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『ハンニバル・バルカ / 第5章
第2次ポエニ戦争 第3節 二人の独裁官』


【独裁官の命令】
 ハンニバルの幻惑戦術「火牛の計」によって、カルタゴ軍はローマ軍の警戒兵がいなくなった隘路を無事に通り抜けた。そして夜が明け、カルタゴの長槍部隊が丘の上でローマ軍と対峙しているのを見つけ、ハンニバルはすぐイベリア兵の一部を救援に送り出した。この救援部隊は果敢にローマ軍に突入し、およそ1,000人のローマ兵を討ち取り無事に長槍部隊を救出し帰還した。
 この後も引き続き、ポリュビオスとリウィウスの書によって書き進めよう。
 ハンニバルは、その後、カンパニア地方のファルレヌス地区を軍とともに無事抜け出し、サムニウム地方からローマへ向かうそぶりを見せた。その道々でもカルタゴ軍は略奪をしながらパエリグニ(中央アペニン山脈の東側に位置する)部族の土地まで戻った。そこから方向を変えて、一度アブリア地方へ戻り、さらにゲルニウム(リウィウスはゲレオニウムと書いている)に向かった。そこに向かった理由は、斥候に出た者から、アブリア地方のルケリアとゲルニウムには大量の穀物があって、特にゲルニウムは穀物の集積場所として最適であるという報告を受けていたからである。そこで、ハンニバルはこの地を冬営の場所にすることを決めたのであった。このゲルニウムの場所について、現在は確かな位置は特定されていない。ハンニバルは、ルケリアから200スタディオン(約36㎞)の距離にあるとされるゲルニウムに到着し、都市の住民に友好を示す誓約実行の保証を差し出すことを申し入れた。しかし、それに応じなかったので町を攻撃し住民を殺戮した。家屋と城壁は冬営中の穀物貯蔵庫として使うため大部分を破壊せず残した。兵士を都市の前面に宿営させ、その周りは濠と柵をめぐらして守りを固めた。そして軍を三班に分け、そのうち二班は穀物挑発部隊として送り出し、各班は毎日決められた分量の穀物を略奪してくるように命じた。残りの一班は陣地の守備と、穀物挑発部隊の警護に当たるように命じた。この地方の地形が平坦で穀物の輸送に便利なうえに、季節が丁度収穫時期とあって、日ごとに集められる穀物で貯蔵庫は徐々に満たされていった。
 一方で、ファビウスはハンニバルをカンパニアという絶好の檻に閉じ込めたものの、彼の火牛の計にまんまと嵌まり取り逃がしたことで、ローマの民衆に非難を受けたが、そのために彼の信念を変えることはしなかった。檻から逃げ去ったハンニバルを追って、アブリア地方西北部の都市ラリヌム(注記:ゲルニウムはここから数㎞南とされるが、異説もある)に陣営を置き防塞で固めカルタゴ軍に対峙した。その後、ファビウスは祭儀を執り行うためローマに戻るように命じられた。彼はローマに帰還する前に、騎兵長官ミヌキウスを呼び次のように命令を下した。
 以下はリウィウスの書から引用する。

 「彼は騎兵長官と面談してこう命令し、助言し、またほとんど懇願しさえした。天運より思慮に信頼を置け、センプロニウスやフラミニウスより自分を手本として見習え。敵と事を構えずに夏の大部分を費やしたからといって、何もしなかったと考えてはいけない。医者だってときに運動や訓練より休養でもって効果を上げるものだ。かくもしばしば勝利を収めてきた敵にもう負けなくなった、続けざまの敗北から一息ついたということは、決して小さなことではない、と。これらのことをあらかじめ注意した上で(もっともそれは結局無駄に終わったのだが)、彼はローマへ出立した。」『ローマ建国以来の歴史』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 ファビウスは騎兵長官ミヌキウスにそう言い残すと、自身は祭儀を執り行うためローマへ出立した。

【ローヌ川河口の海戦と人質の解放】
 ここで同じ頃の、イベリア方面の動向について書き進めよう。
 兄(ハンニバル)からイベリアの守備を受け継いだハスドルバルは、冬営期間中に艦船30隻の艤装を終えて、さらに10隻を増やし、40隻の甲板装備船からなる艦隊を、新カルタゴからローヌ川河口に向け、岸辺に沿って航行した。この艦隊とともに陸上軍も海岸から離れないように進軍し、ローヌ川河口付近で合同の陣営を置くために先を急いだ。
 このイベリア艦隊の動きを察知し、ファビウスから状況に応じて防衛軍を率いて対応するよう指示されていたグナエウスも、35隻の艦隊を率いタラコ(現スペインのタラゴナ)を出港し、翌日にはローヌ川河口付近に現れカルタゴ軍の陣地から80スタディオン(約15㎞)の場所に錨を降ろした。早速彼はマッシリアの快速船二隻を偵察に出した。このときに限らず、マッシリア船はつねに先導役を務め、戦いでも先陣を切って進むなど、いつどんなときもローマ軍への協力を惜しまなかったとポリュビオスが書いている。
 ここでマッシリアの歴史について少し触れておこう。マッシリアは、現在のフランス共和国南部に位置する同国最大の港湾都市「マルセイユ」のことである。このマッシリアは、紀元前600年頃、小アジアのポカイアからのギリシア人入植者によって築かれた。もともと町の名の由来となったポカイア人は、現在のトルコ西部のイオニア地方に起源をもつ海洋民族であった。フェニキアとの交易を通じて航海技術を磨いた人たちが、当時の大帝国ペルシアの脅威から逃れて、イベリア半島の東北部やフランス南部の沿岸に植民都市を築いた。中でもこのマッサリアは地中海交易の重要な拠点として、さらにギリシア文化を伝える港湾都市としての役割も果たしながら繁栄を築いていたのである。その後、地中海世界においてローマが勢力を拡大する過程でローマとの同盟関係を築き、独立した港湾都市として機能していた。第二次ポエニ戦争が始まると、マッシリアはローマ支持の方向性を明確に打ち出して、イベリアにおけるカルタゴ軍の監視役的な役割も担うようになった。つまり海上権益を競うカルタゴに対し、ローマと友好関係を結ぶことはローマもマッシリアもお互いその政策が合致したからである。さらに、ギリシア文化を育むマッシリアは、ローマの知識人から高く評価され、受け入れられたことも友好関係を築く大きな要因の一つになっていた。しかし、この独立した港湾都市としての地位も、共和制ローマが拡大するにつれて、徐々に独立色はうすれて行った。紀元前49年、カエサルとポンペイウスのローマ内戦時にはポンペイウス側についたが、彼がカエサルに敗れたために、自治都市としての権限を削がれ、最終的にはローマの属州となった。当時の都市国家が、大国に飲み込まれてゆく流れを象徴するような歴史をもつ港湾都市、それがマッシリアだった。
 話をもとに戻そう。
 グナエウスは、偵察から戻ったマッシリアの斥候の報告で、カルタゴの艦隊が河口付近に停泊中であるとの報告を受けた。そこで、奇襲攻撃の絶好の機会ととらえ、急ぎ艦隊を率いローヌ川河口(ポリュビオスは「イベル河口」と書いている)に向けて出発した。勿論ハスドルバルは、ローマ艦隊の接近の情報をつかんでいたので、歩兵を海岸線に沿って整列させ、艦隊に戦闘の準備を整えるよう指示した。そして、ローマ艦隊が接近し姿を見せたところで、開戦の合図とともに船を発進させた。しかし、この海戦には思わぬ落とし穴が待っていた。カルタゴの艦船は、陸上に歩兵が詰めて退路が確保されている安心感から、戦意が損なわれることになり、一時は双方の艦隊が海上において激しい戦いを行ったにもかかわらず、間もなくカルタゴの艦隊が敗走を始めた。そのような状況下ローマ艦隊は、船を岸に乗り上げて陸兵のもとへ敗走するカルタゴ艦隊を追って岸に近づき、稼働可能な敵艦を自軍の艦船に係留し帰航の途に着いた。この一度の海戦で、ローマ軍はイベリア近海の制海権を確保したばかりではなく、25隻余りの敵艦を拿捕しその戦果を大いに喜びあった。
 一方で、この海戦における敗報を受けたカルタゴ本国では、失った制海権の奪回を目指して、直ちに70隻の艦隊に兵員を乗せて出港し、サルディニア島を経由して、そこからさらにイタリアのピエサ(現在のピサ)近郊をめざした。艦隊指揮官たちの目的は、そこでイタリアで転戦中のハンニバル軍と合流しようという計画であった。しかし、この艦隊の出動に対して、ローマ軍は120隻の5段櫂船がこれを迎え撃つべく出動してきたのである。その動きを察知したカルタゴ艦隊は、急遽サルディニア島に引き返し、さらにそこから本国に帰還してしまった。ローマ艦隊の指揮官である、グナエウス・セルウィリウスはカルタゴ艦隊を追ったが、結局追いつくことが出来ず、シキリア(現シチリア)島のリリュバエウムに帰港した後、そこを経由してリュビア方面に向かいケルキナ島(現チュニジアのガベス湾の北部、スファクスの沖にある島)をめざした。そこで、島の破壊行為をしないための代償金を受け取って立ち去った。さらに彼はその帰途、コッスラ島(現シチリアとチュニジアのほぼ中間に位置するパンテルレリア島)を占領し、そこに駐屯軍を置いてシキリアのリリュバエウムに帰港した。さらにグナエウスは、ここの港に艦隊をおいたまま、自身は陸軍の指揮をとるためにイタリアに帰っている。
 これら海戦勝利の報告がローマにもたらされて、元老院の議員たちはこのまま、イベリア戦線の拡大によってカルタゴ軍に対抗することが良策であり、ローマにとっての利益に必要不可欠であると判断した。そこで、艦船20隻を準備し、その指揮官を以前から予定していた通り、プブリウス・スキピオに委ね、イベリアで活動中の彼の兄グナエウスのもとに派遣し、兄弟で共同してイベリア方面の遠征を行うように命じたのである。この作戦が、ローマの利益にとって必要不可欠だとしたのは、カルタゴ軍がイベリアの支配から得る、その地の無尽蔵の物資や兵員の調達によって、海上覇権の奪回や、イタリアで転戦するハンニバル軍への兵員や資金の供給などの脅威を取り除いておく必要性を勘案してのことだった。この作戦がうまく運んだ場合、カルタゴ本国の海軍による海上覇権奪回も、イタリアにおけるハンニバル軍の行動も大きく影響を受け、ローマ軍のこれからの戦いに向けての戦局が有利に運ぶことが予測されたからである。
 プブリウスは、イベリアに到着し兄と遠征を行うことで、それまでローマ軍が越えなかったローヌ川を、軍を率いて敢然と越えて戦闘を開始した。さらにサグントゥムに進軍し、そこからおよそ40スタディオン(約7㎞)の距離に陣を置いた。その場所は海岸からさほど遠くなく、敵の攻撃を防ぐのに適した場所で、船から軍需物資を運ぶのにも便利なところだった。そこで、プブリウス軍は突然に転げ込んだ幸運に恵まれることになった。
 というのは、ハンニバルはイタリアへの進軍を開始するにあたり、イベリアの都市の中で、ハンニバルとの信頼関係が不安な都市から、名家の子弟を人質として出させていたのだった。その人質の全てを移送し留置先としたのが、要害堅固でハンニバルが最も信頼を置く人々が住む都市サグントゥムであった。ところが、この都市のイベリア人で、名声も高く、しかも資産豊かでハンニバルから大いに信頼されていた人物、アビリュクスという者が驚くことに裏切り行為を働いたのだ。彼はこう考えた。現状を分析した結果、将来の展望ではカルタゴではなくローマに自分の運命を託すべきだと。ここで自分が、ローマの利益に大きく貢献することで、自分は重要な地位を得られると判断したのである。そのローマの利益に大きく貢献するというのは、つまりカルタゴとの誓約を破り、人質をローマ軍に引き渡すことだった。そして彼はハスドルバルから、ローマ軍のローヌ川渡河阻止のために派遣されていたボスタルというカルタゴ軍の指揮官を言葉巧みに説き伏せた。ポスタルは、ローマ軍のローヌ川渡河を見過ごしたばかりか、後退してサグントゥムの海岸側に陣を置いていた。アビリュクスは、ポスタルが猜疑心のない大人しい性格であること、さらに自分に信頼を置いていることを見抜いており、彼は人質の話を持ち出しこうささやいたのである。ローマ軍がローヌ川を渡って、サグントゥム近郊にすでに布陣している。現状を分析すると、この都市が陥落するのは眼に見えている。ローマ軍は、このサグントゥムにいる人質の身柄確保によって、その解放者になり住民への懐柔策の一つにしたいのだ。だからその前に、人質をここから連れ出し、親元に帰してやれば、むしろ君は人質の安全を守った解放者という英雄になれる。それは、さらにカルタゴの同盟都市に対する慈悲と寛容の精神を示すことにもなるのだ。しかもその行いはローマ軍の思惑を挫くことにもなる、と。
 こうして、アビリュクスはうまくポスタルを懐柔し、人質の受け取りの日や時間を決めて自分の思惑通りの計画を進めたのである。そして次に彼はローマ軍の陣営を訪れて、プブリウスに面会し、にサグントゥムに預けられているカルタゴ同盟都市の人質についての話をもちかけた。もし、ローマ軍がこの人質の身柄を確保し、無事に親元に帰してやれば、カルタゴ同盟都市はたちまちローマ軍に鞍替えするだろうという話をした。その人質は自分がローマ軍に対し、後日無事に引き渡すことも請け負った。この話を聞いたプブリウスは、もろ手をあげて歓迎するとともに、アビリュクスに対して多額の報酬で報いることを約束した。
 その約束の日、アビリュクスはサグントゥムから連れ出された人質全員をポスタルから預かると、夜を待ってカルタゴの陣営を出て、ローマ軍陣地に向かい彼らをローマ軍に引き渡したのであった。プブリウスは、このアビリュクスを高く評価し、人質の帰郷に関して彼をその任にあたらせた。アビリュクスは、この人質奪還作戦はローマ軍の慈悲深さと寛大さから行われた証拠だと、人質の親たちや住民に盛んに吹聴して回った。そのおりに、人質をとったカルタゴの不誠実さと厳しさにくらべ、ローマの対応に感動しそちらに鞍替えした自分を引き合いに出して、ローマへの友好関係を築くことを進めて周ったのである。
 さて、アビリュクスの二枚舌にまんまとのせられて、重要な人質をローマ軍に渡してしまったポスタルは、尋常でない刑罰に処せられたとポリュビオスは書いている。何の刑かは書かれていないのでわからないが、尋常でない刑とあるので、失敗に厳しいカルタゴのことであり死刑に処せられた可能性がある。
 カルタゴがこの人質をローマ軍に渡した失敗の後、季節は冬を迎えて両軍ともに越冬地に陣営を移した。このサグントゥムの人質事件は、ローマ軍にとっては偶然にえた幸運であったが、イベリアにおける今後の作戦行動に関して大いに役立つ材料となった。さらに、ティキヌスの戦いで負傷し、トレビア川の戦いでは指揮をとれず、執政官職を解かれたプブリウスが、ローマの司令官は罰せられないという慣習によって、再びこのイベリア遠征の指揮官としてローヌ川を越え、サグントゥムにいたって活躍する機会を得たことは、イベリア戦線に大きな影響を与える出来事となった。

【独裁官の身の潔白】
 話は再びイタリアに戻る。
 リウィウスがファビウスについて興味深いことを書いているので紹介したい。
 この出来事はハンニバルが、まだカンパニア地方で活動を続けていた頃、彼のめぐらした策謀によって、ファビウスがローマ市民からの反感を受けた理由の一つにもなったようだ。
 「その頃イタリアでは、ファビウスの賢明な遷延策のおかげでローマ人は続けざまの敗北から一息ついていた。この戦略はハンニバルに少なからず不安な思いを抱かせた。ローマ人がついに運に頼るのではなく思慮により戦争を行う者を指揮官として選んだことを、彼は見て取ったからである。しかし一方で市民たちは、兵士も民間人もこれを馬鹿にした。とりわけ彼が不在の間に向こう見ずな騎兵長官が戦闘を行い、上々の成果(人を嬉しがらせる成果、と言った方が正確だろう)を挙げて以降はそうだった。
 さらに二つのことが独裁官に対する反感を強めた。一つはハンニバルの欺瞞と計略によるものだった。すなわち彼は逃亡者から独裁官の土地があることを聞かされると、周辺のものはすべて見る影もなく破壊し尽くしたが、その土地についてだけは、殺めることも焼き払うことも、いかなる暴力も控えるように命じた。それは何らかの秘密の協定の見返りだと、人々に思わせるためである。もう一つはファビウス自身の行為によるものだった。最初それは、彼が元老院の許可を待たなかったというという理由から、疑いの目で見られたようである。だがそれは最終的には殆ど疑いの余地なく、極めて高い評価を彼にもたらした。捕虜の交換にあたりローマ人とカルタゴ人の将軍は、かつて最初のポエニ戦争でそのように行われたことから、次のように取り決めた。すなわち、引き渡す人数より多くの捕虜を受け取った方が、兵士一人につき、二・五リーブラの銀を支払うことにしたのである。ローマ人はカルタゴ人より二四七人多く受け取った。しかしこの者たちの代償として支払われるべき銀は、元老院でこの件について何度も議論されたにもかかわらず、なかなか支払われなかった。元老院議員たちが言うには、まだ独裁官より正式に諮られていないから、とのことだった。
 そこで彼は息子のクィントゥスをローマに送り、敵の蹂躙を免れた土地を売り、自費で国家の債務を果たしたのである。」『ローマ建国以来の歴史5』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 リウィウスが書いているように、ハンニバルは逃亡者(おそらくローマの敗残兵あるいは戦争で追われたローマ植民地の市民など)から得た情報で、ファビウスの所有地(注記ではカシリヌム近辺にあったようだ)だけを避けて略奪や殺戮を行った。これはファビウスとカルタゴの間で、まるで裏取引があるかのように見せかけるハンニバルの策略によるものだった。ここでも情報戦を活用するハンニバルの智謀を垣間見ることができる。文中にある通り捕虜交換でローマ側の人数が多かったので代償を支払うこととなった。元老院でこの件について何度も議論はされたが、なかなか支払いがなされなかった。それは独裁官から正式な議案として諮られていないというのが理由だった。そこでファビウスは速やかに動き、ハンニバルの策謀で略奪を免れた自分の土地を息子クィントゥスにローマで売却させた。その売却代金を、国家が支払うべき捕虜交換の代償として自費で充てたのである。この解放後、捕虜となっていた人々が身代金の金を返そうとしたが、ファビウスは受け取らずに免除したのである。この行動はローマ市民や元老院に対して、ファビウスの決断力を見せつけ、さらにハンニバルの策謀からの疑念を払拭させるという、二つの効果をもたらしたのである。計略を見事に跳ね返したファビウスも、決してハンニバルに劣らぬ智謀の持ち主だったことがうかがえるエピソードであろう。

【ミヌキウスの勝利】
 一方で、祭儀のためローマに召喚されたファビウスから軍の指揮権を引き継いだミヌキウスは、ハンニバルがゲルニウムを占領し冬営のために近辺で穀物を挑発する一方で、都市の前に布陣し濠や防衛柵を築いていることを知った。そこで急ぎラリヌム(現カンポバッソの北東約35㎞にある現ラリノ)のカレネ山麓に向かい陣を置いた。彼は、ファビウスが「命令し、助言し、またほとんど懇願しさえした、天運より思慮に信頼を置け」という言葉を全く意に介せず、何とかしてカルタゴ軍と一戦を交えたいとはやる心を抑えきれなかった。ローマ陣営はもともと山の上の安全な場所に置いていたのだが、彼はそこから平地に下し積極的な作戦に出ることにしたのである。
 この行動を知ったハンニバルは指揮官が変わったことで、戦略が変わりいままでの慎重な戦術から、好戦的な対応に変わっていくのではないかと考えた。ローマ軍の接近を知ったハンニバルは、三班に分けた軍勢のうちの一班には、引き続き穀物挑発を継続させ、残る二班を引き連れてゲルニウムから敵陣に向け16スタディオン(約3㎞弱)移動し、敵陣を見下ろす高台に布陣した。こうすることで、ローマ軍をこちらに引きつけ穀物挑発隊の安全を守れると考えたからである。
 ローマ軍陣営と、カルタゴ軍の布陣する高台の間には一つの丘があった。ハンニバルはその丘に目をつけた。そこで、夜のうちにおよそ2,000人の長槍部隊(リウィウスはヌミディア人と書いている)を送り出しその丘を占拠した。夜が明けて丘のカルタゴ軍に気づいたミヌキウスは、軽装歩兵を率いて丘を攻めた。投槍などによる激しい戦いが行われ、結局ローマ軍が丘を制圧して全軍の陣地を移動させた。ローマ陣営とカルタゴ陣営はすぐ近くで対陣することになった。こうして両軍が退陣していた数日後、ハンニバルは飢えた動物たちに草を食べさせるためや、さらなる冬営のための穀物挑発部隊を陣営から送り出した。これらのカルタゴ軍の動きを察知したミヌキウスは、陣地から軍を率いて高台のカルタゴ軍の陣地に近づき、重装歩兵に戦列を組ませ戦闘を開始させた。また一方で、軽装歩兵と騎兵を使い、カルタゴ軍の穀物挑発に出ている部隊への襲撃を命じたのである。ハンニンバルは、高台めがけて突進してくるローマ軍と正面切って闘う戦力は少なく、かといってローマ騎兵や軽装歩兵が襲撃している穀物挑発部隊の救援に駆けつけることもできないという窮地に陥った。カルタゴの陣営を攻撃するローマ軍は、防護柵を引き抜き包囲せんばかりに攻め立てた。それでも、何とか敵の攻撃をかわしながら陣地を守り抜こうとして戦い続けていたとき、ハスドルバルが、ゲルニウムの市壁の前に築いた防柵内で避難していたカルタゴ兵士4,000人を引き連れ救援に駆けつけたのである。そこで奮戦し、陣営の前に隊列を組みローマ軍を押し返すことに成功した。ハンニバルは、ゲルニウムの都市の前に築いた陣営を守るために、そこまで退却し、結局その場所を本拠地として穀物の貯蔵庫を守りながら冬営することにしたのである。
 この状況を見て、ミヌキウスはローマの陣地に兵を引いた。彼はこの短期の戦闘で、カルタゴが高台に築いた防柵の周囲において多数の兵を討ち取り、さらに周辺域における穀物挑発部隊への襲撃で相当数のカルタゴ兵を討ち取ることができた。このことで彼は将来への戦いに明るい兆しが見えたと確信し、その戦果にも満足したのである。そして彼からその報告が届けられ、ローマ市内は歓喜にわきかえった。このときの様子をポリュビオスは次のように書いている。
 「ローマにこの報告が届けられたとき、勝利は実際以上に大きく伝えられ、市内は歓喜にわきかえった。なぜなら第一に、それまで人々をおおっていた暗雲が晴れ、良い方への変化の兆しが見えてきたからであり、第二にこれまで軍隊が無為と怠惰に陥っていた原因は、兵士たちの怯懦ではなく、指揮官の弱気にあったのだと思えたからである。それゆえ人々はこぞってファビウスを非難し、怖じ気から好機を逸したその責任を追及する一方、ミヌキウスには今回の勝利を理由に最大級の賛辞を与え、そのためにかつて例のないことをこのとき行った。ミヌキウスならすぐにこの戦争に決着をつけてくれるだろうという確信から、彼にも絶対的な権力を付与したのである。こうして一つの任務に二人の独裁官が誕生することになったのだが、このようなことはローマ人の歴史のなかでかつて一度もなかったことであった。ミヌキウスは民衆から寄せられる人望と民会から賦与された権限について知らせを受けると、危機を冒してでも敵に総力戦を挑もうとする意欲をますます強めた。」『歴史1』著者:ポリュビオス、訳:城江 良和
 この文章によると、ローマがいかにハンニバルというカルタゴの怪物に恐れをなしていたのかが良く分かる。少しでもローマ軍の力が発揮され、カルタゴ軍を押し返す事実を心から望み欲していたのだろう。その思いが、こうしてミヌキウスによって良い方向に動き始めたと思えたことが、彼らの歓喜の渦に現れている証拠である。しかし、ミヌキウスの勝利の内容については、彼の報告が実際は「大法螺」だったことはこの後で書くことにしよう。彼は、この大法螺でローマの歴史上例のない権力を手にすることになったのである。その決定に有頂天になり、危機を冒してでも総力戦に挑むことを決意した。これは前述したとおり、指揮官が変わったことで、戦略が変わりいままでの慎重な戦術から、好戦的な対応に変わっていくのではないかとハンニバルが予測したとおり、それが意外に早く的中することになるのである。
 次に、リウィウスは何人かの史家が通常の会戦もあったことを伝えていると書き添えているので紹介しよう。
 「何人かの史家によると、通常の会戦も行われたという。その伝えによれば、最初の衝突でカルタゴ人は陣営まで敗走させられた。しかしその後彼らが突如反撃に出た結果、今度はローマ人が恐慌に陥った。そこにサムニテスのヌメリウス・デキミウスが到着し、戦況はまたも転換した。郷里ボウィアヌム(注記:サムニウム地方のほぼ中央に位置する都市)のみならず全サムニウムにおいてひときわ抜きんでた出た家柄と富を誇るこの人物は、独裁官の命で8,000人の歩兵と約500人の騎兵を引き連れ陣営にやって来た。彼がハンニバルの背後から現れたとき、両軍ともローマから新たな援軍がクィントゥス・ファビウスとともに到着したと勘違いした。ハンニバルはどこかに伏兵がいるかもしれないと恐れ、軍を引き上げた。ローマ人は追撃し、サムニテスの助けを借りながら、その日二つの砦を攻め取った。6,000人の敵が殺されたが、ローマ人も少なくとも約5,000人が死んだ。ところが死者の数はほとんど同じであるにもかかわらず、根も葉もない大勝利の噂が、騎兵長官のさらに輪をかけた大法螺の手紙とともにローマに届いた。」『ローマ建国以来の歴史5』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 ここでは、ローマとカルタゴの会戦での実際の損害について具体的に書いてあることから、ミヌキウスがローマに報告した内容が前述したとおり「根も葉もない大法螺」だったことがわかる。さらに、ここで書かれているサムニテスのヌメリウス・デキミウスが独裁官の命令で8,000人の歩兵と約500人の騎兵を引き連れ陣営にやって来たとあるが、彼の出現を両軍ともにローマの新たな援軍が現れたと勘違いしていることから、おそらくファビウスの指示で動いた軍だったと思われる。とにかく、たまたまファビウスが派遣したこのヌメリウス・デキミウスの出現で両軍は兵を引いたのである。決して、ミヌキウスがカルタゴ軍に大勝したわけではなかったのだ。
 さてここで、もう1人ギリシア人歴史家に登場を頂き、ファビウスの人物像を教えてもらうことにしよう。
 その人の名は、「ルキウス・メストリウス・プルタルコス(以後、「プルタルコス」と書く)」である。彼は紀元46年頃カイロネア(古代ギリシアのポリス・オルコメノスに属した都市)に生まれ、紀元119年以降に亡くなったとされるギリシア人歴史家である。その主な業績に、古代ローマと古代ギリシアにおける著名な人物を比較しながら描いた「対比列伝」がある。対比する人物はいずれも英雄であり、「英雄伝」とも呼ばれている。ここでは、タイトルを「英雄伝」として紹介することにしよう。
 プルタルコスは、ファビウスが自分の領地を売って、国家が支払うべき捕虜交換の代償に充てた後のことを詳細に書いているので紹介しよう。
 「この後祭司たちが,いくつかの犠牲式に出席するようにと彼を召喚したので、彼は軍勢をミヌキウスに預けたが、ただし、敵に戦をしかけるな、敵と渡り合うなと、独裁官として命じたばかりでなく、個人としても、勧告したり懇願したりした。しかしミヌキウスはそれに一顧だに与えず、ただちに敵に対して威嚇を始めた。ある日ハンニバルが、食料調達のために部隊の多くを送り出したのを見て取るや、居残りの部隊に攻め掛かり、彼らを陣営の矢来の中に追い込んで、少なからざる人数を討って取り、これでは彼に包囲されてしまいそうだという恐怖を敵の全員に与えた。ハンニバルがふたたび部隊を陣営内に集結させると、ミヌキウスは無事に退却したが、自分はとてつもない大法螺を吹き、兵士の胸を一杯の勇猛心で満たした。たちまち事実より大袈裟な噂がローマに聞こえた。それを聞いたファビウスは、ミヌキウスの不運よりも幸運の方が心配だと言ったが、民衆は興奮して、大喜びで広場に走った。すると護民官メティリウスが演壇に登って、ミヌキウスを大袈裟に持ち上げる演説を行い、返す刀でファビウスの柔弱と卑怯ばかりか、裏切りまで責め立て、ほかにも一流の有力な人々を槍玉に上げて、そもそもはじめから、戦争をローマ国内に引き込んだのは、民衆を崩壊させ、国家を速やかに独裁制へと投げ込むためだったのであり、その独裁者がいたずらに事態を遅延させ、かくてハンニバルに確固たる足場と時間を与えた。そして今や、イタリアを支配せんがため、さらに別の軍勢がリビアから加勢に現れるはずである、とアジった。
 ファビウスも演壇に登ったが、護民官に対して弁明しようとはせず、できるだけ早く犠牲式をすませて部隊に戻り、私が禁じておいたにもかかわらず、ミヌキウスめは敵と交戦したゆえに罰する所存であると言った。これを聞いた民衆の間に大きなざわめきが起こった。ミヌキウスが危ないと思ったのである。独裁官には、裁判を経ずして人を逮捕したり死刑に処したりすることが許されていたからで、ファビウスのふだんは温厚な人柄から出た言葉だっただけに、彼の怒りは相当なもので、容易にはなだめられまいと思ったのであった。そこで人々は、恐れをなして沈黙を守っていたが、一人メティリウスのみは、護民官の特権を笠に着て-というのは、独裁官が選任されているときでも、護民官のみはその力を失わず、他の職が廃されても、これだけは存続するー民衆を激しく非難し、ミヌキウスを見捨てるな、また彼を、昔マンリウス・トルクァトゥスが、その武勲ゆえに冠を授けられたほどの息子の首を、斧で打ち落としたというが、そういう目にあわせるな、と言った。そして、ファビウスから独裁官の地位を取り上げて、それを、もっと有能な、目下の国家の事態を何とか打開したいと念じている人に渡せ、と説いた。こういう言葉に動かされて人々は、ファビウスにただちに独裁官の地位から去れと強制することには二の足を踏んだものの、ミヌキウスを、独裁官と同等の権限をもって戦闘の指揮をとり、同じ権威をもって戦争を行うことを是認することを評決した。」『英雄伝』著者:プルタルコス、訳:柳沼 重剛
 少し長くなったが、私たちは、時々このように歴史の流れの中で時代の寵児が生まれる瞬間を垣間見ることができる。こうして、ローマの歴史に前例のない独裁官が二人存在する体制が生まれたのである。通常の執政官制度と似てはいるが、根本的には似て非なるものである。この紀元前217年の二人の独裁官が生まれたのは異例の政治的な決定であった。通常であれば、執政官が2名選任され1年の任期で、軍事と行政の最高責任者として平等にその権力を分担する。それに対して、独裁官はローマの危機的な状況などの特別な場合に限り、元老院の発議により執政官が任命することで絶対的な権力が付与され、1名のみが任期半年の特別措置として選出される制度である。今回の独裁官選出は、副官である騎兵長官にも絶対的権力が付与され、しかも執政官が任命するのではなく護民官の発議で民会によって任命されるという異例の措置だったのである。ここにも語られているように、もしミヌキウスに独裁官と同等の権力が付与されなければ、護民官メティリウスが主張するように、ファビウスから裁判を経ずして逮捕され死刑に処されることもあり得るわけである。こうして、ミヌキウスはファビウスと同等の権力を得て、ハンニバルの思惑どおり、好戦的な選択肢による行動を開始することになる。

【二人の独裁官】
 ファビウスは、民会の決定でミヌキウスに対し独裁官と同じ権限が付与されたことをどう考えていたのだろうか。
 それに触れている、プルタルコスの書から引用してみよう。
 「ミヌキウスに独裁官と同じ職務を与えたので、人々はさすがのファビウスも鼻をへし折られて、控えめになるだろうと思っていたが、そういう思惑はこの人には通用しなかった。彼は人々の愚かしさを自分の不幸とは見ず、ちょうど賢者ディオゲネスが、ある人から『この連中はおまえのことを笑い物にしている』と言われると、『いや、わしは笑い物にされてはおらん』と言って、そんなことを受け入れて心を乱された者こそが笑い物になるのだ、と考えたように、ファビウスも、彼の身に起こったことを、感情を交えず、やすやすと耐えて、善にしてまじめな人間は、愚弄もされなければ侮辱もされぬ、という哲学者たちの考えの正しさを証明して見せたのである。しかし、民衆の無分別が、国を巻き添えにしつつ、一人の男が戦争に関して抱いている不健全な功名心に、拍車をかけていることを憂慮した。そして、彼が空虚な名声と誇りために、心ここにあらずという状態になって、何かしてはならぬことをするのではないかと心配になって、ファビウスはだれにも気づかれないように町から出て行った。」『英雄伝』著者:プルタルコス、訳:柳沼 重剛
 プルタルコスが描くファビウス像は、実に冷静で物事を客観視できる大国の統率者として相応しい人物であることがわかる。彼は、人々の愚かしさを自分の不幸とは見ず、民衆の無分別が、ミヌキウスの戦争に関して抱く不健全な功名心に拍車をかけていると言い切り、国家の行く末を案じる鋭い洞察力をもってローマの行く末を不安視し、対策を講じるために動くことにした。
 ミヌキウスは早速行動を起こす。ファビウスに対して交代で軍の指揮をとることを要求してきた。ファビウスはその要求をはねて、二人で軍団を分け合い指揮をとることを考えて、ミヌキウスに軍団を分けてやった。彼に第二、第三の軍団を、自分は第一、第四軍団を指揮することとし、同盟諸都市からの援軍も同様に二人で等分したとプルタルコスは書いている。
 ポリュビオスの書によれば、ファビウスは二人が交替で軍の指揮をとるか、全軍を二つに分けて、それぞれが自らの判断において軍を指揮するか、どちらかを選択するように提案した。ミヌキウスは迷うことなく軍団を分割する方を選んだと簡潔に書いてある。
 リウィウスの書によれば、ミヌキウスから二人が一日交替か、あるいはもっと長い期間の方が良ければ同じ日数ごとに、軍を指揮するのが最良の方法だと提案してきた。ミヌキウスが言うには、カルタゴと戦闘を行う際に、戦略の展開だけではなく戦力差においてもその方が張り合えるからだと主張した。それに対し、ファビウスはミヌキウスに対しこう答えた。二人が指揮権を共有することは決定されたが、自分がこの権限を剥奪されたわけではない。私は熟慮をもって戦争を行う権限を進んで放棄するつもりはない。だから、君とは指揮権の時間と日数で決めるのではなく、軍を分け指揮をすることで、自分の戦略に基づいて可能な限りのものを守ることにしたいと主張し、軍団は抽選によって分割されたと書いている。
 少しずつニュアンスは違うものの、いずれにしてもローマ軍団、諸同盟軍は分割されて、両軍はおよそ12スタディオン(約2㎞)の距離をおいて別々に陣地を築いた。

【あなたは私の父である】
 引き続き、ポリュビオスとリウィウスの書をもとに書き進めよう。
 一方で、ハンニバルは捕虜や脱走者、さらには敵情視察で得た情報から、ローマ軍の司令官同士の内部抗争を察知していた。特にミヌキウスが名誉欲に駆られ気負っていることに目をつけ、彼に照準をしぼりその策を講じることにした。その策とは、ミヌキウスの陣営とカルタゴの陣営の間に、両方にとって占拠されたら脅威となりうる丘を見つけた。そこの占拠から始めれば、ミヌキウスも即座に応戦してくることが予想されたからである。
 その丘は普通に観察したら樹木は見当たらず、何の変哲もない普通の丘に見えた。しかしハンニバルは戦闘を行うには絶好の場所だと考えた。戦闘を行うことを前提に観察すると、丘には窪地や襞になった場所がいくつもあった。彼は、それらの特徴を生かし罠として待ち伏せに利用することにした。それらの窪地や襞の凹凸の陰に騎兵500人、軽装歩兵など5,000人(リウィウスは騎兵と歩兵で5,000人と書いている)を幾つかのグループに分け、夜のうちに潜伏させておいた。そして夜が明けると、ローマ兵に潜伏した兵を発見されないよう、軽装歩兵を繰り出して丘を占拠し注意をそらす作戦に出たのである。
 このハンニバルの陽動作戦に対し、ミヌキウスは誘導されるように早速行動を開始した。少数で丘を占領したカルタゴの軽装歩兵を侮り、好機とばかりにローマ側も軽装歩兵を繰り出して丘の占拠を命じ、さらに騎兵にも出動を命じた。最後には、自身で重装歩兵に密集陣形を組ませ出陣した。この様子を、「すべて前回にならい、どれひとつとってもあのときと同じ戦術だった。」とポリュビオスは呆れたように書いている。つまり、紀元前218年の「トレビア川の戦い」や「トラシメヌス湖畔の戦い」と同じように、ハンニバルの術中にはまり込んで行ったときのことを言っているのであろう。
 ローマ軍が丘の占領を目指して進軍するのに対し、ハンニバルも丘に向けて援軍を繰り出し、自身も騎兵を始めとした重装歩兵などを率いローマ軍との戦闘を開始した。最初はカルタゴの騎兵とローマ騎兵が激突したが、騎兵の数と質で圧倒するカルタゴ軍が戦いを優位に進めたのは当然の結果であった。その騎兵の大群は、次にローマ軍の先頭にいた軽装歩兵部隊を押し戻し、彼らは自軍重装歩兵部隊の中に逃げ込んで混乱を極めた。その混乱を待っていたかのように、カルタゴの伏兵部隊がハンニバルの合図によって、ローマ軍をめがけ襲いかかった。こうしてローマ軍団というか、ミヌキウス軍団は全滅の危機に陥ったのである。
 その戦いを冷静に見守っている指揮官がいた。もう一人の独裁官ファビウスその人である。彼は、ミヌキウスの軍団が、このようにハンニバルの戦術にはまることを予測していたかのように、全軍総崩れ状態の軍団を救うべく速やかに戦場に駆けつけた。ファビウスの陣地も戦場に近く、時間をおかず戦闘に参戦したため、ローマ軍は援軍に士気を取り戻し密集陣形で退却を始め、ファビウス軍団に護衛される形で逃げ切ることができた。カルタゴ軍も、ファビウス率いる軍団の乱れのない新規参戦部隊との戦闘を控え、追撃の手をゆるめたのだった。
 この戦いが、ミヌキウスの名誉欲に駆られた勇み足であって、慎重かつ用心深いファビウスのカルタゴに対する考え方と対応が、いかに正しい選択であったかを証明するようなものだった。戦場でこのミヌキウスと戦った兵士だけではなく、この戦闘の報告を受けたローマ本国の市民や議員たちも、いかなる場合でも自分の意志を変えることなく、冷静で思慮深くそして兵を損耗することなくハンニバルに対し、「遅延戦術」とも言うべき戦いを続けたファビウスの行動が、ようやく誰にも異論の余地のないほど正しかったことを証明したのである。
 ローマ軍はこうしてひとつの陣営に軍を統合し、一人の指揮官を中心にその指示を仰ぐことになった。その指揮官とはもちろんファビウスその人であった。
 この時ミヌキウスが陣営において兵士に語った言葉を、リウィウスが詳細に書いているので紹介しよう。
 「兵士たちよ、私はたびたびこのような話を聞いてきた。最もすぐれた人とは、何が適切かを自分で判断する人であり、次にすぐれているのが、正しき意見を言う者に従う人である。自ら判断することも他者に従うこともできぬ者は最低の能力の持ち主である、と。われわれは最善の部類の知性と才能には恵まれなかった。よって次善の、中間のものをしっかり保持することにしたい。人に命じることを学ぶと同時に、賢者に従う意思を持とうではないか。わが陣営をファビウスの陣営に合流させよう。われわれが彼の幕舎に軍旗を持って行き、私が彼に『父よ』と呼びかけたとき(彼のわれわれに対する恩義、彼の尊厳には、まさしくそうした呼び名がふさわしい)、兵士たちよ、諸君は先ほど右手の武器でわが身を守ってくれた者たちに、『保護者よ』と呼んで挨拶するだろう。今日の日はわれわれに、他に与えるものはなくとも、少なくとも感謝の気持ちを持つという誉れをあたえてくれるだろう。」『ローマ建国以来の歴史5』著者:リウィウス、訳:安井 萌
 こうして、ローマ全軍がもとの独裁官の指揮下となり、騎兵長官が独裁官を「わが父」と呼び、彼と固い握手を交わし、元の職に復帰したのである。
 (ハンニバル・バルカ / 第5章 第2次ポエニ戦争 第4節 ファビアン戦略に続く)
デルフォイの宣託所遺跡/デルフォイ/ギリシア
ローマは紀元前146年、コリントスの戦いで勝利しギリシアを属州としギリシア文化を取り入れていった。このデルフォイもアポロン神の宣託の場所として使われたに違いない。
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
CNN 2016年4月5日掲載記事
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井 萌
「英雄伝」著者:プルタルコス・訳:柳沼重剛・訳:高橋 宏幸
「ポエニ―戦争の歌」著者:シーリウス・イタリクス
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭
『カルタゴの遺書 ある通商国家の興亡』著者:森本哲郎/td>
『アルプスを越えた象』著者:ギャヴィン・デ・ビーア・翻訳:時任生子
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館
「世界図書室」HP
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ
「「鐙━その歴史と美━」発行者:野馬追の里原町市立博物館」
「トラスメヌス湖畔の戦い戦図/フランク・マティーニ。アメリカ陸軍士官学校歴史学科地図製作者(フランク・マルティーニがウィキペディアの「米国陸軍士官学校歴史学科」の内容を使用する許可の引用)」
「トラシメヌス湖畔の戦いで斬首されたフラミニウス絵画/フランスの歴史画家:ジョゼフ・ノエル・シルヴェストル作/ウィキペディアより」
筆者画像:長槍(サリッサ)/テッサリア/ギリシア
筆者画像:子供を左手に抱くポエニ神官/バルドー博物館/チュニス/チュニジア
筆者画像2枚:デルフォイの宣託所遺跡/デルフォイ/ギリシア
【ハンニバル・バルカ】
第1章 第1次ポエニ戦争
第2章 第2次ポエニ戦争 序章
第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越え
第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越え
第4章 第2次ポエニ戦争 第1節 戦闘開始
第4章 第2次ポエニ戦争 第2節 トレビア川の戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第1節 アペニン山脈を越えて
第5章 第2次ポエニ戦争 第2節 カンパニアからの脱出
第5章 第2次ポエニ戦争 第3節 二人の独裁官
第5章 第2次ポエニ戦争 第4節 ファビアン戦略
第5章 第2次ポエニ戦争 第5節 カンナエの戦い
第5章 第2次ポエニ戦争 第6節 戦闘開始