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【ウズベキスタンのこと】


 ウズベキスタンを旅する前、私はその国についてほとんど知識を持っていなかった。せいぜい「サマルカンド」という地名を耳にしたことがある程度であった。
 そして実際にその街を訪れ、晴天の青空を背景にレギスタン広場を囲む三つの壮麗なマドラサの姿を目にしたとき、私は圧倒され、ただ立ちつくすばかりであった。
 レギスタン広場には、ウルグ・ベク・マドラサ、シェルドル・マドラサ、ティラカリ・マドラサの三つのイスラーム神学校が並んでいる。

 ここに掲載した写真は、筆者が夜間ライトアップされたレギスタン広場を撮影したものである。
 正面(北側)が黄金の装飾が輝くティラカリ・マドラサ、左側(西側)には最も古く天文学者ウルグ・ベクが建設し幾何学模様が美しいウルグ・ベク・マドラサ、右側(東側)には鮮やかな虎と太陽のモチーフが描かれたシェルドル・マドラサが立ち並んでいる。
 サマルカンドは別名「青の都」と呼ばれ、ティムール帝国の栄華を今に伝える、旅人の心を捉えて離さない魅力あふれる都市である。
 さて、それではウズベキスタンについて紹介しよう。
 「ウズベク」は中央アジアの主要民族であるウズベク族に由来し、「スタン」はペルシア語で「土地」や「場所」を意味する言葉である。両者を合わせた「ウズベキスタン」は、すなわち「ウズベク人の土地」という意味になる。
 ウズベキスタンの歴史は、紀元前2千年頃、この地域にインド・イラン系の民族が移住し、アムダリヤ川・シルダリヤ川流域の肥沃な土地で農耕と牧畜を営み始めたことに始まるとされている。さらに時代を下り、紀元前8世紀から7世紀にかけて現在のサマルカンド地域にイラン系ソグド人が定住し、農耕と交易を行うことで都市が形成されていった。彼らは多言語を操り交易に長け、シルクロードの要衝としてサマルカンドやブハラなどの都市を維持・発展させた。紀元前6世紀頃、アケメネス朝ペルシアの支配下に入ると、サマルカンドはシルクロードの交易都市として発展し、東西の文化が融合する拠点となった。さらに紀元前4世紀には、アレクサンドロス大王の東方遠征によってヘレニズム文化がもたらされ、芸術・宗教・言語の多様化が進み、サマルカンド(当時「マラカンダ」)は文明の交差点として重要な役割を果たした。この頃、ソグディアナと呼ばれるこの地域(現在のウズベキスタンやタジキスタン北部)は、統一国家ではなく、サマルカンドやブハラなどの都市国家が並立していた。紀元前3世紀~2世紀には、ギリシア・バクトリア王国の侵攻によってギリシア文化と現地文化が融合し、交易の繫栄がさらに促進された。
 紀元前2世紀後半には、遊牧民の大月氏(ダイゲッシ)が西方へ移動し、バクトリアを征服した。その後、紀元1~3世紀にかけて大月氏の一派から成立したクシャーナ朝の支配により、仏教やインド文化が流入し、交易の拡大、宗教の多様化、貨幣制度の定着、ヘレニズム文化とイラン系文化の融合が進んだ。これによってソグディアナ地域やバクトリア地域(現在のアフガニスタン北部やタジキスタン南部)は文明の交差点としての役割をさらに増大させた。
 5世紀には、エフタル(白匈奴)と呼ばれる騎馬民族系の遊牧国家に支配されることになった。彼らはこの地域以外にもインド北部やガンダーラ地方に侵攻した。エフタルはこの地に根付いていたソロアスター教や仏教を取り込み宗教の多様性を拡大し、さらにシルクロード文化交流の大きな礎を築いた。
 6世紀になると、エフタルはサーサーン朝ペルシアと突厥(テュルク系遊牧民族)の連合軍(同盟国)との戦いに敗れ、急速に衰退した。エフタル滅亡後、ソグディアナやバクトリアは西突厥可汗国の宗主権下に入り、その庇護のもとで交易ネットワークをさらに拡大していった。
 8世紀初頭、アラブの王朝であるウマイヤ朝の軍勢がソグディアナに侵入し、サマルカンドやブハラを征服した。以降、この地域は「マー・ワラー・アンナフル(川向こうの地)」と呼ばれるようになった。その結果、この地で信仰されていたゾロアスター教やマニ教、仏教に代わってイスラーム教が広まり、イスラーム文化が急速に浸透していった。交易言語としてのソグド語も「新生ペルシア語」へと置き換えられ、ソグド語は徐々に衰退していった。やがてサマルカンドやブハラはイスラーム文化の拠点となり、モスクやマドラサの建設が奨められるようになった。
 ここで、「新生ペルシア語」について触れておこう。
 ペルシア語は古代から現代に至るまで、ペルシア系王朝とともにイラン高原を軸にその支配領域に応じて変遷を遂げてきた。「古代ペルシア語」はアケメネス朝において紀元前6世紀から紀元前4世紀ころまで使用され、帝国の碑文や勅令などが楔形文字で記録されていることが確認されている。「中世ペルシア語」は、サーサーン朝において3世紀から7世紀頃までイラン高原全域で用いられ、行政文書やゾロアスター教の文献などに使用された。そして「新生ペルシア語」は、アラビア文字を用いて表記されるようになったペルシア語であり、9世紀以降サーマーン朝のもとでイラン高原から中央アジアへと広がった。サマルカンドやブハラといったシルクロードの重要拠点においても、文学や学問の共通語として定着した。この新生ペルシア語はアラビア語から多くの語彙を取り入れてイスラーム文化圏の共通語として発展し、11世紀から15世紀にかけてのガズナ朝・セルジューク朝・ティムール朝時代には、宮廷文化や学問の言語として広範囲に使用されるようになった。こうして文法や語彙の体系が整い、現在使用されている「現代ペルシア語」の基本的構造が完成していった。16世紀にサファ―ヴィー朝が成立すると、イラン高原ではペルシア語が国家の公用語として制度的に整備され、その結果、現在の「現代ペルシア語」の形が確立された。現在、中央アジア各国の公用語は、ウズベキスタンでは「ウズベク語」、タジキスタンでは「タジク語」、トルクメニスタンでは「トルクメン語」、カザフスタンでは「カザフ語」と「ロシア語」、キルギスでは「キルギス語」と「ロシア語」である。この中で、「タジク語」は現代ペルシア語の一変種であり、互いに高い相互理解性を持つとされる。一方、ウズベク語・トルクメン語・カザフ語・キルギス語はペルシア語文化の影響を強く受け、その結果、多くの借用語(多言語から取り入れられ、自分の言語の一部として定着さえた単語)を多く含んでいるとされている。
 以上、ペルシア語について触れたが、ここで話をもとに戻すことにしよう。
 その後、8世紀中頃にウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされると、ソグディアナやバクトリアはアッバース朝の支配下に入った。9世紀初頭には、アッバース朝の東方支配を担うホラーサーン総督としてターヒル朝が成立し、この地域を統治した。やがてターヒル朝は9世紀末にサッファール朝によって滅ぼされた。サッファール朝は軍事色の濃い政権で、アッバース朝に従属の姿勢を見せながらも、独立的な支配を強化していた。しかし、10世紀初頭にはソグディアナを中心に台頭してきたサーマーン朝とアッバース朝からの圧力により衰退した。サーマーン朝はペルシア系王朝で、ブハラを首都として新生ペルシア語文学が花開き、イスラーム法学・神学の学者がブハラに集まり、イスラーム文化と学問の中心地として中央アジア文明の基礎を築いた。しかし、サーマーン朝は多くの分家によって領地の分割統治がなされていたため、王位継承を巡る争いが絶えなかった。さらに、外部勢力であるカラハン朝とガズナ朝からの挟撃によって、11世紀初頭に滅亡した。
 その後、サーマーン朝の領土の大半はカラハン朝の支配下に入った。その結果、サマルカンドやブハラではイスラーム化がさらに進展した。一方、南方のホラサーンやアフガニスタンはガズナ朝の支配下となり、ガズナ朝はイスラーム勢力のインド方面への進出を推し進めた。
 11世紀の中頃になると、テュルク系のセルジューク朝は勢力を拡大し、初期の首都レイ(後にイスファハーンへ移る)を拠点として、1055年にはトゥグリル・ベクがバグダードに入城し、アッバース朝カリフから「スルタン」の称号を授けられるまでになった。これは、圧倒的な軍事力を有するセルジューク朝がすでに政治的な実権を掌握し、カリフを事実上その庇護下に置いていたことを意味する。セルジューク朝は、シルクロードの要衝であるサマルカンドやブハラを含む中央アジア、イラン、イラクの広大な領域を支配する帝国規模となり、イスラーム文化はさらに定着していった。こうして、歴史的にはこの王朝は大セルジューク朝と呼ばれる。
 大セルジューク朝は、中央財政の負担軽減、軍事組織の持続的維持、地方統治の安定化を目的としてイクタ―制を採用した。
 ここでは、このイクタ―制度について補足的に説明しよう。
 イクタ―制とは、国家が官僚や軍人に対して支配地の所有権ではなく、その土地から得られる税収の徴収権をあたえる制度である。いわゆる封建制度の領主権とは異なり、土地そのものの支配ではなく収益の徴収権が付与される点に特徴がある。この徴税権を持つ者をムクタ―と呼ぶ。ムクタ―は税を徴収する代わりに、軍役の提供、治安維持、公共施設や灌漑設備の保全などの義務を負った。この権利は売買を禁じられ、原則として世襲も認められず、一代限りとされた。また、イクタ―を与えるかどうか、誰に与えるか、あるいは与えたものを取り上げるかは国家の裁量に委ねられていた。こうした制度は短期的には統治の効率化を促したが、長期的には地方権力の自立を促し、分権化を加速させる結果ともなった。
 12世紀になると、イクタ―制度の長期的な弊害によって大セルジューク朝の権威は弱まり、地方分権化が進んだ。大セルジューク朝の分裂後は、いわゆる小セルジューク朝と呼ばれるルーム・セルジューク朝、イラク・セルジューク朝、キルマン・セルジューク朝、さらに地方軍事指導者によるアタベク政権(モースル、アゼルバイジャン)を含め、イランやシリアを中心に複数の派閥・地方政権が並立するようになった。こうして、大セルジューク朝は最後のスルタン・アフマド・サンジャルの死によって事実上崩壊したのである。その後、ルーム・セルジューク朝が、当時首都をコンスタンティノプール(現イスタンブール)に置くビザンツ帝国(東ローマ帝国)から奪ったアナトリア中部を基盤に繁栄した。このルーム・セルジューク朝も、ホラムズ・シャー朝やモンゴル軍の侵攻によって弱体化し、14世紀初頭には消滅したが、その社会基盤は後のオスマン帝国に引き継がれる形となった。こうして中央アジアでは、セルジューク朝の地方総督であったアヌーシュテギーン家が独立し、勢力を拡大して支配することとなった。この王朝は、アム川下流域に広がるウズベキスタン西部からトルクメニスタンにかけての地方を指す「ホラズム」と、ペルシア語で王を意味する「シャー」とを合わせて「ホラムズ・シャー朝」と呼ばれた。
 ホラズム・シャー朝は、古代からの要衝であるサマルカンドやブハラなどの主要都市を支配し、商業・学問・文化の発展を促すとともに、シルクロードの要衝としての繁栄をもたらすなど大きな功績を残した。
 しかし13世紀初頭、急速に勢力を拡大していたモンゴル帝国との関係が悪化した1218年のオトラル事件では、モンゴル帝国が派遣した商業使節団をオトラルの総督がスパイと疑い殺害したため、両国の友好関係は決定的に破綻した。翌1219年、チンギス・ハン率いるモンゴル軍が中央アジアに侵攻し、次々と都市が陥落した。ホラムズ・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドは逃亡を続け、最終的にカスピ海沿岸で病死した。その後、息子ジャラールッディーン・メングベルディーが一時的に抵抗を続けたが、度重なる敗北の末に1231年に殺害され、ここにホラムズ・シャー朝は完全に滅亡した。モンゴル帝国の侵攻によって、サマルカンドやブハラなどの美しい都市は破壊し尽くされ、中央アジアの歴史は大きく転換することとなった。
 ホラムズ・シャー朝滅亡後、モンゴル帝国は分割統治され、元(大元ウルス)・イルハン朝・チャガタイ・ジョチ=キプチャク汗国の「四大ハン国」による連邦体制に移行し、交易や文化交流が活発に行われた。その中で、現在のウズベキスタン・キルギス・カザフスタン南部を中心に支配したのがチャガタイ・ウルス(チンギス・ハンの次男チャガタイの子孫による国家)である。チャガタイ・ウルスの支配下では、パクス・モンゴリカ政策によって交易路が安定し、シルクロードの要衝であるサマルカンドやブハラが復興した。商人や学者が戻り、イスラーム文化が再び根付いた。しかし、モンゴル系遊牧貴族とイスラーム化した都市住民との対立が激化し、統治は不安定化した。そして14世紀半ばに、西チャガタイ・ウルス(トランス・オクシアナ中心)と東チャガタイ・ウルス(モグリスタン中心)に分裂した。トランス・オクシアナ(マー・ワラー・アンナフル)は、アラビア語で「川向こうの土地」を意味し、現在のウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン南部、キルギスの一部を含む地方である。モグリスタンは、ペルシア語の「モグール(モンゴル人)」と「スタン(土地)」で「モンゴル人の土地」を意味する。
 西側はイスラーム文化の濃い都市文明を中心とした勢力、東側は天山山脈北部やカシュガルを拠点とする遊牧民主体の勢力であったため、利害の対立から分裂した。
 東チャガタイ・ウルス(モグリスタン)はその後も存続し、明朝(中国王朝)との朝貢関係を樹立しながら、遊牧的文明を維持した。しかし、トウグルク・ティムールによる一時的な再統一やイスラーム化政策を経た後、ティムール王朝との抗争や内紛によって衰退し、最終的に吸収された。
 西チャガタイ・ウルスも内紛が続き、政権の安定化が図れず、1370年にトランス・オクシアナ出身のティムールが台頭し、チャガタイ家のハンを傀儡政権化し実権を掌握した。その結果、西チャガタイ・ウルスも事実上消滅した。こうしてティムール王朝が中央アジアの新たな覇者となったのである。
 中央アジアのルネサンスの始まりである。
 サマルカンドの観光パンフレトには「Chinggis destroyed, Timur rebuilt」という表現が記されている。「チンギスが破壊し、ティムールが再建した」というこの言葉は、破壊からの再建を物語る人類の歴史の尊さを強く訴えかけてくる。人類の最大の命題ともいえる平和への希求と、戦争への警鐘を示す珠玉の言葉に思える。
 14世紀の中央アジア(マー・ワラー・アンナフル/トランス・オクシアナ)は、チャガタイ=ハン国の分裂後、群雄割拠の状態にあった。その混乱の中で権力を確立したのがティムールであった。彼はモンゴル帝国の直系ではなく、モンゴル系バルラス族の出身であったため、帝国の血統的権威を本来は有していなかった。しかし、チンギス家の王女サライ・ルカンとの婚姻によって、「キュレゲン(婿)」の称号を得て、チンギス家との結びつきを権威の根拠とした。ティムールはこの婚姻関係による正統性に加え、イスラームの擁護者としての立場、王都サマルカンドや主要都市の建設などを通じて、多重的な正当性を構築したのである。こうして多面的な正当性を示すことで、ティムールはモンゴル帝国の正統的継承者としての地位を築いた。なお、彼自身は「カーン」を称さず、チャガタイ家のカーンを形式的に擁立しつつ、自らは「アミール(総督)」として帝国の実権を掌握した。
 1370年、ティムールはサマルカンドを首都と定め、中央アジアからイラン、インド北部、アナトリア、シリアにまで勢力を拡大した。代表的な遠征として、1398年にはデリーを占領し、さらに1402年のアンカラの戦いではオスマン帝国軍を破った。
 ティムールの文化的功績は、軍事遠征における版図の拡大にとどまらず、サマルカンドを中心とした壮麗な建築や学術の発展を促した点にある。彼は遠征先から建築家、芸術家、宗教家などを招聘し、文化交流を積極的に推進した。
 代表的な建築には、グーリ・アミール廟、ビビ・ハヌム・モスク、シャフリサブズのアク・サライ宮殿などがあり、青いタイル装飾による壮麗なドームを特徴としている。
 またティムール朝はトルコ=モンゴル系文化を基盤としつつ、ペルシア文化を積極的に取り入れた。その一例として、公用語にペルシア語を採用したことが挙げられる。チャガタイ語やトルコ系言語も使用されたが、行政や文学の分野ではペルシア語が主流であった。さらに建築においては、モンゴル系の壮大な様式とペルシア的な細密な装飾タイルが融合し、これらの建築群は、「サマルカンド・ブルー」と称されている。
こうしてティムールは、帝国の首都サマルカンドを文化の中心として育成し、壮麗な都市へと変貌させた。そのことは、前述の「Chinggis destroyed, Timur rebuilt(チンギスは破壊し、ティムールは再建した)」という言葉に象徴されるように、破壊の歴史からの脱却を示すものであり、彼を中央アジアの歴史的英雄として知らしめた証しとなったのである。
 ティムールの死後、息子シャー・ルフ(在位1409年-1447年)は首都をサマルカンドからヘラートへ移し、帝国の治世を安定させた。その孫ウルグ・ベクは天文学者として大成し、サマルカンドを活動拠点とし天文台を建設して当時イスラーム世界では最も精密な天体観測を行った。さらに、サマルカンドやヘラートには壮麗なモスクやマドラサ(神学校)が建設され、ペルシア文化とトルコ=モンゴル文化の融合が進んだ。この文明は「ティムール朝文化の黄金期」とも称される。
 さて、繁栄を極めたティムール王朝も、シャー・ルフの黄金期を境にして次第に崩壊の兆しを見せ始めた。ウルグ・ベクは天文学者として学問に傾倒するあまり政治的手腕に欠け、息子アブドゥッラティーフ・ミルザとの権力闘争に敗れて1449年暗殺された。しかし、そのアブドゥッラティーフ・ミルザも短期間帝位についたものの、翌1450年には暗殺された。この時期、首都ヘラートではシャー・ルフの系統がなお支配を続け、宮廷文化を維持していた。
 一方、サマルカンドはウルグ・ベクとアブドゥッラティーフ・ミルザの死によって、一時的に混乱に陥ったが、ティムールの曾孫アブー・サイードが権力を掌握し、1451年にサマルカンドを制圧、さらに1457年にはヘラートを攻略して両都市を支配下に置いた。こうして、ティムール朝はアブー・サイードによって一時的に再統合されたが、1469年に白羊朝のウズン・ハサンとの戦いで敗北し捕らえられて処刑されると、再び分裂し、最終的には1507年にウズベク族のシャイバーニー朝によって滅ぼされた。
 ここに、このタイトルであるウズベキスタンの源流となるウズベク族のシャイバーニー朝が登場したので、以下ではシャイバーニー朝の歴史を中心に書き進めることにする。
 こうしてティムール朝滅亡後のトランス・オクシアナ(マー・ワラー・アンナフル)は、ウズベク族のシャイバーニー朝がサマルカンドやブハラを中心に新たな時代を切り開くことになった。同時期の、1501年、イスマーイール1世がイランにおいてサファヴィー朝を建国し、ホラサーンやヘラートをめぐりシャイバーニー朝と対立した。さらに、ティムールの子孫バーブルは1526年にデリー・スルタン朝を破ってムガル帝国を建国した。こうして、中央アジアにはスンナ派国家シャイバーニー朝、イランにはシーア派国家サファヴィー朝、インドにはムガル帝国が並立し、三国が覇を競い合う構図が形成された。
 シャイバーニー朝の動静は、1510年メルプの戦い(現在のトルクメニスタにあった都市)においてサファヴィー朝に敗北し、初代君主ムハンマド・シャイバーニーが戦死した。その後、一族はブハラを中心にブハラ・ハーン国として存続を続けた。
 サファヴィー朝はメルプの戦いに勝利してホラサーンを支配したが、1514年オスマン帝国とのチャルディランの戦い(現イラン西部)に敗れ、アナトリア地方での活動を制限されることとなった。16世紀後半になっても、シャイバーニー朝とウズベク勢力(ブハラ・ハン国)との国境境争いは継続した。
 ムガル帝国は、ティムールの子孫バーブルがもともとシャイバーニー朝の圧力を受けてインドへ進出し、1526年にデリー・スルタンを破って建国した政権であり、16世紀を通じて北方国境でウズベク勢力と抗争を続けた。こうして16世紀には、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国、ブハラ・ハーン国の「四大イスラーム帝国」の勢力図が形成された。
 四大イスラーム帝国までの歴史を辿ったが、ここからはシャイバーニー朝の源流から下っていくことしよう。
 ブハラ・ハーン国は、16世紀後半にアブドゥッラ・ハン2世が勢力を拡大し、中央アジアの覇権を確立した。しかし1598年、アブドゥッラ・ハン2世が死去すると直系の後継者が不在となり、一族の有力者による権力闘争が激化してシャイバーニー家は断絶した。その後を継いだのが、ヴォルガ川下流域アストラハーン地方から移住してきたウズベク系一族によるジャン朝(アストラハーン家、アシュタルハーン朝とも呼ばれる)である。ジャン朝はシャイバーニー家の後継王朝としてブハラを中心に中央アジアの覇権を維持し、シャイバーニー朝と同じくイスラームのスンナ派国家であった。
 一方、1512年にはホラズム地方(現在のウズベキスタンとトルクメニスタンにまたがる地域)で、住民の支持を受けたイルバルスが「ヒヴァ・ハーン国」を建国した。建国者イルバルスは、ジョチ・ウルスのシバン家系に属するウズベク族の出自を持つ。建国当初の首都はクフナ・ウルゲンチ(現在のトルクメニスタン北西部)であったが、17世紀前半に防衛や灌漑の利便性からヒヴァへ遷都し、以後400年にわたり存続した国家となった。ヒヴァ・ハーン国はアムダリヤ川の恵みによって農業と隊商交易のオアシス路として発展し、イスラーム文化が栄え、建築・宗教・学問の一大拠点となった。16世紀には一時的にブハラ・ハーン国の占領を受けたが、その後復権し、以降もブハラと覇権を競いながら並存を続けた。
 ブハラ・ハーン国は16世紀以降もヒヴァ・ハーン国と抗争と交流をくり返しながら、18世紀になるとコーカンド・ハーン国が登場し、「三ハーン国時代」を形成することとなった。コーカンド・ハーン国はフェルガナ盆地(天山山脈とアライ山脈に囲まれた盆地)に位置し、シルクロード交易と灌漑農業の拠点として栄えた地域である。なお、ブハラ・ハーン国、ヒヴァ・ハーン国、コーカンド・ハーン国はいずれもウズベク系のスンナ派イスラーム王国であった。
 少し脱線するが、イスラームの宗教について触れておこう。
 イスラームの宗教には、二大宗派と称するスンナ派(スンニ派)とシーア派がある。両者の違いは、主に預言者ムハンマドの死後に誰を正当な後継者とするかという考え方にある。スンナ派は共同体の合意によって選ばれたアブー・バクルを初代カリフとして支持した。一方シーア派は、ムハンマドの娘ファーティマの夫であるアリーとその子孫こそが正統な指導者(イマーム)であると主張した。もちろん、後継者問題だけでなく、教義や宗教実践のあり方にも両派の違いが含まれる。
 話を元に戻そう。
 コーカンド・ハーン国を建国した王家は、ミン部族というウズベク系部族の出身であり、チンギス・ハーンの血統を持たない点で、ブハラ・ハーン国、ヒヴァ・ハーン国とは異なっていた。
 これら「三ハーン国」の時代はいずれも大きな時代の波に吞まれ、やがて大国の支配下に置かれて消え去る運命をたどることになる。
 ブハラ・ハーン国は、1785年にマンギト族の台頭によって「ブハラ・アミール国」へと移行した。マンギト族はチンギス・ハーンの血統を持たなかったため、「アミール(信徒の長)」というイスラームの権威を国名にしたのである。
 そして、その後の経過を経て、これらの国々はロシア帝国領となり、やがて現在私たちが良く知る中央アジアの国々として認識されるようになった。

(ブハラ・アミール国)
1868年ロシア帝国の侵攻により保護国となる。
1917年ロシア帝国崩壊(二月革命・十月革命)。
1920年赤軍侵攻によりブハラ・アミール国滅亡、ブハラ人民ソビエト共和国成立。
1922年ソビエト社会主義共和国連邦(USSR;Union of Soviet Socialist Republics)成立(ブハラはまだ独立共和国扱い)。
1924年民族境界画定により、ブハラ人民ソビエト共和国は解体され、ウズベクSSR(Soviet Socialist Republic)とタジク自治共和国に編入(1929年にタジクSSRへ昇格)
1991年ソビエト社会主義共和国連邦崩壊。
1991年ウズベキスタン共和国(独立国家)となる。
1991年タジキスタン共和国(独立国家)となる。
(ヒヴァ・ハーン国)
1873年ロシア帝国の侵攻により保護国となる。
1917年ロシア帝国崩壊(二月革命・十月革命)。
1920年赤軍侵攻によりヒヴァ・ハーン国滅亡、ホラズム人民ソビエト共和国成立。
1922年ソビエト社会主義共和国連邦(USSR)成立(ホラズムはまだ独立共和国扱い)。
1924年民族境界画定によりホラズム共和国解体され、ウズベクSSRとトルクメンSSRに編入。
1991年ソビエト社会主義共和国連邦崩壊。
1991年ウズベキスタン共和国(独立国家)となる。
1991年トルクメニスタン共和国(独立国家)となる。
(コーカンド・ハーン国)
1876年ロシア帝国の侵攻により併合され、フェルガナ州として編入された。
1917年ロシア帝国、二月革命・十月革命によって崩壊。
1917年~1918年コーカンド自治政府(短命)成立、バスマチ蜂起の中心となる。
1922年ソビエト社会主義共和国連邦成立。
1924年民族境界画定により、フェルガナ盆地はウズベクSSRとキルギス自治州に分割。
1936年キルギス自治州が昇格し、キルギスSSR成立。
1991年ソビエト社会主義共和国連邦崩壊。
1991年ウズベキスタン共和国(独立国家)となる。
1991年キルギス共和国(独立国家)となる。
 今回取り上げた「三ハーン国」に、カザフスタンは含まれていない。なぜなら、「カザフ・ハーン国」は15世紀半ばに遊牧カザフ人が築いた国であることを、ここに書き添えておきたい。
 以上、ウズベキスタンの歴史について述べてきた。
 最後に、ロシア帝国が「三ハーン国」に侵攻した経緯について触れ、この稿を終えたいいと思う。
 ロシア帝国の南下政策は、18世紀初頭にピョートル1世(大帝)が「ヨーロッパ型の近代国家」を目指し、不凍港の獲得を渇望し国家目標に据えたことに始まる。ここから「南下政策」の基本構想が生まれたとされる。この政策を本格的に推進したのが皇帝エカテリーナ2世であった。1768年から始まった露土戦争(ロシア帝国対オスマン帝国)において、1774年ロシア帝国は勝利し、キュチュク=カイナルジ条約によって黒海北岸の支配権を獲得し、さらに、バルカン半島への影響力を強めた。その後、1774年の条約でオスマン帝国の宗主権から切り離され「独立」とされたクリミア・ハーン国を、ロシア帝国は事実上の支配下に置き、1783年に正式に併合した。これにより、ロシアは黒海進出を現実のものとした。さらにロシア帝国は「ギリシア計画」としてバルカン半島やコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)への進出を構想した。その後、1853年にクリミア戦争が勃発した。当初はオスマン帝国領内のキリスト教聖地の管理権をめぐり、ロシア帝国とフランス第二帝政(ナポレオン三世)の間で対立が生じた。この対立を口実として、ロシア帝国はオスマン帝国領のモルダヴィア公国とワラキア公国(現在のルーマニア)へ軍を進めたことから、戦争が本格的に始まった。
 クリミア戦争は、ロシア帝国と連合国(オスマン帝国・グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国・フランス第二帝政・サルデーニャ王国)との戦いとなり、1856年にロシア帝国は敗北した。講和の結果締結された「パリ条約」により、黒海は非武装化され、ロシア帝国は黒海における軍事的影響力を失った。
 ロシア帝国が中央アジアの三ハーン国への侵攻を開始したのは、ちょうどクリミア戦争に敗北し、黒海方面での影響力を失った時代である。19世紀半ば、ロシア帝国はアレクサンドル二世の治世にあった。彼らの南下政策にはいくつかの理由があった。
 第一に、インドを支配するイギリスに対抗し、中央アジアを支配下に置くことで戦略的な緩衝地帯を確保するためである。第二に、中央アジアで産出される綿花などの農産物を帝国経済に組み込み、原料供給地として利用することである。第三に、貿易路や交通路を確保し、シルクロードの要衝を押さえることでロシア人商人の安全を確保することである。こうした複数の理由から、南下政策の一環として三ハーン国への侵攻が開始されたのである。中央アジアへの侵攻は功を奏し、その後これらの地域はロシア帝国に組み込まれた。しかし、1917年のロシア革命によって帝国は滅亡し、その後革命の結果としてソビエト社会主義共和国連邦が成立した。侵攻によって組み込まれた中央アジアの諸地域もソ連の構成共和国として再編され、長らくソ連の一部として統治された。1991年のソ連崩壊後、これらの地域はカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンといった新たな国家として歩みを始め、現在に至っている。
 このように、私は隣国の中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の歴史を知るほどには、中央アジア諸国の歴史をほとんど知らなかったことに驚いた。しかも、実際にウズベキスタンを旅し、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァの街を自分の目で見た結果、文化財の歴史的価値とその素晴らしさに声を失うほど感動した。このエッセイを上梓しながら、私は今一度この国を訪れて見たい衝動に駆られている。人には旅の味わい方がそれぞれあって、「これが本当の旅である」という決まりもない。しかし、その土地に行くことでしか味わえないものもきっとあるはずである。まさに、中央アジアは、私にとってそこを訪れることで、コーヒーにミルクを落とした時に広がる、あの美しい渦巻きのように、穏やかで心休まる時間を与えてくれた。私が訪れた9月末、幹線道路をバスで移動中によく見かけたのは綿花畑での収穫作業であった。まだ少し暑い日差しの中、色とりどりの服を着た家族が総出で白く輝く綿花畑で収穫作業をしていた。道路には収穫された綿花を満載したトラックが何台も連なって走っており、その荷代から零れ落ちた綿花が風に運ばれて道路の両脇に白く輝いていた。この時私はある思いに打たれた。ここはまさにシルクロード地帯であるが、どちらかといえば「コットン・ロード」と呼ぶべきではないのかと。
ヒヴァ/ウズベキスタン
サマルカンド/ウズベキスタン
ブハラ/ウズベキスタン
参考文献:ウィキペディア
世界史の窓
『遺跡の旅・シルクロード』著者:井上靖
『シルクロード』著者:スウェン・ヘディン
『シルクロード世界史』著者:森安孝夫
『文明の十字路=中央アジアの歴史』著者:岩村忍
『砂漠と草原の遺宝 中央アジアの文化と歴史』著者:香山洋坪
『中央アジア・蒙古旅行記』著者:カルピニ
『シルクロードの旅』著者:陳舜臣
『古代遊牧帝国』著者:護雅夫
『ウズベキスタン・ガイド』著者:萩野矢慶記
『初めて旅するウズベキスタン』著者:矢巻美穂
『アケメネス朝ペルシアー史上初の世界帝国』著者:阿部拓児
『イスラーム文化―その根底にあるもの』著者:井筒俊彦
『イスラム100の謎 世界史への小隊』著者:宮田律
『世界文化史-3』著者:村山秀太郎
『シルクロードとローマ帝国の興亡』著者:井上文則
『一冊で分かるロシア史』著者:関眞樹
『ウクライナ侵攻とロシア正教』著者:角茂樹
『バルカンの歴史』著者:柴宣弘
『古代オリエント全史』著者:小林登志子
『イギリス帝国の歴史―アジアから考える』著者:秋田茂
『ナポレオン四代』著者:野村啓介
『一冊でわかるロシア史』著者:関眞興
『トルコ史』著者:永田雄三
『トルコ史』著者:永田雄三
『オスマンVSヨーロッパ』著者:新井政美
筆者画像:ウズベキスタン4枚