーヘンの和約によってシレジアをプロイセン王国に割譲することになったが、マリア・テレジアはその後、行政・財政・軍事にわたる大規模な改革を断行し、国家の再建に成功した。こうしてハプスブルク帝国は再び強国としての地位を確立し、プロイセン王国と並び立つ中欧の二大勢力として認識されるようになっていく時代であった。
 1746年から1755年頃、カントは大学を離れ、貴族や富裕市民の家庭で家庭教師として働いた。これは、同年に父ヨハン・ゲオルク・カントが死去し、経済的事情から大学での学問を続けることが困難になったためである。カント22歳の出来事であった。
 こうして彼は生活のために三つの家庭で家庭教師を務め、この生活は九年間続いた。しかし、この経験は若きカントにとって視野を広げる貴重な機会となった。家庭教師として働くことで社交界との接触を得ただけではなく、雇い主の家族に同行してケーニヒスベルクから約96㎞離れたアルンスドルフまで旅をする機会にも恵まれた。もっとも、学問に専心するようになってからは、その後の生涯をほぼこの都市で過ごすことになる。
 それでは、カントが家庭教師として働いていた時期、ヨーロッパの歴史はどのような状況にあったのかみて見よう。
 1746年当時、ヨーロッパではオーストリア継承戦争が継続していたが、この戦争は1748年10月18日に締結されたアーヘンの和約によって終結した。翌1749年には、各国が戦後処理と財政再建に取り組む段階へと移行した。特にフランスでは、絶対王政のもとで議会が十分に機能せず、税制の不公平や行政不敗などの構造的問題が重なり、戦後の財政難が深刻化していた。こうした財政危機は、後にフランス革命へとつながる長期的な要因の一つとなった。一方、イギリスでは17世紀末から財政制度の整備が進み、議会による税制管理や金融制度の発展が国家財政を支えていた。18隻半ばには、国債が市場で売買される仕組みが確立し、戦後の財政運営においてもフランスとは対照的に安定した基盤を創り上げていた。
 1755年、カントはケーニヒスベルクに戻り、提出した論文が認められて博士号を取得した。家庭教師として働くかたわら、哲学・数学・天文学・自然科学の研究を続けていたカントは、この時期に『火についての新しい説明』を著し、さらに同年には『自然一般史と天界論』を匿名で出版した。この著作は、ニュートン力学に基づく宇宙生成論を提示したもので、カントの名を広く知らしめる契機となった。
 同じ1755年、カントはケーニヒスベルク大学で私講師の資格を得て、正式に講義を開始することになる。それ以後、カントは生涯を通じて、まるで巨大な山脈のような「知の体系」を築き上げた。血なまぐさい戦争と革命が渦巻いた18世紀ヨーロッパにあって、ケーニヒスブルクという帝国の辺境都市に身を置きながら、彼は静かに世界の動乱を見つめつつ、しかし揺るぎない意志で哲学の世界に新たな地平を切り開いていったのである。もしナポレオンがフランス革命後の政治世界を揺り動かした“革命児“であったとすれば、カントは理性の力によって近代哲学を根底から変革した“精神の革命児“であった。彼の思想は、近代文明の基礎を形づくるうえで欠かすことのできない偉業として、今日に至るまで大きな影響を及ぼし続けている。
 ここに、カントの主要著作を年代順に列挙してみよう。
 1747年 『力学と力の真の評価についての考察』
 1749年 『生きた力についての試論』
 1754年―55年 
 ・『地震についての考察』
 ・『地球の回転の減速について』
  ・『風について』
 1755年 
 ・『火についての新しい説明』
 ・『自然一般史と天界論』カント=ラプラスの星雲説の原型
 ・『論理学抗議』
 ・私講師資格(Privatdozent)資格取得
 1762年 『感覚と悟性の明晰化について』
 1763年 『唯一可能な根拠に基づく神の存在証明』
 1764年 『美と崇高の感情に関する考察』
 1766年 『夢想家の夢』
 1768年 『空間の方向性について』
 1770年 『感性と悟性の形式と原理について』
 (通称:1770年論文。批判哲学の出発点)
 1781年 『純粋理性批判』(第1版)
 1783年 『プロレゴメナ』
 1785年 『道徳形而上学の基礎づけ』
 1786年 『自然科学の形而上学的原理』
 1787年 『純粋理性批判』(第2版)
 1788年 『実践理性批判』
 1790年 『判断力批判』
 1793年 『宗教の限界内での理性』
 1795年 『永遠の平和のために』
 1797年 『法論(法学の形而上学的原理)』
 1797年 『倫理学(徳論)』
 1798年 『人間学』
 1798年 『諸大学の争い』
 1800年 『論理学(ヤーシェ編)』
 1804年  カント逝去(享年79歳)
 これから筆者が取り組むのは、1795年、71歳となった晩年のカントが著した『永遠の平和のために』である。
 すでに述べたように、この書が執筆された時期、ヨーロッパではロシア帝国・プロイセン王国・ハプスブルク帝国の三国によって第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド・リトアニア王国が地図上から消滅した。またフランスでは、1794年に恐怖政治の主導者ロベスピエールが失脚したのち、政治的混乱と深刻な経済的危機が続き、さらにフランス革命戦争のただ中にあった。
 カントはこの時期、“三批判書“(『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』)と呼ばれる、人間の知・行為・感性の全領域を理性のもとに統合しようとする大著を完成させ、自身の哲学体系をほぼ確立していた。その後、彼は自らが生きる時代の「ヨーロッパの現実」を鋭く見つめながら、本書『永遠の平和のために』を執筆したとされている。カントが居住したケーニヒスベルク(プロイセン王国)は、当時フランス革命戦争の渦中にあり、祖国プロイセンは第一次対仏同盟の一員としてフランスと戦っていた。とりわけ、1795年にはロシア帝国・プロイセン王国・ハプスブルク帝国の三国によって第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド・リトアニア王国が地図上から消滅するという出来事や、フランスでは恐怖政治の主導者ロベスピエールが1794年に失脚し、政治的混乱と経済危機が続く中で革命戦争がなお継続していた。これらの状況を、カントは遠くケーニヒスブルクから静かに見守っていた。こうした強国による弱小国の併呑、革命による旧体制の急速な崩壊、そしてヨーロッパ全体を巻き込んでの戦争の連鎖を目の当たりにしながら、カントの胸中には「理性による平和」を希求する思いが、静かに、しかし強烈な炎となって燃え上がっていたに違いない。
 それでは、本書『永遠の平和のために』の内容へと踏み込んでいこう。
 本書は、六つの部から成る構成の中にカントの英知を凝縮し、「永遠の平和」という理念を哲学的に語り尽くした書である。
 まずは、その前文について紹介したい。

【永遠平和のために】
 『「永遠平和のために」というこの風刺的な標題は、あのオランダ人の旅館業者が看板に記していた文字で、その上には墓地が描かれていたりしたが、ところでこの風刺的な標題が、人間一般にかかわりをもつのか、それともとくに、戦争に飽きようともしない国家元首たちにかかわるのか、それともたんに、そうした甘い夢を見ている哲学者たちだけにかかわるのか、といった問題は、未決定のままにしておこう。ただこの考案の作者は、次のことを留保しておきたい。すなわち、実務にたずさわる政治家は、理論的な政治学者とは仲が悪く、並はずれたうぬぼれをもって政治学者を机上の空論家と蔑視し、国家はもともと経験の諸原則に基づくはずのものであるから、政治学者が無内容な理念を説いても国家にはどんな危険ももたらすことはないであろうし、かれをして九柱戯のピンを一時に十一本倒させることがあっても、世間に通じた政治家はそれを気にする必要はない、と考えている。そうだとすれば、そうした政治家は、理論的な政治学者と論争する場合にも一貫した態度をとるべきであって、相手が無鉄砲に企てて世間に公表した意見の背後に、国家に対する危険をかぎとったりしてはならないであろう。  以上の留保条款によって、この考案の筆者は、悪意にみちたあらゆる解釈から完全な形ではっきり保護されていることを願っている」。』『永遠の平和のために』著者:カント、訳:宇都宮芳明
 カントの前文は、まず風刺のきいた一つの逸話から始まる。
 『永遠平和のために』という標題は、オランダの旅館の看板に記されていた言葉であり、その文字の上には墓場の絵が描かれていたという。死後にこそ「永遠の平和」が訪れるという皮肉を込めたこの看板は、人類全体を嘲笑っているのか、戦争を好む国家指導者を揶揄しているのか、あるいは理想の平和を夢見る哲学者を笑っているのか
 その判断はひとまず保留しておこう、とカントは述べている。

【第一章】
 次に本文について見ていこう。
 第一章 この章は、国家間の永遠平和のための予備条項を含む
 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約
      とみなされてはならない。
 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問
 題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。
 第三条項 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。
 第四条項 国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。
 第五条項 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。
 『永遠の平和のために』著者:カント、訳:宇都宮芳明
 この予備条項は、カントが「永遠平和」への入り口として提示した「消極的平和」の条件であり、戦争の原因となる行為を禁止したものである。
 これらを読むと、カントが本書を執筆した当時のヨーロッパ情勢が鮮明に反映されていることがよくわかる。
 プロイセン王国は、1795年4月5日に革命フランスとの戦争をいったん終結させるため、バーゼル条約を締結した(この日付は歴史的事実として確立している)。そして同年10月の第三次ポーランド分割では、プロイセンはポーランド北部および西部の領域(ポドラシェ地方)を併合し、ワルシャワ周辺の一部も支配下に置いた。強国とは和解し、弱小国の領土を分割して獲得するというこの行動は、力の論理に従った「理性なき政治」であり、「道徳なき国家行動」であった。カントにとって、こうした現実政治は到底容認できるものではなかったのである。
 カントはすぐ行動を起こした。その数か月後、1795年8月15日付の手紙で、ケーニヒスベルクの出版社ニコロヴィウスに『永遠の平和のために』の原稿を送ったとされている。

【第二章】
 では、次に第二章へと移ろう。
 第二章 この章は、国家の永遠平和のための確定条項を含む
 第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。
 第二確定条項 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
 第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。『永遠の平和のために』著者:カント、訳:宇都宮芳明
 第二章は、第一章が「戦争を引き起こす行為の禁止」という消極的平和の条件を示していたのに対し、「永遠平和を実現するための積極的な制度」を提示するものである。ここでカントは、国内体制は共和的であるべきこと、国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎づけられるべきこと、そして世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されるべきことを示し、永遠平和が制度によって維持可能になるという思想を明確に打ち出した。  カントが国家の構造を分析する際に重視したのは、共和制国家であれば開戦の意思決定が国民に委ねられるため、専制国家のように統治者の判断だけで戦争に踏み切るよりも、戦争を回避できる可能性が高いとの判断であった。その共和的な主権国家が互いに自由を保ちながら、戦争を避けるために連合を結ぶことで永遠平和を維持する――これがカントの構想であった。そしてこの構想は、後の国際連盟や国際連合の思想的源流となったとされる。

【第一補説・永遠平和の保障について】
 続いて、「第一補説・永遠平和の保障について」において、カントは何が永平和を保障するのかを自問し、その答えを探っている。
 彼が示す永遠平和の最終的な保障は「自然の摂理」であり、自然が国家を平和へと導く仕組みを三つのメカニズムとして説明している。
 第一のメカニズムは、国家が他国との関係において利益を追求し、国力が増すほど友好関係が生まれ、相互依存が深まることで、損失をもたらす戦争を避けるようになるという点にある。つまり、国家が自国の利害を追求すればするほど、その行動が結果として平和を生む方向へ働くという、自然の摂理を示している。
 第二のメカニズムは、専制国家が戦争を始めやすく、結果として自らを疲弊させる構造を持つため、国家はより安定した共和体制へと向かうという点にある。国家は生き残りのために、戦争を避ける制度を選ぶ方向へ導かれるという、自然の摂理を示している。
 第三のメカニズムは、自然が国家(諸民族)を地理的に分離することによって、言語・宗教・風土の違いが生まれ、世界が専制的な世界帝国に統合されることを防ぐ点にある。その結果、国家は互いの自由を保ちながら連合を結ぶ方向へ導かれるという、自然の摂理を示している。
 この三つのメカニズムが示しているのは、自然がまず、国家の利害追及を通じて相互依存を深め、戦争を避ける方向へと導いているという点である。さらに自然は、戦争を始めやすい専制国家が自らを疲弊させる構造を持つことによって、国家をより安定した共和的体制へと向かわせる働きを果たす。また自然は、国家を地理的に分離することで言語・宗教・風土の違いを生じさせ、世界が専制的な世界帝国へと統合されることを防いでいる。これらの働きによって、「永遠の世界平和」は「自然の摂理」によって保障されるという結論が導き出されるのである。

【第二補説・永遠平和のための秘密条項】
 次に、「第二補説・永遠平和のための秘密条項」において、カントは政治家に対し「哲学者の意見を聞くべき」だと主張する。
 カントは、政治家だけでは世界の平和を築くことできないと考えていた。なぜなら、政治家は、利害・権力・国益・外交上の駆け引きに縛られ、ときに戦争をも外交の手段として用いてしまう危うさを抱えているからである。
 これに対し哲学者は、理性の法則に従い、普遍的な正義や道徳法則、人類全体の利益を基準に思考する。そのため哲学者の言葉は、政治家にとって「耳の痛い」批判となり、しばしば反発を招くことをカントは理解していた。国家間の条約に「政治家は哲学者の意見を聞かなければならない」と明記すれば、政治家にとっては屈辱と受け取られ、到底受け入れられないであろう。そこでカントは、この文言を条約の表面には記さず、平和を維持するための“裏の条件“として置くことを意図して、これを「秘密条項」と呼んだのである。こうして政治家は、国益・権力・名誉・利害といった短期的な動機に流され「私的理性」によって戦争へ傾くことのないよう、哲学者の「公的理性の声」に耳を傾けるべきだとカントは主張したのである。

【付録・一・永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について】
 さらにカントは、第一付録において「道徳」と「政治」の調和について論じている。
 ここでカントは、道徳と政治は最終的には一致しなければならないと説く。道徳とは「理性の法則」であり、政治は「現実の利害」に基づくため、一見すると両者は対立しているように見える。しかし政治は、理性の法則に反しない形で現実の利害との調和を図りつつ進められるべきだとカントは主張する。したがって、政治が道徳に盲目的に屈服する必要はないが、道徳の原理と理性的に整合する方向で運営されるとき、政治は長期的に成功し、平和を実現しうると結論づけた。この結論は、カントが構想する「永遠の平和」を実現するために、政治と道徳がいかなる関係にあるべきかを示した付録の意義を明確にするものである。

【付録・二・公法の先駆的概念による政治と道徳の一致について】
 ここでカントは、「自然の摂理」と「歴史の目的論」について論じている。
 自然の摂理は、国内、国家間、そして世界全体という三つの段階で働くとされ、それぞれに対応する法領域が論じられる。
 まず、国内法について、カントは人間が互いに衝突しやすい存在であることを指摘し、その衝突が逆に「法」の必要性を生み出すと述べる。こうして法治国家が形成され、これこそが自然の摂理が人間を法に基づく共和制国家へと導く働きであるとされる。
 次に、国際法(国家間法)については、国家同士の利害が衝突し、最悪戦争が生じる。しかし自然は、その戦争の悲惨さを通じて、国家間に法と協調の必要性を自覚させる。これもまた、自然の摂理が国家間の平和へと導く働きである。
 さらに世界規模では、自然は人類を「世界市民」として結び付ける方向に働く。商業・貿易・国家間移動・文化交流の拡大により、国家を超えた「世界市民法」が必要となり、自然の摂理は人類に国家を超えた法秩序を求めさせる。
 このように自然は、国内では「国法」、国家間では「国際法」、世界全体では「世界市民法」という三つの領域に働きかけ、人類を永遠の平和へと導く基盤を形成するとカントは結論づける。
 そして、この第二の付録の後に、カントが短く述べている箇所がある。
 「たとえ限りなく前進しながら近づくしかないとしても、公法の状態を実現することが義務であり、実現の希望にも根拠があるとすると、これまで誤ってそう呼ばれてきた平和条約(これは実は休戦にすぎない)のあとに続く真の永遠平和は、決して空虚な理念ではなくて、われわれに課せられた課題である。この課題は次第に解決され、その目標に(同じ量の進歩が起こる期間は、おそらく次第に短くなるから)たえず接近することになろう。」『永遠の平和のために』著者:カント、訳:宇都宮芳明
 ここに第二付録の締めくくりの個所を紹介したのは、この文書こそに、カントが願った「永遠の平和」についての強いメッセージが込められているからである。
 第一付録では道徳と政治の調和が論じられ、第二付録では公法の先駆的概念による政治と道徳の一致が論じられた。そしてこの締めくくりの文章において、カントは永遠の平和を“理念“として位置づける。しかしその理念は、現実を改善し続ける力を持つ。ゆえに「永遠の平和」の実現はけっして絵空事ではなく、人類に課せられた「義務」なのであるという、力強いメッセージとして受け取ることができる。これは、彼の著した『永遠の平和のために』全体を代弁する、重要な“最終付録“とも呼べるものであり、人類への遺言とも言えるだろう。
 最後に、カントが生涯のすべての時間を過ごしたプロイセン王国の都市「ケーニヒスブルク」は、第二次世界大戦後にロシア領となり、現在は「カリーニングラード」と呼ばれている。この地は、美しい「琥珀」の世界最大の産出地としても知られている。
カント肖像/ヨハン・ゴットリープ・ベッカー作/シラー国立博物館蔵(Wikipediaより)
参考文献: ウィキペディア
世界史の窓
『永遠平和のために』著者:カント、訳:宇都宮芳明
『永遠の平和のために』著者:イマヌエル・カント、訳:丘沢静也
『カント』著者:坂部恵
『晩年のカント』著者:中島義道
『カント』著者:坂部恵
『ナポレオン戦争』著者:ディヴィッド・ジェフリー・チャンドラー、共訳:君塚直隆/糸多郁子/竹村厚士/竹本知行
『ナポレオン戦争:十八世紀の危機から世界大戦へ』著者:マイク・ラポート、訳:楠田悠貴
『フランス革命史』著者:J.ミシュレ、訳:桑原武夫/多田道太郎/樋口謹一
『クラウゼヴィッツのナポレオン戦争従軍記』著者:カール・フォン・クラウゼヴィッツ、訳:金森誠也
『皇帝ナポレオン上・下』著者:橋本ひとみ
『ナポレオン四代 二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち 』著者:野村啓介
『『北欧史』著者:百瀬宏・熊野聰・村井誠人
『第一次世界大戦はなぜ始まったのか』著者:別宮暖朗
『第一次世界大戦』著者:木村靖二
『武蔵野大学 学術機関リポジトリ』
『Britannica』
カント肖像画:ヨハン・ゴットリープ・ベッカー作/シラー国立博物館蔵(Wikipediaより取得)