『ハンニバル・バルカ / 第5章 第2次ポエニ戦争 第4節 ファビアン戦略 』
【歴史叙事詩】
筆者が前章で、ファビウスは「ハンニバルの戦術の展開を読むことができる優秀な司令官であった。このことは、もっとずっと後になって判明することとなる」と書いたことを思い出していただきたい。その言葉を証明するために、もう少しファビウスの人物像について詳細を語っておこう。そして、彼の生涯における人格は、どのように形成されて行ったのかということについても触れて見たいと思う。
「ファビウス・クロニクル」
紀元前275年:ローマの名門ファビウス氏族に生まれる。
紀元前265年から紀元前203年:神祇官(アウグル)
紀元前237年、紀元前236年:財務官(クァエストル)
紀元前235年:按察官(アエディリス・クルリス)
紀元前233年、紀元前228年、紀元前215年、紀元前214年、紀元前209年:執政官
(コンスル)
紀元前230年:監察官(ケンソル)
紀元前222年:臨時元首(インテルレクス)
紀元前221年、紀元前217年:独裁官(ディクタトル)
紀元前213年:軍団指揮官(レガトゥス)
紀元前203年:死去
以上のように、驚くべき高位の官職を歴任し、紀元前203年72歳で亡くなっている。彼はまさにローマに全生涯を捧げた英雄であった。そして、紀元前217年、二度目となる独裁官就任後に、大きな失策とも言うべきハンニバルの「火牛の計」によって、カンパニアという自然の檻から脱出を許してしまった。そこで彼は元老院、市民、おそらく民会からも非難を浴びることとなる。先ず、この辺りから彼の人生分析を始めたいと思う。
繰り返しになるが、改めてハンニバルの「火牛の計」の全容を描いた歴史叙事詩があるので少し長くなるが引用したい。
作者は、シーリウス・イタリクス(以後「シーリウス」と書く)という、ローマ帝政期に皇帝ネロの寵愛を受け執政官に就任した経験を持つ政治家、詩人、雄弁家である。彼(紀元26年頃~紀元101年)は政界を引退した後、ポリュビオスやリウィウスの書を参考にして、ポエニ戦争を長編の歴史叙事詩として表現した作品『プニカ(Punica)』、日本名タイトル『ポエニー戦争の歌』を発表している。その作品の中に、ハンニバルがカンパニアを「火牛の計」で脱出する場面と、その後のファビウスがローマに召喚された理由について、歴史叙事詩という形式で見事に表現されているので抜粋して紹介する。「火牛の計」が開始される深夜のカルタゴ軍の幕舎から始まる。
「あらゆるものが陸でも大海原でも
眠りに包まれていた。日中の労役は終わって、
世界は夜が人間にもたらす平和のうちにあった。
だが、心労で燃えるように胸がシードーン(著者注:フェニキアの都市シドン)の
指揮官は心配のために目がさえ、とても味わってはいられなかった、
眠りを運ぶ夜の恵みを。寝床から体を起こして
立ち上がると、褐色の獅子皮をまとった。
これは以前には、野外の草を寝床として身を横たえたとき、
その上に敷いていたもの。そして、近くにある弟の幕舎へ
急ぎ足を運んだ。その弟もまた侮れぬ
戦場での流儀をもつ。体を横たえるときは雄牛の
皮を敷き、酷使した体をいたわって眠った。
勇者の槍は体から離さず、すぐそばの地面に刺してあり、
穂先から恐ろしげな兜が吊り下げられていた。
まわりにはまた、盾、鎧、剣、弓、
バリア―レス(著者注:バレアレス兵)の投石具が彼と一緒に地面に横たわっていた。
歴戦の雄である精鋭部隊が付き添い、
鞍をつけた軍馬が草を食んでいた。
そこへ入ってきた足音に浅い眠りを振り払われ、
『これはこれは』と言うが早いか右手が武具に伸びた。
『兄上、何が心配で眠れず、疲れた体をなお責めるのか』。
すでに起き上がった彼が柴草の上に寝ていた仲間を
足踏み鳴らして起こし、陣営の任務に就かせると、
リビュアの指揮官が言った。『ファビウスのせいで夜が苦痛だ。
ファビウスのせいで心配がつのる。あの老いぼれめ、
ああ、あれだけがわが命運の走路の障害だ。
見てのとおり、まわりは武装兵が取り囲んで封鎖している。
円形に組まれた兵士の壁に閉じ込められたのだ。
だが、さあ、窮地を前にしたいま,聞くがいい、
私が考えた策を。広大な土地一帯で捕まえた
牛を戦争のならいに従って連れてきている。
私の指示はこうだ。牛の角に乾燥した木の枝を結わえ付け、
軽い切り枝の束を額に縛りつけておき、
火をつける。熱が広がると、
どうなる。牛たちは痛みに駆られてそこらじゅうを飛び跳ね、
頸を振って丘じゅうに火を振りまくだろう。
すると、恐怖と驚きで慌てた衛兵は厳しい警戒を
緩めるはずだ。夜ならなおさら重大な事態を恐れるだろう。
これが心に適う計画なら、遅れが許されぬ瀬戸際ゆえ、
さあ、取りかかろう』。二人は並んで幕舎へ
向かった。そこに一人の大男が枕代わりの盾に頭をのせて
寝ていた。まわりに馬たちや兵士らがいる。両脇には
戦いで奪い、血の滴っている分捕り品がある。マラクセースだ。
このとき、まるで夢の中で戦っているかのように、恐ろしく狂おしい
叫びを上げていた。右手が震えながら、
戦いの夢を追い払った。『無双の隊長よ、暗いあいだは
怒りを抑えて、明るくなるまで戦を先延ばしにせよ。
一計を案じた。気づかれずに逃れ、無事に撤退するために
今夜がその機会だ。乾燥した枝を角に
結わえて火をつけた牛を森じゅうに
放ち、それで敵の部隊の固い扉をこじ開けよう。
包囲を突破して軍をすすめよう、というのが兄上の目論見だ。
さあ、出かけよう。この作戦でファビウスに思い知らせてやろう。
計略では争えないのだと』。これを聞いて躊躇なく、鋭い
攻め手に喜んだ若者は一緒にアケッラース(注記:騎兵指揮官)の幕舎へ
急いだ。この者は休憩時間を惜しみ、最小限の眠りしかとらない。
夜のあいだずっと眠ることなどなかった。いまも眠らずに
悍馬の世話をしていた。調教の疲れを
癒し、轡で傷ついた口の手当てをしていた。
その傍らで仲間らが武器を磨き、乾いた血糊を
剣からぬぐい、切っ先に怒りを込めている。
その彼に地形、刻限に合わせて何が必要か、自分たちが
何をしようとするのかを説明し、作戦の実行に
遅れるな、と檄を飛ばした。符牒が陣営を駆けめぐった。
緊張のうちに急を要する命令を伝えて
各部隊長が部下を急かすと、みな大慌てで仕度に駆り立てられる。
出発に向け、恐怖に背中を押され、まだ静かで暗いうちに、まだ
夜の陰が濃いうちに、と思う。すぐに、貪り食らう災厄を仕込んだ
枝が炎を角から高く立ち昇らせる。
まさにこのとき、災いが勢いづいた。痛みで牛が
頭を振り回すのにも助けられ、火炎が大きく
太り始め、その舌先が煙を上回る高さに伸びた。
黒い焦熱に駆られ、丘の茂み一帯、高く
切り立った岩山一帯を狂気に憑かれたように牛たちが
全身あえぎながら進む。火に鼻孔をふさがれ、
泣き声を上げようと格闘するがむなしく、もだえ苦しむ。
尾根づたい、谷づたいにウルカーヌス(注記:火神)の悪疫が闊歩し、
災いは留まるところを知らない。近くの海が照り映える。
その数はかぎりなく、雲なき夜空に目を止めて
海を渡る船乗りが波間より
見上げる星ほども多い。見える数はかぎりなく、黒い炎熱が
カラブリアの山間を焼いて牧草を肥やすとき、
ガルガーヌス山の頂きに座した牧人の前に燃える火ほども多い。
だが、突如、目の前の山の高みに飛び回る
炎を見て、このとき見張り番に当たっていた兵士たちは
それが誰に焚きつけられもせず、ひとりでに燃え上がって広がっている、
谷の下に鎮火しがたいほど可燃物があるのだと信じた。
天から降ったのか、雷電を大いなる右手から
全能の神が投げたのか、それとも、隠れた穴の破れ目から
発火した硫黄の炎を幾重にも吐き出す
呪われた土地であったのか、彼らは恐怖の底で問うた。
敵はすでに脱出した。くびれた隘路をすばやく制した
ポエニ―の将は勇躍、開けた野へ飛び出した。
それでも、水も漏らさぬ統帥術でこれまで成功を収めてきた
独裁官が相手では、トレビア河畔とエトルーリアの湖畔で勝利した
ハンニバルにして、ファビウス率いるローマの矛先から
逃げただけで十分だった。いや、独裁官はなお逃げた敵のあとを追い、
軍を進めて迫りたかったが、のっぴきならない祭事があった。
一族の神々を礼拝せねばならなかった。都へ向かうに際し、
彼は若い指揮官に語りかけた。しきたりがこの者への軍旗、
最高指揮官の移管を求めていたからだ。」『ポエニ―戦争の歌』著者:シーリウス・イタリクス、訳:高橋 宏幸
以上、この叙事詩を紹介したのには、いくつかの理由がある。
先ず作品が叙事詩という表現方法であることから、ポリュビオスやリウィウスの書とは違う、躍動感を感じる場面がたくさん登場する。しかも、カルタゴ陣営における兵の慌ただしい動きだけではなく、ハンニバルの苛立つ心の動きを描き、彼はファビウスへの憎しみから、「ファビウスのせいで夜が苦痛だ。ファビウスのせいで心配がつのる。あの老いぼれめ、ああ、あれだけがわが命運の走路の障害だ。」と深夜、弟マゴの幕舎を訪れて愚痴る場面がある。この表現は、元ローマの執政官であったシーリウスだから書けたであろう、表現の妙が生き生きと伝わってくる。
さらに、ここに書かれている「水も漏らさぬ統帥術でこれまで成功を収めてきた独裁官が相手では、トレビア河畔とエトルーリアの湖畔で勝利したハンニバルにして、ファビウス率いるローマの矛先から逃げただけで十分だった。いや、独裁官はなお逃げた敵のあとを追い、軍を進めて迫りたかったが、のっぴきならない祭事があった。」と書かれており、独裁官経験者のシーリウスの、ファビウスに対するリスペクトも含んだ文章に感銘を受けたからである。もっと砕けた言い方をすれば「ハンニバルは策略によって逃げ延びたが、命があっただけでも有難いと思うがいい。ファビウスは追い打ちをかけるチャンスだったのに、急な祭事でローマに召還されたからハンニバルよ、お前は命が助かったのだぞ」といった感じであろうか。
そして、最後にシーリウスは、ファビウスのローマ召還の理由を「のっぴきならない祭事があった。一族の神々を礼拝せねばならなかった。」と書いている。このファビウスのローマ召還の理由について知りたかったのである。この理由に、ファビウスという人物の性格とその生涯を知るための、大きなヒントが隠されているのではないかと考えたからである。
【ファビウスと宗教】
彼の生涯における人格は、どのように形成されて行ったのかということに触れて見たいと思う。
この章の冒頭に、ファビウスのクロニクルについて紹介した。ご覧のとおり彼は紀元前265年から亡くなる紀元前203年まで、終身職である神祇官(アウグル)としてローマの宗教行事に携わっていた。しかも年齢は僅か10歳の神祇官が誕生したということは、当時のファビウス氏族が、ローマの政治に大きな影響力を持っていたというひとつの証しでもあろう。
それでは、そもそも古代ローマ時代において、占いという儀式が始まったのはいつ頃のことだろうか。その辺りから紐解いて見ることにしよう。
リウィウスの書を辿ると、ローマ建国の祖とされる双子の兄弟ロムルスとレムスの時代までさかのぼる。二人は王権をめぐって争いを始め、守護神がどちらに王権を与えるかを鳥占いで決めることになった。以下、リウィウスの記述である。
「二人は双子だったので、長幼の序は決め手にはならなかった。そこで、新しい都に誰が名前をつけるのか、そして、建設された都をだれが治めるのかを、この地を守護する神々が鳥占いで選ぶことになった。ロムルスがパラティウムの上空を、レムスがアウェンティヌス丘の上空を、それぞれ鳥占いの空域として選んだ。
ヘルクレスとカクス(著者注:この章のタイトル)
最初に兆しが現れたのはレムスのほうで、六羽の鷲が飛来したと言われている。その知らせが届いたころ、ロムルスにはその二倍の数が現れた。それぞれの支持者たちはそれぞれを王として歓呼した。兆しが現れたのはこちらが先だったと一方が言うと、数が多かったのはこちらだと他方が言い、ともに王権を譲らなかった。こうして、言い争いが始まり、怒りと反目が流血に発展し、混乱のなかでレムスが襲われ命を落とした。」『ローマ建国以来の歴史1』著者:リウィウス、訳:岩谷 智
結局、鳥占いを行ったにもかかわらず、王権は占いによって決まらなかった。混乱の中でレムスが殺され、ロムルスが唯一の支配者となり、都市は彼の名にちなんでローマと呼ばれるようになった。(ただし、ロムルスが「ローマ」の語源であろうとする説は確定的ではないとの注記もある)。この書が示すように、王政ローマ時代以前にも、鳥占いやその他の占いが社会の意思決定手段として用いられていたことが分かる。そして、それが国家の形成過程で公式の儀式として組み込まれて行ったことを示す一例といえるだろう。
さらに、リウィウスの書には「卜鳥官アットゥス・ナウィウス」というタイトルの記述がある。つまり、鳥占いを専門とする官職が当時から実際に存在していたことを示している。その内容について、リウィウスの記述から引用しよう。
「自軍の戦力にもっとも不足しているのは騎兵であると考えたタルクィニウスは、ロムルスが創設したラムネンセス、ティティエンセス、ルケレスの他に、新たな百人隊をいくつか加え、それに自分の名前を記念として付けようとした。」『ローマ建国以来の歴史1』著者:リウィウス、訳:岩谷 智
この文章について解説をすると、古代ローマ王政時代の第五代王、ルキウス・タルクィニウス・プリスクス(紀元前616年~紀元前578年)の治世において、ローマ人はサビニ人との戦争を経験した。その際、プリスクスは騎兵の数が不足していることを痛感する。
ローマ建国当初のローマ軍団は、3,000人の重装歩兵と300人の騎兵から成り、これがいわゆる最初のローマ軍団「レギオー」であった。この300人の騎兵は3隊に分けられ、それぞれ異なる出自を持っていた。
「ラムネンセス」は、ロムルスの名を冠し、ローマ人によって構成された騎兵部隊。
「ティティエンセス」は、サビニ人の王ティトウスの名が由来とされ、サビニ人によって編成された騎兵部隊。
「ルケレス」は、エトルリア語で王を意味する「Luk」が語源で、エトルリア人によって構成された騎兵部隊。
しかし、プリスクスはこの300人の騎兵では兵力不足とだと考え、新たな百人隊を創設し、それに自分の名を冠することを決意した。これに異を唱えたのが,鳥卜官アットゥス・ナウィウスである。彼は「ロムルスによって鳥占いで決定された騎兵部隊を、神意の承認なしに変更・増員することはできない」と主張したのである。この発言にプリスクスは激怒した。ここからはリウィウスの書の引用で紹介することにしよう。
「『ならば、神の使いとやら、占ってみよ、わしがいま心に抱いていることが実現しうるかどうかを』。アットゥスは鳥占いを試みてから、まちがいなく実現する、と答えた。すると王はこう言った。『わしが考えていたのは、お前が剃刀で砥石を切り裂いてみせるということだ。さあ、これを手に持ち、お前の鳥たちが実現すると予示したことを実際にやってみるがよい』。アットゥスは、この時、ためらうことなく砥石を切断したと言われている。この出来事があった場所には、かつて頭を布で覆ったアットゥスの像が立っていた。元老院議事堂に向かう階段の左側、いま民会場のあるあたりである。言い伝えによれば、砥石もまた同じ場所に置かれて、この不思議な出来事を後世の人々に語り伝えるよすがとなっていた。いずれにせよ、鳥占いとその祭司たちに、大いなる栄誉が与えられたのは確かであり、この後、戦時であろうが、平時であろうが、鳥占いなしに何かが執り行われることはなかった。人民の集会、軍隊の召集といった国事の重要な案件は、鳥占いによる承認が得られない場合、見送られるのが習いとなった。結局のところ、タルクィニウスは騎兵百人の数そのものについては変更を行わず、騎兵の数をそれぞれ倍にした。その結果、三つの百人隊に総勢1,200の騎兵を擁することとなった。追加された騎兵は、従来の隊名に単に『補充の』という添え名を付けて呼ばれたが、現在は隊そのものの数が増やされて、六個百人隊と呼ばれている。」『ローマ建国以来の歴史1』著者:リウィウス、訳:岩谷 智
記述が示すように、驚くべきことに鳥卜官の力で王命をも撥ね退けて、占いによって建国以来の慣習を守り通したことが語られている。古代ローマは、この占いの慣習が国政の公的儀式として根付き、長期にわたり運用がなされていたことを教えてくれている。
それでは、次に共和制ローマ時代になって、当時の宗教は政治とどのようなかかわりを持っていたのだろうか。と言うか、宗教は政治にどの位深く影響を与えていたかと言い換えた方が相応しいかもしれない。
そして、結論から言えば、宗教は政治とは密接不可分の関係にあったのである。特に共和制ローマ時代において、宗教は国家運営の制度の一部として重要な役割を果たしていた。元老院、民会、執政官などが国家政策や軍事的決定を行う際に、宗教的儀式を通じて神の意志を確認し、その結果を最終判断の指針としていた。そのため、当時のローマには多くの神官職が存在していた。
共和制ローマにおける神官職の最高位は「最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)」であり、彼は多くの神祇官を統率し、神の宣託を総合的に判断した上で最終決定者に伝え、その判断が国政を左右した。最高神祇官は政治的にも大きな影響力を持ち、その職には有力な政治家が就くことが多かった。彼らは宗教を通じて自身の権威を強化する手段としても活用した。
前述のとおり、ハンニバルの「火牛の計」によってカンパニアから彼を取り逃がしたファビウスは、その「数日後に神への献納式のためにローマに帰国せざるをえなくなり」とポリュビオスは書いている。そのことについて訳者の注記には、「これまでの慎重な戦い方について特に民衆からの不満が高まったため、弁明を求められたのであろう」とある。またリウィウスも、ファビウスは「祭儀を執り行うためローマに戻るよう命じられた」と書いている。確かにこの時のファビウスの召還理由について、ポリュビオスの『歴史』注記記載の内容と同じように、歴史作家や小説家も同様の見方から次のように書いている。
「ファビウスは、首都ローマに呼びもどされた。独裁官の任期である六カ月には、まだ間がある。首都召還の理由は祭儀をとり行うためとなっていたが、事実上の免職だった。」『ハンニバル戦記―ローマ人の物語』著者:塩野 七生
「ファビウスはローマに召還されていた。独裁官として祭儀を執り行うため、というのが表向きの理由だったが、その実は元老院の査問にかけられるようだった。」『ハンニバル戦争』著者:佐藤 賢一
召還命令の表向きの理由は祭儀を執り行うためであったが、やはりその本当の目的は民衆の不満への、弁明責任を果たすための召還だったのかも知れない。
しかし、シーリウスは「のっぴきならない祭事があった。一族の神々を礼拝せねばならなかった。」と書き、プルタルコスは、その書『英雄伝』で「この後祭司たちが、幾つかの犠牲式に出席するようにと彼を召還した」と書いており、ポリュビオスの書く「神への奉献式」や、リウィウスの書く「祭儀を執り行うため」という言葉が明記されている限り、筆者は、独裁官であったファビウスの出席を必要とする、例えばファビウス個人を含め、新執政官選挙やその他国政に関する何らかの卜占の儀式が執り行われたのは間違いないと考えている。
それでは次に、共和制ローマ時代には、一体いかなる宗教儀式が存在し、それはどのような形で行われていたのかについても少し触れてみよう。
共和制ローマ時代には、年間を通じて定期的に行われる宗教行事と、その時々の情勢に応じて行われる宗教行事があった。
定期的に行われる行事として、「ルペルカリア祭」や「サトゥルナリア祭」があげられる。
ルペルカリア祭とは、毎年2月15日に、その年の豊穣と繁栄を祈願する祭りである。祭司が生贄としてヤギと犬を主祭神であるファウヌス(又はルペルクス)に、豊穣と繁栄を祈願して捧げる儀式を執り行う。その儀式の後祭司が生贄の血を若者の額に塗り、その後牛の乳でその血を洗い流した。これで邪悪なものから浄化されるという意味を持っていた。さらに祭司たちは、生贄のヤギの皮を細長く切って鞭状にしたものを持ち裸で街をかけ廻った。そしてその鞭で、出会った女性たちを打った。その行動が安産の祈願や子宝祈願を意味していた。
また、サトゥルナリア祭は、紀元前5世紀頃から農耕神サトゥルヌスを祝う祭りとして始まり、共和制ローマの時代には12月17日に行われていた。紀元前217年夏、ローマとカルタゴが戦ったトラシメヌス湖畔の戦いでローマ軍が大敗し、その後、別同部隊の騎兵も全滅した知らせが届くと、市民は恐怖と悲しみに打ちひしがれた。この苦境を乗り越えるため、サトゥルヌスを祝う祭は士気を高める目的で拡張され、盛大に行われるようになった。祭りの期間中、市民は奴隷がかぶる帽子をかぶり、宴会で奴隷に給仕し、奴隷は主人に口答えすることが許された。社会秩序が逆転するような自由な雰囲気の中で行われ、社会的な結束を強める効果をもたらした。宴会では贈り物の交換も行われた。それ以後は、農耕神サトゥルヌスを祝う冬至の祭りとして、ミトラ祭と並存するようになり、次第にミトラ祭、そしてクリスマスへと発展していった。その過程で、紀元前67年から66年にかけて行われたキリキアの海戦で、ローマのポンペイウス軍団が海賊掃討戦に勝利した。この軍団には、ペルシアのゾロアスター教を起源とするミトラ教を信仰する兵士が多く含まれていた。ミトラ教は太陽神ミトラスを崇拝し、光と勝利の象徴とされる宗教である。その教義は厳格な階級制度を持ち、精神的団結を重視するものであり、軍隊内の組織強化に適していたため、軍人たちの精神的な支柱となった。ミトラ教は軍隊内で急速に普及し、ローマ帝国全土へ広がった。ミトラ教では12月25日を太陽神ミトラスの誕生日として祝っていたため、ローマ帝国がキリスト教を国教化する過程で、この日がキリストの生誕を祝う日(誕生日ではない)として定められ、クリスマスの起源となったのである。
さて、ここまで共和制ローマ時代の宗教儀式について触れたが、それがどうしてファビウスの人格形成に影響したのか語る必要があるだろう。
ファビウスは前述の通り、10歳でローマの神祇官に就任した。その職位は終身職であり、彼は幼少期から国家の重要な決定にかかわる宗教儀式に携わりながら成長した。その経緯から、彼の人生は古代ローマの宗教的伝統の中で育まれたことがうかがえる。神祇官は、国の重要方針である、戦争の開始や軍事行動、執政官や官職の選出、都市の建設、神殿の建立、外交交渉、条約の締結、災害の予測やその対応など、考えられるあらゆる国政の判断の基準として、さまざまな占いを行うことで神意を読み取るために、「鳥卜(アウグリア)」、「臓卜(ハルスペクス)」、「雷卜(トニトルス)」、「シビュラの書(リブリ・シビリニ)」による占いなどを行うのである。
鳥卜(アウグリア)は、鳥の飛び方、鳴き声などを観察することで、国政の重要事項に対する神意を読み取る占いである。
臓卜(ハルスペクス)は、古くはエトルリア(ローマ北部)を起源とする動物の内臓、特に生贄の羊や牛などの肝臓の形状、色、血管の配置などを観察し、国政の重要事項に対する神意を読み取る占いである。
雷卜(トニトルス)は、ローマの最高神であるユピテル神が操る現象とされる雷の鳴ったタイミング、方向、強弱、回数などの要素によって、国政の重要事項に対する神意を読み取る占いである。
共和制ローマ時代には、これらの卜占とは異なる方法として、国家の重要事項に関する神意をうかがうためにシビュラの書(リブリ・シビリニ)が用いられた。紀元前6世紀頃、ギリシアの植民都市クマエ(現イタリア南部)に住んでいた巫女シビュラが、アポロン神の霊感を受けてローマに関する予言を記したとされる。この予言書は、王政ローマ時代の終盤にタルクィニウス・スペルブス王によって買い取られ、国家の危機に際して参照されるようになった。元老院の要請により高官経験者などから選ばれた15人委員(初期には10人)がこの予言書の内容を確認し、供物や祭典などの宗教的対応を決定した。
このように、卜占や預言書の活用を通じて宗教的対応が行われ、それが共和制ローマ時代の国政運営に深く関わっていた。では、こうした卜占制度はどのように運営され、国家の政策に反映されていたのだろうか。
すでに述べたように、共和制ローマ時代には終身職として神祇官(ポンティフェクス)が存在し、ファビウスは10歳でこの職に就いた。加えて、宗教に関わる職務として卜占官や司祭が存在していた。
神祇官は国家の宗教全般を統括し、祭儀の管理・監督、宗教法の施行運営、祭司や卜占官の任命、神殿の維持管理などを担った。さらに、元老院や執政官(場合によっては独裁官)と協力して、宗教政策の決定を主導する役割を果たしていた。
共和制ローマ時代において、卜占官(アウグル)は神々の意思を占いによって確認し、その結果を政治や軍事の判断へ反映させる役割を担っていた。彼らには専門分野があり、鳥卜官、臓卜官、雷卜官などに分かれていた。執政官(場合によっては独裁官)や元老院が重要な決定を下す際、卜占官に助言を求めることが多く、その要求に応じて卜占が行われた。占いの種類は国政の内容によって適切に選ばれ、例えば、執政官の選出には鳥卜が用いられ、神殿の建設の許可には臓卜が採用された。戦争開始の判断には鳥卜と臓卜が組み合わされ、元老院の重要な決定事項については、鳥卜と雷卜の併用や、15人委員によるシビュラの書の確認が行われることもあった。
また司祭(フラミネス)は、特定の神に仕え、それぞれの神に関する祭儀を執り行う役割を担っていた。ユピテル神にはフラメン・ディアリス、マルス神にはフラメン・マルティアリス、クィリヌス神にはフラメン・クィリナリスと呼ばれる司祭が奉仕し、神殿での儀式を監督しながら供物を管理していた。司祭の職務は宗教儀式に特化していて、神々への奉仕を通じて国家の安定を支える重要な役割を果たしていた。こうした制度の構築によって、神祇官は宗教全般の管理を担い、卜占官は神意を確認し、司祭は特定の神々に仕え宗教儀式を円滑に進めることで、共和制ローマ時代の国家運営に深く関わっていたことがわかるのである。
以上、共和制ローマ時代の国政と宗教の密接不可分な関係について書いてきた。
そして、ファビウスは幼少期より神祇官として数多くの宗教儀式に立ち合い、国家の宗教政策の重要性について身をもって認識していたに違いない。神祇官の役割は、宗教儀式を通じて神意を確認し、それに基づいて政治的な判断を下すことである。そのため、慎重な判断力と厳格な規律が求められた。また、共和制ローマにおいて神祇官は単なる儀式の管理者に留まらず、国家の命運を左右する頭脳的な役割も担っていた。このような背景を持つファビウスが、戦術の怪物のようなハンニバルとの戦いに慎重な戦略をとったとしても、それは決して不自然なことではない。しかし、彼は決してハンニバルに怯んでいたわけではなかった。冷静に状況を見極め、相手が隙を見せるその時まで慎重に行動するという確固たる信念を持っていた。それこそが、ファビウスに授けられた神意であり、揺るぎない「ファビアン戦略」として知られるものであった。こうして、前述の通り、宗教儀式を通じ神意を確認し、政治的判断を下し、国家運営を行う中心的な立場を経験する中で、ファビウスが生涯を通じて築き上げた慎重な判断力や厳格な規律性でまとわれた人物像が形成されていったことが考えられるのである。
ということは、ここで書くローマ召還の理由、ポリュビオスの『歴史』訳者の注記の、「これまでの慎重な戦い方について特に民衆からの不満が高まったため、弁明を求められたのであろう」と書いてある通り、彼はローマに帰還し、その弁明責任を果たし、さらに宗教儀式を終えたが、そこで彼が信念をもって貫き通す「ファビアン戦略」という方向性を変えることなど、微塵も考えなかったに違いない。
【反省と和解】
さて、ファビウスとローマの宗教について書いたので、本来のポエニ戦争の話に戻そう。ミヌキウスは独裁官と同じ職務をあたえられたことから、ファビウスが「不健全な功名心から、何かしてはならぬことをするのではないか」と思った通り、ハンニバルに戦いを挑み戦闘に敗れた。敗退し全滅の危機に陥ったミヌキウス軍を救ったのは、何と彼が「臆病者」と呼び、心から軽蔑していたファビウスだった。それ以後ミヌキウスはファビウスを「父」と呼び、彼に従うことを誓った。
さて、ミヌキウス敗戦後のローマ陣営の動きについて、その詳細をプルタルコスが書いているので紹介しよう。
「戦いの後ファビウスは、自分が討ち取ったかぎりの敵兵の甲冑を剥いで引き揚げた。同僚の指揮官については、傲慢な言葉や憎悪の言葉はひとことも口にしなかった。一方ミヌキウスはこんなことを言った、『諸君、大仕事において一個の過ちも犯さぬというのは、人力を越えたことである。しかし、過ちを犯した者が、その過ちを将来への教訓へと転ずるのは、すぐれた、思慮のある男のよくなすところである。このわしは、わが運に対していささか苦情もないではないが、大きな点において、やはり称賛いたすべきと存ずる。かくも長きにわたって知らずにいたことを、今日という日の、ほんのわずかの間にわしは知ったのだ。すなわち、わしは他人を支配する力などなく、むしろ他人の支配を受けるべき身なのだと思い知った。徒な名誉心ゆえに、負けてことそよかりし人に、勝たんものと心を逸らせておったのだ。諸君にとって一切を指揮するのは独裁官閣下である。ただし、かの人に対する感謝の気持ちを表すことについては、小生が諸君の指導者となろう。私がまず従順になって、かの人の命ずるところに従おうと存ずる』。こう言うと、鷲印の軍旗を掲げ、全員わしに従えと命じて、ファビウスの矢来に向かった。その中に入ると、将軍のテントの方へ向かって、者どもを驚かせ、当惑させた。ファビウスが現われると、その前に軍旗を立て、まず自分が大声を発してパテル、父上、と呼び、彼の兵士らはファビウスの兵士らをパトロネスと呼んで挨拶となした。これは、解放された奴隷が、解放してくれた主人を指して言う言葉である。一同が静まるとミヌキウスが言った、『独裁官閣下、今日という日、閣下は二度の勝利を挙げられました。勇気をもってハンニバルに、そして判断の正しさと高潔なる人格によって同僚に勝ちを収められた。そしてそれによって閣下は、われらを窮地より救い、それによってまた、われらに教えられたのであります。すなわちわれらは、敵に敗れて恥をこうむったが、閣下に敗れて名誉と無事を得たのであります。閣下を世にもすぐれた父と呼んだのは、これにまして敬意を表わし得る呼び名を思いつかぬによってであります。それがしが閣下より受けたる恩義は、親より受けたる恩義よりも、かくも大なのであります。父よりはそれがし一名が生まれたのみなるに対し、閣下のお力によって、ここにおるこれほど多くの兵士とともに、それがしが救われたゆえであります』。こう言ってミヌキウスはファビウスを抱擁した。すると兵士たちも互いに同じように抱き合っていた。こうして陣営は喜びとうれし涙に満ちた。」『英雄伝2』、著者:プルタルコス、訳:柳沼 重剛
ミヌキウスの敗戦はローマ軍の結束をより深め、その噂がローマに広まり、兵士の手紙によっても確認されたことで、人々はファビウスを絶賛した。彼の評価はローマだけでなく、カルタゴ陣営にも広がった。これまで二年間、ローマ軍を侮り、母国で伝え聞いた強力なローマ軍とは異なると考えていた者たちの認識を根底から変えたのである。もちろん、ハンニバルもその一人であった。
戦場を去る際に、彼はこう言い残した。「久しく山の上にくすぶっていた雲がついに暴風雨をもたらした。」リウィウスはそう記述している。この言葉こそ、当時のファビウスを的確に表現している。
ハンニバルは、予測通り、今対峙している敵が過去に戦った将軍たちとは違い、容易ならぬ相手であることを改めて悟った。そして、相手にとって不足はないと考える一方で、恐怖さえ感じ取っていた。フビウスの洞察力や慎重な作戦は、これまで戦った司令官たちの慢心や向こう見ずな行動とは異なり、大きな障壁としてカルタゴ軍の前に立ちはだかったのである。
かつて「のろまな亀」と揶揄されたファビウスは、今や「ローマの盾」へと姿を変え、多くの人々にその有能さを証明したのである。
こうして両軍は冬営の準備に入った。
【新しい執政官】
ここで再び、ポリュビオスとリウィウスの書を中心に書き進めて行こう。
ローマでは執政官選挙の季節が訪れ、独裁官として任務を遂行していたファビウスの6カ月の任期は終わろうとしていた。しかし、任期を迎えファビウスとミヌキウスは独裁官としての権限を失ったが、二人の独裁官の退任後も、「ファビアン戦略」は継続された。ファビウスは退任に際しイベリア戦線での海軍指揮を終え、さらにカルタゴ本国との戦いを終えてシチリアへ帰港した前執政官グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスに手紙を送り、イタリアへ戻るよう命じた。同時に、トラシメヌス湖畔の戦いで戦死したフラミニウスの後任のコンスルであったマルクス・アティリウス・レグルスも招集した。こうして、ファビウスの軍はアティリウス・レグルスに、ミヌキウスの軍はセルウィリウス・ゲミヌスにそれぞれ引き継がれた。この二人は「ファビアン戦略」を継続し、軍の指揮官としてカルタゴ軍との戦いにおいて直接対決を避けながら軍需品や食料補給を妨害し、敵の戦力を徐々に弱体化させる作戦を実行した。もしこの戦略が続いていれば、ハンニバル軍は補給不足に陥り、最終的にガリアへ撤退せざるを得なかっただろうとリウィウスは記述している。その意味は、この後始まる執政官選挙が難航し、色々な経緯を経て新執政官が決まることで情勢が変わることを示唆している。
またリウィウスは、それ以外にローマで起きた出来事について触れているので紹介しよう。
ゲルニウムでの戦闘が一時休止となっている中、カンパニア地方のネアポリス(現ナポリ)からローマに使節がやって来た。彼らは元老院議事堂に40個の金杯を持ち込んだ。そしてこう言った。「ネオポリスは、現在ローマの国庫が戦争で空になりかけているのを知っています。カルタゴとの戦いは、ローマのみではなく我々同盟都市のためにも行われているのです。だから、祖先が残した貯えをローマに提供しその恩に報います。兵力の支援についても、同じような熱意をもって報いる覚悟です」。ネオポリスの熱意に対して、ローマは謝意をつたえ、最も軽い杯を受け取ったとある。その他にも様々な細かい国政についての出来事が記述されている。これらを評して、リウィウスはローマという国がたとえ戦争中であってもあらゆることに最善の策を施し、手抜きをしない国であると記述している。
さらに、リウィウスはファビウス退任後のコンスル選挙が難航し、その争いについても記述しているので紹介しよう。
この選挙は、コンスルの指揮権を1年延長することにし、そのために「父たち」によって中間王が任命された。というのはコンスル選挙が難航した場合、一時的な統治者として中間王を任命する制度がとられていたからである。ここで言う父たちとは、注記からするとどうやら「貴族」または「元老院議員」のことらしいが、このとき中間王を任命したのが何者かについては学説上の議論がなされているために訳を父たちとしたようだ。とにかく、その父たちが選んだ中間王には、アッピウスの子ガイウス・クラウディウス・ケント、そして次にプブリウス・コルネリウス・アシナが任命された。
では、そもそも何故この執政官選挙は最初から難航したのであろうか。それは、やはりその背景に「ファビアン戦略」をめぐる政治的な対立が大きく関係していたと考えられる。ファビウスはカルタゴ軍に対して慎重な戦略で対応した。この戦略は元老院の一部では支持されたが、従来のローマの軍事的な伝統からすれば消極的だと取られた。特に平民層からの反発があり、ローマ国内における「ファビアン戦略」の是非が問われ、意見の対立が起きていたことがうかがえる。つまり、貴族層の内部においても、さらに貴族層と平民層との間にも政治的な対立が複雑に絡み合って選挙が難航したことが考えられるのである。
父たちによって選ばれたガイウス・クラウディウス・ケントとプブリウス・コルネリウス・アシナは、中間王として難航する選挙の調整を行ったが、彼らはその政治的にも軍事的な経験が、独裁官になる要件を満たしていないことから排除された。そして結局貴族層からは、第二次イリュリア戦争での成功を収めた経験と、軍事的指導力を持つ人物として、ルキウス・アエミリウス・パウッルス(以後「アエミリウス・パウッルス」と書く)が執政官に選ばれた。もちろんその根底には、「ファビアン戦略」を理解し、無謀な戦いより慎重な戦略を選択する人物であるとみなされたからである。
一方で、平民層の支持を受けて選ばれたのはガイウス・テレンティウス・ウァッロ(以後「ガイウス・テレンティウス」と書く)であった。彼はアエミリウス・パウッルスと異なり戦争積極派の執政官であった。
このガイウス・テレンティウスとアエミリウス・パウッルスの執政官就任に関して、プルタルコスが分かりやすくその内容を詳細に記しているので、少し長くなるが紹介しよう。
「ガイウス・テレンティウス・ウァロという、名もない氏の出で、民衆に取り入っては,向こう見ずに行動することをもって聞こえた者が執政官に選任されるに及んで、その経験不足と軽はずみゆえに、国運を一挙に賽のひと振りに賭けるであろうことは目に見えていた。現に彼は民会において、国がファビウスごときを将軍として用いるかぎり戦争はつづくであろう。こう演説するや、彼は、かつてローマ人がいかなる敵に対しても動かしたことがないほどの大軍勢を招集した。その数九万に足らざること二千を戦地に送ったのである。これはファビウスをはじめ心あるローマ人にとっては恐怖の種となった。これほどの若者を投入して、ひとたび敗れようものなら、ローマはふたたび立ち上がることなど期待し得ないことは明白だからである。そこで、テレンティウスの同僚執政官でアエミリウス・パウルスという、戦争の経験は十分だったが民衆の受けがよくない、そして何か公のことで裁判沙汰になって罰金を科せられたために民衆に対して臆病になっていた者に、ファビウスは声をかけて励まし、テレンティウスの狂信に歯止めをかけようと図って、ことハンニバルに関しては、戦いは、ハンニバル自身よりはむしろテレンティウスを相手とすべきであると教えた。
今や双方ともに決戦に逸っているが、一方は己の力を知らぬがゆえにかく逸り、他方は己の弱みを知ればこそ逸っているのだと説いた。『なあ、パウルス、ハンニバルに関しては、テレンティウスよりわしを信ずる方が正しいと確信しておるが、もしこの一年、ハンニバルに対してだれも戦いをしかけなければ、かの者はここに留まって滅びるか、ここから去って逃げ落ちるのだ。現在彼は勝利を挙げて、局面を支配していると思われているが、その今でさえ、彼の敵にして彼の軍に組み込まれた者はなく、また、彼が国元より率いて参った軍勢は、今やその三分の一を残すのみとなっているのだ』。パウルスはこう答えたという、『ファビウス閣下、もし己のことのみ考えますならば、己の意志に反して市民らの投票を受けるよりは、敵の槍に打たれて倒れる方がましなりと考えます。がしかし、国家の情勢が仰せのごとくであるならば、およそ、閣下に対して反対を唱えることをそれがしに強いる人々にくみするよりは、すぐれた将軍なりと閣下より認められるよう、あい努めまする』。パウルスはこういう気持ちを胸に抱いて、戦線へと向かった。」『英雄伝』著者:プルタルコス、訳:柳沼 重剛
こうして、難航していた新執政官選挙は、二人の執政官の選出をもって決定したのである。プルタルコスの記述により、二人の執政官について読者に明確に伝えられているが、さらに注目すべき点は、ファビウスがアエミリウス・パウッルスの就任に深く関与し、貴族層の考え方を理解できる人物を選定し、決定へと導いたことである。また、「ファビアン戦略」が功を奏し、彼の鋭い洞察力によってカルタゴ軍の状況を的確に分析していた。「彼の敵にして彼の軍に組み込まれた者はなく、また、彼が国元より率いて参った軍勢は、今やその三分の一を残すのみとなっているのだ。」という言葉は、まさにハンニバルの戦況と心理を見透かしていたことを示している。この時点で、ファビウスの戦略的洞察力はハンニバルを圧倒していたと言えるだろう。
カルタゴ軍の現状を見れば、遠征による輜重問題が常に付きまとい、兵員の補充もままならない状況が続いていた。さらに、遠征当初の目的であったローマ同盟都市の切り崩しは、予想以上に困難を極めた。ファビウスが語るように、「現在彼は勝利を挙げて、局面を支配していると思われているが」という言葉の裏には、ハンニバルこそが決戦を求めていることが示唆されている。そしてカルタゴ本国に目を向ければ、イタリアからシキリア、そしてイベリア近海での制海権をすでに失っていたのである。
ローマ元老院が新たに二人の執政官を任命し、ハンニバルとの戦いの準備を開始した頃、カルタゴ軍にも動きがあった。ハンニバルは、冬営地としていたゲルニウムから軍を移動させ、カンナエの城塞を占拠した。この移動の目的は、ローマ軍を決戦へと誘い込むためにカンナエという戦略的な城塞都市を掌握することにあった。
カンナエは現在のイタリア・プッリャ州バルレッタ近郊にあり、オファント川(旧アウフィドゥス川)の右岸に位置していた。この町は、カヌシウム近郊で収穫された穀物の集積地であり、今回のローマ軍の食料もこの町から供給されていた。カルタゴがこの城塞都市と備蓄庫を掌握したことで、ローマ軍は食料供給源が断たれるだけでなく、周辺地域の防塞拠点の要をも失うことになった。
この事態を受け、地域の指揮官(ミヌキウスの軍を引き継いだセルウィリウス・ゲミヌス)は、ローマ本国に何度も使者を送り、対応を求めた。その回答としてローマは敵との交戦を指示しながらも、指揮官ゲミヌスには開戦をいましばらく控えるように命じた。そして、新たに選ばれた二人の執政官をこの地へ派遣することを決定した。
こうして、ファビウスから「ファビアン戦略」を授けられたアエミリウス・パウッルスと、プルタルコスが「向こう見ずに行動する」と記したガイウス・テレンティウスが戦場へと向かうことになった。
そして、ローマ軍を決戦へと引き込むべく、ハンニバルが彼らを待ち構えていたのである。
(ハンニバル・バルカ/第5章 第2次ポエニ戦争 第5節「カンナエの戦い」に続く)

(共和制ローマ時代に「ネアポリス」と呼ばれたナポリ。ナポリ湾の奥にはカプリ島が望める。/ナポリ/イタリア)。

(ポンペイは、紀元前6世紀頃から栄えた商業都市で、裕福な商人や貴族の邸宅があったが、紀元79年ヴェスヴィオ火山の噴火で埋没した都市である。/ポンペイ/イタリア)

(発掘によって甦ったポンペイ遺跡/ポンペイ/イタリア)

(円形闘技場/ポンペイ/イタリア)
出典: | 「Wikipedia」 |
「Wikiwand」 | |
「Hitopedia」 | |
「Historia」 | |
「AZ History」 | |
「Weblio辞書」 | |
「世界史の窓」HP | |
「やさしい世界史」HP | |
「世界図書室」HP | |
CNN 2016年4月5日掲載記事 | |
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生 | |
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和 | |
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井 萌 | |
「英雄伝」著者:プルタルコス・訳:柳沼重剛・訳:高橋 宏幸 | |
「ポエニ―戦争の歌」著者:シーリウス・イタリクス | |
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆 | |
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義 | |
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫 | |
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子 | |
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二 | |
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭 | |
『カルタゴの遺書 ある通商国家の興亡』著者:森本哲郎/td> | |
『アルプスを越えた象』著者:ギャヴィン・デ・ビーア・翻訳:時任生子 | |
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】 | |
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会 | |
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】 | |
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館 | |
「世界図書室」HP | |
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ | |
「「鐙━その歴史と美━」発行者:野馬追の里原町市立博物館」 | |
「トラスメヌス湖畔の戦い戦図/フランク・マティーニ。アメリカ陸軍士官学校歴史学科地図製作者(フランク・マルティーニがウィキペディアの「米国陸軍士官学校歴史学科」の内容を使用する許可の引用)」 | |
「トラシメヌス湖畔の戦いで斬首されたフラミニウス絵画/フランスの歴史画家:ジョゼフ・ノエル・シルヴェストル作/ウィキペディアより」 | |
筆者画像:ナポリ画像 | |
筆者画像:ポンペイ画像3枚 |
【ハンニバル・バルカ】